幽霊零戦
第11話 幽霊零戦
セイロン沖海戦の後、日本海軍の作戦室には重い空気が流れていた。
勝利。
結果だけを見れば、そう記録される戦いだった。
敵機多数撃墜。
味方損害軽微。
作戦目的も達成。
参謀たちの前に並べられた報告書には、そう書かれている。
だが、そこにいる者たちの顔は晴れなかった。
理由は一つ。
戦闘中に現れた、所属不明の零戦だった。
「もう一度聞く」
上座に座る参謀長が、低い声で言った。
「その機は、我が航空隊所属の機ではないのだな」
報告に立っていた若い飛行隊長が、背筋を伸ばした。
「はい。少なくとも、当隊の所属機ではありません」
「母艦は」
「不明です」
「発艦記録は」
「確認できません」
「機体番号は」
飛行隊長は少し言葉に詰まった。
「確認できませんでした。戦闘中、敵味方の機動が激しく、尾翼番号を正確に読むことは不可能でした」
参謀の一人が眉を寄せる。
「では、ただの誤認ではないのか」
「いいえ」
飛行隊長は即座に否定した。
「あの機は確かにいました」
作戦室が静かになる。
「我々は敵の新戦術に苦戦していました。二機一組で交差し、追った機を僚機の射線へ誘い込む。零戦の旋回性能を封じるような戦い方です」
参謀の一人が唸った。
「敵も学んできたか」
「はい。あのままなら、被害はもっと大きくなっていたはずです」
「それを、その所属不明機が救ったと」
「はい」
飛行隊長の声は硬かった。
「その機は、敵の編隊の中心を崩しました。一機を落とすだけではありません。敵の流れそのものを断ち切ったのです」
「流れを断ち切る?」
「はい。敵は二機で一つの動きをしていました。ですが、その零戦は逃げる敵を追わず、誘いの外側へ回り込みました。結果、敵の交差機動は崩れました」
作戦室の空気が変わる。
誰もが、その光景を頭の中で想像していた。
「それは熟練搭乗員の判断か」
「分かりません」
飛行隊長は正直に答えた。
「ただ、我々の知る零戦の機動ではありませんでした」
「どういう意味だ」
「旋回ではないのです」
その言葉に、数人の参謀が顔を上げた。
「その零戦は、曲がるのではなく、滑るように位置を変えました。敵の射線に入ったと思った瞬間には、もう別の場所にいる。撃った時には、すでに敵の背後です」
誰かが小さく呟いた。
「化け物か」
飛行隊長は否定しなかった。
その時、作戦室の後方に控えていた一人の搭乗員が、わずかに身じろぎした。
若い男だった。
名を、片桐徹と言う。
三上慎一と同じ隊にいた零戦乗りである。
参謀長が気付いた。
「何か言いたいことがあるのか」
片桐は一瞬だけ迷った。
だが、拳を握りしめると、一歩前へ出た。
「恐れながら、あります」
「言ってみろ」
片桐は唾を飲み込んだ。
「あの機体に、見覚えがあります」
作戦室の視線が一斉に集まる。
「見覚えだと」
「はい」
「どこの機だ」
片桐は、ゆっくりと言った。
「三上慎一の機だと思います」
その瞬間、作戦室の空気が凍った。
参謀の一人が眉を吊り上げる。
「馬鹿なことを言うな。三上は戦死したはずだ」
「分かっています」
片桐の声は震えていた。
「ですが、あの左翼の補修跡。風防の後ろにあった傷。主翼の根元の色の違い。見間違えるはずがありません」
参謀長が低く聞いた。
「三上慎一とは」
「私と同じ隊にいた搭乗員です」
片桐の目が、遠くを見るように揺れた。
「少し不器用な男でした」
誰も口を挟まなかった。
片桐の声だけが、作戦室に残る。
「三上は操縦が下手ではありません。ですが、派手な空戦をする男でもありませんでした。真面目で、慎重で、どちらかと言えば真っ直ぐ飛ぶ男です」
記憶の中の飛行場が、片桐の胸に浮かんでいた。
夕方の滑走路。
油の匂い。
整備兵の怒鳴り声。
三上が、申し訳なさそうに頭を下げている。
「また着陸で脚を痛めたのか、三上!」
整備兵が怒鳴る。
三上は困ったように笑った。
「すみません。少し、横風に食われました」
「少しじゃない! お前の少しで整備班は徹夜だ!」
周りの搭乗員たちが笑った。
片桐も笑った。
三上も、照れくさそうに笑った。
出撃前、三上はよく手袋をはめ直していた。
緊張している時の癖だった。
「片桐」
ある日の朝、三上が言った。
「帰ったら飯を食いに行こう」
「またそれか」
片桐は笑った。
「お前は出撃前になるといつも飯の話だな」
「腹が減ると、ろくなことを考えない」
「戦闘中に考えるなよ」
「分かってる」
三上は笑った。
それが、片桐が覚えている最後の笑顔だった。
その日、三上は帰らなかった。
片桐は、もう一度現実へ戻った。
作戦室の中で、誰も喋らない。
「三上は死にました」
片桐は言った。
「それは分かっています。私も、そう聞きました。ですが、今日の空にいた零戦は、三上の機です」
参謀長が険しい顔で問う。
「では、乗っていたのも三上だと言うのか」
片桐は首を振った。
「分かりません」
「分からない?」
「はい。機体は三上のものに見えました。ですが、あの飛び方は三上ではありません」
作戦室に、また沈黙が落ちる。
「三上は、あんな飛び方をしません」
片桐の声は静かだった。
「敵の誘いを外から崩す。射線に入ったと思った瞬間、もうそこにいない。あんな機動は、私たちの知る零戦の動きではありません」
参謀の一人が呟いた。
「では、誰が乗っている」
誰も答えられなかった。
勝利したはずの作戦室に、得体の知れない影が落ちていた。
味方を救った零戦。
だが、所属は分からない。
母艦も分からない。
発艦記録もない。
そして、その機体は死んだはずの男の零戦に似ていた。
「幽霊か」
誰かが小さく言った。
参謀長はその言葉を叱らなかった。
「この件は、軽々しく口外するな」
参謀長は言った。
「所属不明機については、引き続き確認を進める。だが、現時点では味方機として扱う」
「味方機、ですか」
「あの機が現れなければ、今日の損害はもっと大きかった」
誰も否定しなかった。
片桐は黙って拳を握った。
三上。
お前なのか。
いや、違う。
あれはお前じゃない。
でも、あれは確かにお前の機だった。
作戦室の外では、整備兵たちの声が響いていた。
戦いは終わった。
だが、ひとつの噂が、静かに広がり始めていた。
セイロン沖に現れた所属不明の零戦。
死んだはずの三上慎一の機。
戦場にだけ現れ、味方を救い、名乗らず消える零戦。
それはまだ、正式な記録には残らない。
だが搭乗員たちは、いつしかその機体をこう呼ぶようになる。
幽霊零戦。




