青い恐怖
第107話 青い恐怖
エファテ島の米軍基地に、エスピリトゥサント島から最初の緊急電が届いたのは日が落ちて間もなくのことだった。通信室の兵士は受信した内容を読み返し、意味を理解できずに眉をひそめた。
「攻撃を受けたそうです」
当直将校が顔を上げる。
「規模は?」
「敵機一機」
「一機?」
「零戦です」
将校はしばらく黙ったあと、紙を取り上げた。
「被害は?」
「駐機中の戦闘機、爆撃機多数喪失。格納庫壊滅。燃料貯蔵施設炎上。港湾荷役設備使用不能」
「一機で?」
「さらに輸送船、補給艦十隻沈没」
将校の表情が消えた。
「攻撃機の数を聞いているんだ」
「ですから、一機です」
通信室が静まり返った。
報告はすぐに基地司令部へ回された。会議室には司令官をはじめ航空隊の指揮官、整備責任者、対空砲隊の将校が集まり、その端にハーパーとリチャードもいた。二人の前には、改めてエスピリトゥサント島から届いた戦果報告が並べられている。
「攻撃時間は?」
司令官が尋ねた。
「正確な計測はできていません。ただ、最初の攻撃から敵機の離脱まで一分に満たなかったとの報告です」
誰かが小さく笑った。
「馬鹿な」
別の将校が首を振る。
「戦闘機数十機、燃料施設、格納庫、港湾設備、船十隻を、一分で?」
「現地はそう報告しています」
「爆撃機編隊を見落としたんじゃないのか」
「見張り員は零戦一機しか確認していません」
「では艦砲射撃だ」
「海上からの砲撃も確認されていません」
部屋の中に沈黙が落ちた。
ハーパーは報告書から目を離さなかった。
「機体はどう壊された」
情報将校が資料をめくる。
「妙な報告です。駐機していた機体の多くが斜めに切断されています。プロペラ、エンジン、胴体が一続きに切られている」
リチャードがゆっくり顔を上げた。
「船は?」
「船体中央で前後に分断。十隻すべてです」
ハーパーとリチャードが視線を合わせた。
それだけで十分だった。
「あいつだ」
リチャードが言った。
司令官が二人を見る。
「何がだ」
「Blue Zeroです」
「断定できるのか」
「できます」
ハーパーが答えた。
「俺たちは戦った。通常の零戦じゃない。あの機体ならやる」
「一機で基地を?」
「一機だからです」
司令官の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「編隊なら見つかる。爆撃機なら接近に時間がかかる。あいつは海面を使って近づき、見つかる前に攻撃を終えた。エスピリトゥサントの連中は、戦闘を始める前に負けたんです」
「そんな馬鹿な話があるか」
「あります。もう起きた」
会議室の空気が変わった。
基地司令部は即座に警戒態勢を引き上げた。対空砲隊は全員配置、サーチライトは夜間即応、戦闘機は可能な限り燃料と弾薬を積んだ状態で待機することになった。沿岸監視所には、空だけでなく海面も見ろという命令が出た。
しかし命令が広がるほど、兵士たちの間には別のものが広がっていった。
恐怖だった。
滑走路脇で整備をしていた兵士が、二機のPhantom Hunterを見上げた。
「こいつなら勝てるんだろ?」
隣にいた整備兵が答えなかった。
「なあ」
「俺に聞くな」
「でも新型なんだろ。ゼロを倒すための」
「十五機は倒した」
「じゃあBlue Zeroも」
「知らん」
それ以上、誰も話さなかった。
夜が深くなるにつれ、基地は妙な静けさに包まれた。いつもなら聞き流す輸送車のエンジン音にも、見張り兵が振り返る。遠くを飛ぶ味方機の音が聞こえただけで、対空砲員が一斉に空を見上げた。
「敵機か!」
「違う、味方だ!」
「海面を見ろ!」
サーチライトが何本も海へ伸びる。
波しかない。
しばらくして別の見張り員が叫んだ。
「右手、何か動いた!」
全員が同じ方向を向く。
そこにも何もいなかった。
「魚だ」
「魚にサーチライトを向けるな」
「じゃあお前が見張れ」
苛立った声が飛び交う。
ハーパーとリチャードは滑走路脇に立ち、その様子を黙って見ていた。
「完全に怯えてるな」
リチャードが言う。
「無理もない」
「俺たちもか?」
ハーパーは答えなかった。
リチャードが苦笑する。
「否定しないのか」
「十五機を落とした翌日に、エスピリトゥサントがやられた」
「偶然かもしれない」
「そう思うか?」
リチャードは黙った。
「奴は今まで戦場に現れた。こっちが飛んで行けばいた。だが今回は違う」
「向こうから来た」
「ああ」
ハーパーは暗い海へ目を向けた。
「それが一番まずい」
突然、遠くで航空機のエンジン音が聞こえた。
滑走路脇の兵士たちが一斉に動いた。
「来たぞ!」
「方位は!」
「待て、まだ見えない!」
サーチライトが空を切り、対空砲の砲身が回る。
リチャードが声を張った。
「落ち着け!」
兵士たちの動きが止まる。
「奴が本当に来たなら、騒いでいる暇なんかない!」
誰も何も言わなかった。
その意味が、全員に伝わったからだ。
エンジン音の正体は味方の輸送機だった。基地へ着陸した機体を確認しても、誰も笑わなかった。
深夜、二機のPhantom Hunterは燃料と弾薬を満載したまま、滑走路脇に置かれていた。整備兵も操縦士も、誰も眠っていない。
ハーパーは機体の横に立ち、暗い海を見ていた。
「リチャード」
「なんだ」
「あいつは、どこまで飛べると思う?」
リチャードの表情から、わずかに笑みが消えた。
「……考えたくないな」
エスピリトゥサントまで来た。
なら、ここまで来ないという保証はどこにもない。
遠くで、また何かのエンジン音がした。
二人は同時に海を見た。
滑走路脇の対空砲も、ゆっくりと同じ方向を向く。
暗い海には、何も見えない。
それでも誰一人、視線を外そうとはしなかった。




