第十話 祖母
旅行から帰ってきた後は、心が満ち足りた気分で毎日を送ることができた。
まだ具体的な日取りは決めていないが、結婚して家庭を持つということが、こんなにもモチベーションになるとは思っていなく、自分でも驚いている。
長い時間、故郷を離れていた僕は、家族愛のようなものを欲していたのかもしれない。
月曜日には吉岡さんに時間を作ってもらい、夕方に美咲と三人でレストランに行った。以前、僕から美咲に交際を申し込んだ店だ。旅行の土産を渡し、婚約の報告をすると泣いて喜んでくれた。
そして土曜日
先週と同じように、レンタカー店で車を借りて渋谷家に向かう。僕たちの行き先は、長野県の祖母が入居している施設。
母の兄である伯父は独身で、祖父が亡くなってからずっと祖母と二人暮らしをしていたが、祖母の認知症が重症化したため、五年ほど前から施設にお世話になっている。
旅行から戻ってきて、すぐに伯父に電話をした。
『俺はその日は仕事の当番で一緒に行けずにすまん。拓海だけ行ってやってくれ。俺も週に一回くらいは会いに行っているが、最近は息子の俺のこともわからない事が多くなっている』
以前から様子は聞いていたが、今では僕が行ってもわからない可能性は高い。伯父は、そんなことがあってもがっかりするなと言った。あまり悪いことばかり想像しても憂鬱になるばかり。今日も美咲と一緒なのだから時間を楽しもう。美咲は先週と同じで朝から上機嫌だ。
首都高から中央自動車道、今日も天気はよく道もそれほど混んでいない。
「さすがに、今日は美波から何も貰えなかった」
そう笑いながら、美咲がコンビニで買ってきたというチョコレートを口に入れてくれる。
十時半くらいに祖母の入居している施設に到着した。事前に面会の申し入れをしてあったので、受付で名前を告げるとすぐに対応してくれた。
「責任者の山岡です。わざわざ東京からお疲れ様でした」
「柏木です」
五十代くらいの女性と、二十代前半くらいの女性が対応してくれる。
「今日は天気がいいので、お庭でお話しましょうか。柏木さんお願いします」
山岡さんがそう言うと、柏木さんが廊下の奥のほうへ歩いて行った。廊下の左右にはいくつかのドアが見えるが、祖母はそのどこかの部屋に住んでいるのだろう。
「こちらへどうぞ」
山岡さんが庭への出入口に案内してくれる。この建物へ入ってくる小路から少し見えたが、外から直接入ることはできないらしい。山岡さんの後について建物から外へ出てみると、そこは綺麗に手入れされた庭だった。
足元には芝が敷き詰められ、いたるところにプランターに入った花が飾られている。ベンチも数か所あり、その中の一つに座っている老人は気持ちよさそうに花を眺めている。
「素敵なお庭ですね」
「ありがとうございます。ここに住んでいる方たちに手伝っていただいて、職員みんなで育てているんですよ」
美咲の言葉に、山岡さんが少し誇らしげに答えてくれた。
「あそこにあるパンジーは照代さんが丹精込めて育ててくれたものです」
久しぶりに祖母の名前を聞いた。山岡さんが教えてくれたプランターには何色かの花が綺麗に植えられている。祖母が育てた花だと聞いて、なんだか嬉しい。
日陰になっているベンチに案内され、美咲と座って待っていると、柏木さんが車いすに乗った祖母を連れてくるのが見えた。頭をうなだれていて、目に生気がないのが遠目からでもわかる。
柏木さんは、僕たちの前に車いすを停めストッパーをかけると、お辞儀をしてまた建物のほうへ戻っていった。代わりに山岡さんが祖母の隣に立つ。
祖母はぼんやりとしながら顔を上げたが、僕たちを見た瞬間、驚いたような顔をした。
「麻衣、来てくれたんかい! 堅二さんも。いつもありがとうね」
いきなり目に光が宿ったように、笑顔で大きな声を出す。あの時の伯父と同じだ。きっと僕たちを、僕の両親だと錯覚しているのだろう。
「あら、お父さんはどこへ行ったのかしら。さっきまでそこにいたのに」
僕がなんと声をかけようか迷っていると、祖母が辺りを見回す仕草をした。
「お父さん、堅二さんのことが大好きだから、早く来ればいいのに」
「そうなんですか?」
僕は孫の拓海ではなく、義理の息子である堅二のつもりで声をかけた。
「そうなのよ。この前、お父さんが倒れた時にあなたたち二人がすぐに駆けつけてくれたじゃない」
僕はその事は知らないので、曖昧に頷く。
「後遺症なども残らないって聞いて、あなたがお父さんの手を握って
『よかった、よかった』って泣いてくれたわよね。
『自分の父親が若いときに倒れてそのまま亡くなってしまったから、もうそんな思いはしたくなかった。本当に何も無くてよかった』って。
私もそれを見て、一緒に泣いちゃったわ」
きっと本当の話なんだろう、父らしいなと思う。こんなことは想像するのも嫌だが、もし今、美咲のお父さんに何かあれば、僕も父と同じように心から心配するだろう。
「あなた達が帰った後、お父さんが
『堅二はいい奴だ。一緒に住んでいる恭平より名古屋の堅二のほうが先に来てくれた。それに、無事でよかったってあんなに喜んでくれて優しい奴なんだな。麻衣も男を見る目がある』って、いつまでもあなたのことを話していたのよ」
正確には僕の実家は名古屋ではなく、それについては母も生前に何回か言ったのだが、今でも訂正はしていないようだ。でも、そんなことより、祖父母が父に好意を持っていてくれたことが嬉しかった。
「最初は麻衣が遠くに行くって聞いてから、ずっと気に入らなかったのに」
祖母の頭の中は、両親が新婚の頃にいるようだ。僕もまるでタイムスリップをしたかのような感覚を覚える。
その時突然、幼い頃のシーンが蘇る。黒い服を着た大人たちの中で、父が人目を憚らず泣いている光景。そう、あれは祖父の葬儀。
これから起こる悲しい出来事を、祖母には思い出して欲しくない。
目の前の祖母は、僕の心配を他所に、少し遠くを見るような目で優しく笑った。
僕と手を繋いで微笑みかけてくれた、大好きだった笑顔。
今わかった。父は、残された祖母を気遣って、母や僕たち姉弟を頻繁に長野まで連れてきたんだ。
「麻衣、あんた子供ができたって言ってたけど、まだお腹が出てないね」
祖母は、ここへ来た時の虚ろな目をした人とは別人のように、ずっと機嫌よく話していたが、今度は美咲に声をかけた。美咲も僕も、美咲のお腹に目をやる。
「男の子、女の子、どっちかしら。一姫二太郎っていうから、最初は女の子がいいのかしら。ね、麻衣」
話しかけられた美咲は、僕に合わせて娘の麻衣として答える。
「私は元気ならどっちでも。お母さんはどっちがいい?」
「私だってあんたたち二人の子供なら、どっちでも可愛いに決まっているわよ。産まれたら名前も考えなくちゃね。あれはあれで楽しいものなのよ」
不思議な感覚。祖母はもうこの世にいない娘夫婦と会話をし、僕たちはその娘夫婦を演じることで、二人の気持ちを知る。
「そうそう、いいことを教えてあげるわ」
「なぁに?」
「結婚したときはすごく幸せでしょ、それがだんだんと忘れていくのは寂しいことよ。だから、幸せだった時のことを、子供の名前につけるのよ」
「あなたがすごく幸せだった時はいつなの?」
「プロポーズされた時かな。すごく嬉しくて幸せだったわ。夕月橋の上で朝日滝を見て...あの時のことは忘れたくないわ」
美咲は、先日のことを想い出すかのように言ってから、『しまった』という表情で僕のほうを見る。麻衣を演じていたのに、会話に入り込みすぎて、ついつい美咲としての本音を言ってしまったからだ。祖母が混乱しないか、僕も一瞬息を止める。
「あぁ、堅二さんにプロポーズされた時の話ね。麻衣があんまり嬉しそうに話すから、お父さんも反対することもできなくて、ムスッとしてたわ」
(え...)
美咲は最初は驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解したのか、ほっとした感じで僕のほうを一瞬だけ見た。やはり、あの吊り橋で父がプロポーズしたと思ったのは間違っていなかった。僕の勝手な想像ではなく、事実だったんだ。祖母は上機嫌で続ける。
「だから、その幸せだった時のことを子供の名前につければいいのよ。
夕月橋だったから、ゆうづき...『ゆづき』なら可愛いわね。
それから『あさひ』とか、
滝を見たから、たきみ...これじゃ変だから『たくみ』とかね」
(なんだ、そうだったんだ)
僕には全てがわかった。両親の思い、祖父母の思い。全部全部。
今さらながら、両親から僕と姉に注がれた愛情や優しさを感じる。その気持ちが改めて身体に染み込んできて、頭から胸まで温かくなってきたようだ。目頭まで熱い。だめだ。先週から、涙もろくなってしまった。
こぼれてくる涙をぬぐうこともできず、祖母に近づき両手を握った。
柔らかかったあの手は、今はこんなに萎れてしまった。
(ばあちゃん)
「お義母さん、ずっとお元気で」
本当に言いたい言葉を飲み込んで、少しだけ気持ちを伝えるのが精一杯だった。
「お母さん。今までずっとありがとう。この人と、もっともっと幸せになるね」
美咲も祖母の手を握り、涙声で言った。
「今日はわざわざありがとうね。二人で一緒なら必ず幸せになるから、大丈夫」
祖母は、目の前に誰を見ているのだろう。
「またね」
祖母はそう言って山岡さんのほうへ目をやった。僕たちは山岡さんに向かって頷くと、山岡さんもわかったように会釈をして、車いすを押して建物のほうに向かっていった。僕たちは立ったまま、去っていく祖母を見送っていた。
しばらくベンチに座り、美咲の出してくれたハンカチで顔を拭き、少し気分が落ち着いたので、先ほどの受付に向かった。
受付でお礼を言い、祖母がいるであろう奥のほうに目を向けると山岡さんが見えた。目が合ったので深く頭を下げると、足早にこちらに来てくれる。
「今日はありがとうございました」
僕が言うより先にお礼を言われてしまった。山岡さんは少し考えるような素振りをして言葉を続けた。
「ここにいらっしゃる方は、残念ながら、治るとか回復するという病気ではないんです。私たちには、みなさんがここにいる時間で、どれだけ心穏やかに過ごしていただけるか、それが一番大事なことなのです」
もちろん僕もそれは知っている。だからみんな辛いのだ。
「照代さんは、お花の面倒を見ているときはとても気分がいいお顔をしていましたが、それ以外のときは少し元気がなくて、私たちも心配していたんです。
今日、あんなに楽しそうに話をしている姿を見るのは本当に久しぶりで、私まで嬉しくなりました」
僕は僕として接することはできなかったが、山岡さんが言うように、祖母が気持ちのいい時間を過ごしてくれたのだったら、それだけでいい。
「今日頂いたお土産は、照代さんの調子がいい時に、お孫さんからと言ってお渡ししますね」
「いえ、娘さんからということにしておいてください」
「承知しました」
「こちらこそ本当にありがとうございました」
笑顔で答える山岡さんに改めてお礼を言って、僕たちは施設を後にした。
次回が最終話になります。短めですので今日の午後に投稿予定です。もう少しお付き合いください。




