エスピリトゥサント島
第101話 エスピリトゥサント島
ラバウル、第十一航空艦隊司令部。
塚原二四三中将は、参謀から差し出された報告書に目を通していた。
ガダルカナル飛行場では滑走路の整備が進み、航空機への給油や弾薬補給も本格的に行えるようになっている。まだ十分とは言えないが、前線基地として使うには問題のない状態まで整っていた。
「ようやく、ここまで来たか」
塚原は報告書を机に置き、壁に広げられた南太平洋の航空図へ目を向けた。
北にはラバウル。
その南東にガダルカナル。
二つの航空拠点を結べば、日本軍の行動範囲は大きく広がる。ラバウルから直接では届きにくかった海域にも、ガダルカナルを中継地として航空戦力を送り込めるようになる。
参謀の一人が口を開いた。
「ガダルカナルに戦闘機隊を常駐させれば、ソロモン方面の制空はさらに安定します」
「ああ。それだけではない」
塚原は立ち上がると、航空図の前まで歩いた。
「ラバウルとガダルカナル。この二つがあれば、我々は守るだけでなく、次の一手を打てる」
日本軍はこれまで、慎一の零戦によって幾度も大きな勝利を得ていた。
だが、塚原は一機の力だけを当てにするつもりはなかった。戦局を動かすには、基地、燃料、航空機、そして正確な情報が必要になる。
塚原の指が、ガダルカナルからさらに南東へ伸びた。
エスピリトゥサント島。
連合軍が航空基地を拡張していると見られる島だった。
「この島の状況が分からんままでは、次の作戦は立てられん」
「偵察機を出しますか」
「通常の偵察機では、敵戦闘機に捕捉された時に逃げ切れん可能性がある」
塚原はしばらく航空図を見つめた後、静かに命じた。
「零戦十五機をガダルカナルへ進出させろ。到着後、燃料を補給し、エスピリトゥサント島の偵察を行わせる」
参謀たちの表情が引き締まる。
「十五機も出しますか」
「敵地深くへ入る任務だ。少数では、発見された時に帰れなくなる」
塚原は地図上のエスピリトゥサント島を指で押さえた。
「確認するのは、滑走路の数、駐機している航空機、燃料施設、それに艦船の有無だ。交戦が目的ではない。敵機が上がってきた場合は、無理をせず離脱させろ」
「はっ」
「何よりも情報を持ち帰ることを優先しろ。戦果など必要ない」
命令は直ちに各所へ伝えられた。
その日の午後、十五機の零戦がラバウル飛行場の滑走路に並んだ。
増槽を取り付けた機体の周囲を、整備兵たちが忙しく動き回っている。燃料の確認、機銃の点検、発動機の調整。どの作業にも、普段の迎撃任務とは違う緊張が漂っていた。
隊長機の操縦席に乗り込んだ男が、後ろを振り返る。
十四機の零戦が、一定の間隔を空けて並んでいた。
今回の任務は空戦ではない。
ガダルカナルまで飛び、そこで給油を受けた後、さらに南東へ向かう。敵基地の上空を通過し、確認した情報を持ち帰る。それだけだ。
だが、敵の勢力圏へ十五機もの零戦を送り込む以上、何も起きないとは誰も思っていなかった。
「発動」
整備兵が手を上げる。
次々と栄発動機が始動し、飛行場に重い排気音が広がった。
先頭の零戦が動き出し、その後を十四機が追う。
一機、また一機と滑走路を離れた零戦隊は、ラバウル上空で編隊を整えると、海の向こうにあるガダルカナルへ機首を向けた。
◇
数時間後。
十五機の零戦は、ガダルカナル飛行場へ無事に到着した。
滑走路の脇には、整備を終えた零戦や一式陸攻が並び、燃料車と弾薬車が絶え間なく動いている。少し前まで建設途中だった飛行場は、すでに前線航空基地として機能し始めていた。
着陸した零戦には、すぐに整備兵たちが駆け寄った。
「主翼内燃料を満タンにしろ!」
「発動機の油漏れも確認しろ!」
隊長は操縦席から降りると、飛行場の端に設けられた指揮所へ向かった。
そこで待っていた航空参謀が、机の上に地図を広げる。
「エスピリトゥサントまで、およそ八百数十キロです。往路は高度を取り、燃料消費を抑えてください」
「帰路の余裕は」
「偵察だけなら問題ありません。ただし、長時間の空戦になれば厳しくなります」
「戦うつもりはない」
隊長は即座に答えた。
「敵機が上がってきたら、編隊を崩さず離脱する。こちらの目的は基地を見ることだ」
参謀がうなずく。
「それが賢明です。敵の航空戦力については、まだ正確な情報がありません」
「その情報を持ち帰るのが、我々の仕事だ」
短い打ち合わせを終える頃には、給油と点検も完了していた。
十五機の零戦は再び滑走路へ並び、南東へ向けて飛び立った。
眼下に広がるのは、どこまでも続く青い海だけだった。
島影は少なく、雲もまばらだった。編隊は高度を保ち、発動機の回転を抑えながら巡航を続ける。
隊長は方位を確認し、後続機へ手信号を送った。
十五機は三つの小隊に分かれながらも、互いを見失わない距離で飛んでいる。
敵基地を発見した後は、一度上空を通過する。その間に各機が滑走路や駐機場を確認し、必要なら別方向からもう一度接近する予定だった。
時間が過ぎるにつれ、燃料計の針が少しずつ下がっていく。
やがて先頭を飛ぶ零戦の操縦士が、前方に陸地を見つけた。
「島影だ」
隊長も目を細める。
水平線の向こうに、濃い緑の山々が浮かび上がっていた。
エスピリトゥサント島。
十五機は高度を上げながら、島の北側から接近した。
海岸線を越えると、やがて森を切り開いた大規模な飛行場が見えてくる。
滑走路は一つではなかった。
周囲には格納庫、燃料施設、整備場が並び、駐機場には数多くの航空機が置かれている。
「予想以上だな……」
隊長の表情が険しくなる。
地上には多数のP-40が並んでいた。輸送機や爆撃機らしき機影も見える。滑走路の拡張工事も続いており、車両と人員が絶え間なく動いていた。
ここは単なる前進基地ではない。
連合軍は、この島を南太平洋における大規模な航空拠点へ育てようとしている。
「各機、見たものを忘れるな。滑走路は複数。駐機数も多い」
隊長が無線で伝える。
「一度通過した後、東へ離脱する。二度目の接近は行わない」
基地の規模は十分に確認できた。
これ以上とどまれば、敵戦闘機が上がってくる。
十五機の零戦が緩やかに旋回し、基地上空から離れ始めた。
◇
その頃、エスピリトゥサント島の監視所では、すでに警報が鳴り響いていた。
「北西より敵編隊!」
「機数、十五!」
「日本軍機です!」
指揮所に報告が飛び込む。
滑走路脇で待機していた操縦士たちが、一斉に機体へ走った。
だが、出撃命令を受けたのは駐機しているP-40ではなかった。
別の区画に置かれていた八機のコルセアが、次々と発動機を始動する。
そのさらに奥で、二機の濃いガンメタルの戦闘機が牽引車から切り離された。
六枚のプロペラ。
強化されたマーリン発動機。
日本軍がまだ存在すら知らない、新型戦闘機。
Phantom Hunter。
ハーパーは操縦席へ乗り込み、風防を閉じた。
隣の機体にはリチャードがいる。
整備兵が翼の下から離れると、ハーパーは発動機の回転を上げた。
「十五機か」
無線からリチャードの声が聞こえる。
「偵察隊だろう。基地を見て帰るつもりだ」
「ああ」
ハーパーは前方の滑走路を見据えた。
「帰すな」
二機のPhantom Hunterが動き出した。
その後ろには、八機のコルセアが続く。
十機の迎撃隊は次々と離陸し、基地上空で編隊を組むと、東へ離脱した零戦隊を追って高度を上げていった。
零戦隊はまだ、背後から迫る敵機の姿に気づいていなかった。
彼らが持ち帰ろうとしている情報よりも、はるかに危険なものが、すでに空へ上がっていた。




