一機の衝撃
第108話 一機の衝撃
ヌメア基地の作戦室では、朝から同じ地図が机いっぱいに広げられていた。ニューカレドニアからエファテ、エスピリトゥサント、その先のソロモン方面へ伸びる航路には、輸送船の予定位置や護衛艦の配置、航空機の移送先が細かな文字で書き込まれていたが、今では赤鉛筆で引かれた線と大きな×印の方が目立っていた。
「エスピリトゥサントにいた船は十隻、すべて沈没。港湾設備も使えるものは限られています。格納庫と燃料施設の被害も大きい。このままでは航空隊を補充しても受け入れられません」
兵站担当の大佐が被害報告を机に置くと、作戦参謀が険しい顔で地図を覗き込んだ。
「十隻全部か」
「全部です。損傷ではありません。沈没です」
「代わりの輸送船をヌメアから出せないのか」
「船だけなら何とか集められます。しかし、その船を何で守ります?」
司令官が顔を上げた。
「護衛の駆逐艦を増やせ」
「何隻にします?」
大佐は淡々と聞き返した。
「二隻では足りませんか。四隻なら安全ですか。それとも巡洋艦まで付けますか。今回沈められたのは、丸腰の輸送船だけではありません」
作戦室が静かになった。
誰もが同じことを考えていた。護衛を増やせば安全になる。それがこれまでの常識だった。しかし、エスピリトゥサントで起きたことを見れば、その常識をそのまま使っていいのか誰にも判断できなかった。
航空参謀が口を開いた。
「航空機なら直接飛ばす手もあります。少なくとも戦闘機だけなら、条件を整えれば移動できます」
「それで航空隊になるのか?」
兵站担当の大佐が横を見る。
「整備員はどうする。予備エンジンは。交換部品、弾薬、潤滑油、工具、無線機材は空を飛ばんぞ。それにエスピリトゥサントは燃料施設までやられている。機体だけ並べても、燃料がなければただの置物だ」
「なら先に燃料を送る」
「タンカーを入れますか?」
「そうするしかないだろう」
「そのタンカーを守る艦は?」
また同じ場所へ戻った。
朝から何度目かわからない。燃料を送るにはタンカーがいる。タンカーを守るには駆逐艦がいる。その駆逐艦を輸送路へ回せば別の海域が手薄になる。航空機で守ろうとしても、その航空機を動かす燃料や部品を運ぶために、やはり船が必要になる。
司令官は椅子を離れ、壁に掛けられた南太平洋の地図の前まで歩いた。
「船団を小さく分けるのはどうだ。一度に十隻も並べなければ、被害は減らせる」
「護衛も分散します」
「夜間航行は?」
「相手が夜に飛べないという保証がありません」
「天候を利用する」
「それでは、こちらの補給計画を日本軍ではなく天気に決めてもらうことになります」
その言葉にも笑う者はいなかった。
米軍には物量がある。失った飛行機を補うだけの生産力があり、船も燃料も弾薬も本国から送り出されてくる。それがアメリカの強さだった。
だが、物は作るだけでは戦力にならない。必要な場所まで届けて初めて戦力になるのだ。
今、その当たり前のことが一機の零戦によって揺さぶられていた。
「本国から戦闘機四十八機が届く予定です」
新しい輸送予定表を持ってきた士官が言った。
司令官が振り返る。
「いつだ」
「今月中です。それ以外にも予備エンジンと部品が届きます」
「なら、それを前線へ回せば少しは立て直せる」
兵站担当の大佐は予定表を受け取ると、しばらく眺めてから机へ置いた。
「問題は、そこから先ですよ」
「何がだ」
「その四十八機と部品を、どうやってエファテやエスピリトゥサントへ送るんです?」
また誰も答えなかった。
司令官は深く息を吐き、机の上に置かれた被害写真へ目を向けた。その中には、エスピリトゥサントで沈められた船が写っていた。船体は爆発で破れたのではなく、前後に断たれている。一本の巨大な刃を真横から通したような、異様な壊れ方だった。
「例の光は、まだ正体がわからんのか」
「わかりません。白く見えたという証言と、薄い紫だったという証言があります。ただし複数の兵士が、光が通った直後に船体が切断されたと話しています。砲弾でもロケットでもないようです」
司令官は写真を手に取ったまま黙っていたが、ふと顔を上げた。
「以前の資料を持ってこい」
「以前?」
「ガダルカナルへ向かった艦隊が、あの青い零戦にやられた時のものだ。空母も戦艦も輸送船も被害を受けただろう」
ほどなくして、保管されていた写真と報告書が机に並べられた。
作戦室の空気が変わった。
前回の写真には、飛行甲板を切り裂かれた空母が写っていた。戦艦も上部構造物を破壊され、輸送船も甲板を大きく失っている。どの艦も戦闘や航空運用を続けられる状態ではなかったが、少なくとも船体そのものは海に浮いていた。
その横に、今回の写真が置かれた。
違いは明らかだった。
「兵器の威力が上がったんでしょうか」
若い参謀が言った。
兵站担当の大佐は、すぐには答えなかった。前回の空母の写真を持ち上げ、切断された飛行甲板をじっと見てから、今回の写真へ視線を移した。
「そうは見えんな」
「なぜです?」
「前回を見ろ。甲板だけじゃない。上部構造物も、必要な場所を狙って正確に切っている。これだけ狙えるものが、船体を切れなかったとは思えん」
航空参謀も写真を覗き込んだ。
「つまり……」
大佐は答えず、今回の写真を指した。
「今回は十隻全部だ。どの船も、浮かせておくつもりが最初からない」
司令官がゆっくりと前回の写真を机へ戻した。
「前は、沈めなかっただけだというのか」
その言葉に、作戦室の全員が黙った。
前回、米艦隊が助かったのは運が良かったからではない。
相手が甲板を狙った。
空母も戦艦も輸送船も、戦闘能力や輸送能力だけを奪い、船体そのものには致命傷を与えなかった。
今回とはまるで違う。
「手加減していた……?」
誰かが小さく呟いた。
司令官は否定しなかった。否定できる訳がなかった。
「本国への報告に、この比較も入れろ」
「推測になりますが」
「それでいい。十隻全部を同じように沈めたんだ。偶然では済まん」
副官が頷いた。
「増援要請も入れますか?」
「もちろんだ。ただし、船を増やせば解決するという書き方はするな。こちらが困っているのは船の数だけじゃない」
司令官は地図を見た。
「運び方そのものだ」
作戦室の隅で、再びタイプライターの音が響き始めた。
*
数日後、ワシントン海軍省。
会議室の机には、二つの戦闘の写真が並べられていた。
一方はガダルカナルへの攻撃を阻止された時の米艦隊。飛行甲板を切られた空母、上部構造物を破壊された戦艦、甲板を失った輸送船。
もう一方は、今回のエスピリトゥサント。
船体を真っ二つにされ、海へ沈んだ十隻の船。
海軍高官の一人が、何度も写真を見比べていた。
「同じ兵器だというのか?」
「切断面と目撃証言には共通点があります。少なくとも、同じ青い零戦による攻撃である可能性は高いと判断されています」
「では、なぜ前回は沈んでいない」
情報将校は少し間を置いた。
「現地からも同じ疑問が上がっています」
「兵器が改良された?」
「その可能性はあります。ただ、技術班は別の見方もしています」
「聞こう」
「前回も、船体を切断できるだけの能力はあったのではないかと」
会議室が静まった。
「それなら、なぜやらなかった」
「わかりません」
「空母もあったんだぞ」
「はい」
「戦艦もだ」
「はい」
「沈められるのに沈めなかったと?」
「現時点では、その可能性を否定できません」
高官は椅子にもたれた。
強力な敵兵器なら理解できる。新しい兵器が戦場へ投入されることもある。
だが、強力な兵器を持ちながら、破壊する程度を意図的に選んでいたとなれば話が違う。
「この資料は大統領府へ回せ」
「すべてですか?」
「すべてだ。前回との比較も含めろ」
*
ホワイトハウス。
ルーズベルトの机の上にも、同じ二組の写真が置かれていた。
向かいにはアインシュタインが座っている。
ルーズベルトは今回の被害報告を読み終えると、十隻の船がすべて沈没したことを確認し、前回の写真へ目を移した。
「博士。あなたには以前、この写真を見てもらったな」
「ええ」
アインシュタインは飛行甲板を切られた空母の写真を手に取った。
その時点でも、彼はこの破壊が通常の航空兵器によるものではない可能性を指摘していた。ただ、なぜ甲板や上部構造物だけを狙ったのかについては、推測する材料が足りなかった。
ルーズベルトは、今度はエスピリトゥサントの写真を差し出した。
「今回は十隻だ。すべて沈んだ」
アインシュタインは何も言わず、一枚ずつ写真を見ていった。
前回。今回。また前回。
しばらくして、彼は二枚の写真を並べた。
「兵器が強くなったと、海軍は考えているようだ」
ルーズベルトが言った。
アインシュタインは首を振った。
「違うと思います」
「違う?」
「兵器が強くなったのではありません」
ルーズベルトの視線が、アインシュタインへ向いた。
「では?」
アインシュタインは前回の空母の写真を指で軽く押さえた。
「ここを見てください。飛行甲板を失っています。しかし船体そのものには致命的な損傷を与えていない。戦艦も輸送船も同じです。もし今回と同じ原理の兵器なら、前回も船体を狙えたはずです」
「つまり?」
アインシュタインは、今度は真っ二つにされた船の写真へ指を移した。
「前回は、沈めなかったのです」
ルーズベルトは何も言わなかった。
「沈められなかったのではなく?」
「おそらく」
「意図的にということか?」
「そう考える方が、二つの結果を自然に説明できます」
ルーズベルトは椅子の背へ身体を預けた。
前回、ガダルカナルへ向かった艦隊は壊滅的な損害を受けた。それでも、多くの艦は沈まなかった。
当時は、それを幸運と考えた者もいた。
だが違ったのかもしれない。
相手が沈めなかった、それだけだったのかもしれない。
「なぜだと思うかね?」
ルーズベルトが尋ねた。
アインシュタインはしばらく写真を見ていた。
「それは物理学では答えられません」
「では、何なら答えられる」
「その飛行機を操縦している人間でしょう」
ルーズベルトの表情がわずかに変わった。
アインシュタインは続けた。
「私が気になるのは兵器ではありません。前回と今回の間で、その人間の判断が変わったことです」
机の上には、沈まなかった空母と、真っ二つになった船が並んでいる。
同じ一機。同じ兵器。そして、違う結果。
ルーズベルトは長い間、その二枚を見比べていた。
「……何が彼を変えた」
その問いに、アインシュタインも答えなかった。
その答えを知っている者は、アメリカにはまだ一人もいなかった。




