第3話 傷跡の理由
平伏した男は、恭化州の馮少尹の命を受けた帳史であると名乗った。つまり、州の政における次席の高官が、出納を預かる官に命じて兵を動かしたということになる。
<めちゃくちゃ怪しいね>
通天万照鏡に、脳に直接ささやかれるまでもない、事態のキナ臭さを察するには十分であった。
帷帽から垂れた薄絹によって、疑いに目を細めたわらわの表情が見えぬからであろう、その下っ端役人は得々と申し述べた。
「桑清虎は、畏れ多くも国姓を名乗っておりましたゆえ、いくつかの邑の徴税を任せておりました。ですが、収める額が異様に少ないので調査したところ、私腹を肥やしていたことが判明したのです!」
大路の混乱も多少は収まり、怪我や被害のない民はわらわたちを注視しておる。税の着服は庶民にとっては一大事、帳史の口上に、憤りと驚きのざわめきが起きた。
だが、わらわは惑わされぬ。官どものやることは、ひと通り見てきておるからな。
どうせ、私腹を肥やしていたのは、こやつらのほうであろう。帳尻が合わぬか、不正が発覚する事態に至ったゆえに、適当な――この場合は桑清虎に罪を押し付けることにしたに相違あるまい。
<じゃあ、さっきこいつが言ってた讒言って? 桑清虎は、誰を陥れようとしたっていうの?>
鏡が尋ねる間にも、何とか申す帳史は舌を動かし続けていた。が、恭化州からいかに艱難辛苦を乗り越えて都に至ったか、桑清虎はいかに狡猾に、かつ素早く追手を逃れたかという苦労話でしかなかったから、わらわは聞き流した。代わりに、鏡の疑問に応えてやることにする。
桑清虎の弁明なり反論なりを讒言ということにしようというのであろう。この者どもの立場からすれば、正当な告発であるのに冤罪扱いされた、と主張するほかないであろうからな。
<なるほどね、さすが女帝陛下!>
うむ、これくらい当然である。
わらわが鏡とのやり取りに気を取られていることなどつゆ知らず、帳史はいっそう声を張り上げて熱弁をふるった。
「――匿った者どもから桑清虎の狙いを聞き出したところ、何と桑氏の縁を頼って皇城への直訴を企んでいるとのことで――このように悪辣な不正を企む者が、宗室の末裔であるはずはございません! 僭称の罪も併せて厳しく罰せねばと、馬を急がせておりました」
それはすなわち、わらわの推測の裏付けでもあった。馮少尹なる者は、自身の悪評が主上のお耳に入ることを恐れたのじゃな。
桑清虎の身なりで皇城に迎えられるとは思えぬが――仮にも桑氏を名乗る者の訴えならば、主上は興味を持たれるやもしれぬ。万が一の恐れも潰すために、桑氏を騙った罪までも拵えたのか。
<龍華様、悪人の発想に詳しいね?>
だから、この手の輩の手口を見てきているからだと言うに!
わらわが柳眉を逆立てたのを、薄絹越しに見てとったのか、あるいは、ひと通り語り終えたからか。帳史は、宦官がするように地に身体を投げ出し、大仰に平伏した。
強行軍で乱れたのであろう、髪はほつれ、汗で額に張り付いている。顔は日に焼け、平伏するまでもなく土埃に塗れて――その薄汚れた顔の中、卑しい媚びと打算にぎらつく両眼だけが光っていた。
「夏貴妃様には、幾重にもお詫びを申し上げます。近侍の方々にも……! 恭化州に産する玉に、最上級の苧麻を献じますゆえ、どうぞご寛恕を願いたく――」
苧麻は、さらりとして涼しい、夏の衣を仕立てるのに最適の生地。玉の価値は言うまでもなく、行楽に出たついでで無料で手に入るなら願ってもない――と、妃たちや宦官どもは考えたのだろう。期待と喜びに満ちた溜息と小さな歓声が、どうにか馬にまたがり直した者たちの口からこぼれた。
「殊勝な申し出でございますわね、夏貴妃様?」
「無礼とはいえ、罪人を捕らえるためでしたから」
「慈悲深い夏貴妃様なら――」
誰もが、白々しくもにこやかにわらわに語りかける。帳史の言い分を頭から信じ込むほどの愚か者が、後宮で生きていけるはずもないであろうに。――否、誰に言われるまでもなく、従うべき筋書きを瞬時に了解できることこそが賢さなのやもしれぬが。
これだから、誰も彼も信用ならぬ。わらわが苦く嗤うのと同時、頭の中に通天万照鏡の皮肉げな声が流れてくる。
<皆、口止め料だって分かってるよね? あくどいなあ>
まあ、供の者どもの勝手な期待を斟酌してやる必要はない。わらわが考えるべきは、後にわらわに歯向かう桑清虎をどうしてくれようか、ということだ。
「ほれ! 夏貴妃様への非礼を詫びぬか!」
ちょうど良く、というか何というか――顎に手を添えて沈思するわらわの前に、桑清虎が引き出されてきた。恭化州の馮少尹の配下とやらに痛めつけられたのだろう、顔には赤や青の痣が浮かび、両腕はすでに罪人のように戒められている。
だが、その男の目は、いまだ諦めや絶望に染まってはいなかった。それどころか、怒りや恨みさえ見えぬ。腫れた唇から漏れるのも罵倒や懇願ではなく、冷静な請願であった。
「――尊いお方とお見受けする。私の言葉をしかるべき筋に届けていただきたく。恭化州では――っ」
「黙れ! まだ言うか……っ!」
間近に響いた打擲の音に女たちが派手に悲鳴を上げたいっぽう、わらわは眉ひと筋たりとも動かさなかった。
桑清虎は、後に女帝に背く男である。これくらいの強情さはむしろ当然というものであろう。
<ねえねえ龍華様。こいつらに任せれば良いんじゃない? 税の着服に、宗室の僭称。これって重罪でしょう?>
うむ。顔に黥したうえで奴婢に落とすのが妥当であろうかの。
と、通天万照鏡の声に応えて念じたところで、わらわは気づいた。四十年後に相まみえた桑清虎の、あの醜い傷――あれは、黥の跡であったか、と。
前の時は、桑清虎はわらわが後宮の掌握に忙しくしている間に断罪されていたのであろう。
いかな桑氏の末裔とはいえ、黥された者が多くの兵を集めることは難しい――ゆえに、挙兵にあたって、上から傷を刻んで隠していたのだ。
<何なら、龍華様がちょっと桑松黎に言いつければ良い。そうしたら死罪にできるよね!>
そう、確かに。
宗室の者が地方の政を乱した、ということにすれば、主上は必ずお怒りになる。
寵姫の口から、都の門前を騒がせたことも言い添えれば。眼前で起きた捕り物で恐ろしい思いをしたと訴えれば。桑氏の名を笠に着て横暴を為す者への見せしめとして、極刑をねだり取るのはいとも簡単なことであろう。
鏡の進言は、まことに理に適っておった。
だが――
「……ならぬ」
<え?>
通天万照鏡の怪訝そうな声に、構っている暇などなかった。
披帛を羽衣のごとく舞わせて、わらわは馬から飛び降りた。そして、もう何度目であったか、桑清虎を目がけて降り下ろされるところであった拳の下に、入り込む。
「――っ」
拳は、わらわが被っていた帷帽に当たった。衝撃で髻が崩れ、飾られていた金銀の花や玉の珠が煌めきながら地に落ちる。
「き、貴妃様!?」
「龍華様……!」
女たちと宦官どもが悲鳴を上げ、集まっていた民どもからも驚きのどよめきが湧く。いっぽうわらわは、奥歯を噛み締めて声を殺すと、わらわを打ち据えた命知らずな者をきっ、と睨めつけた。
この非礼、よくよく覚えておくが良い、後で思い知らせてくれようぞ!
「ひ――」
<そんな、自分から割って入っておいて……!?>
わらわの眼光に気おされたか、その男は小さく呻き、通天万照鏡はよりうるさく喚いた。ええい、頭を殴られたばかりだというのに、痛みが増すわ!
とにかく――わらわは桑清虎を庇いつつ、周囲の者どもを見回しつつ、声を凛と張り上げた。
「この者の言い分も聞かずに打ち据えるとは何ごとか! 重大な嫌疑であればこそ、調査の上で真相を詳らかにすべきである!」
「は、はは――っ」
有無を言わせぬ一喝に、帳史も、破落戸同然のその手下どもも、一様にしおらしく平伏した。見るが良い、これがわらわの美貌と威厳の力である!
「貴女、様は……?」
と、桑清虎がおずおずと問いかけてきた。痛めつけられても揺るがなかった両の目が、わらわの美貌を間近に見て、畏敬を湛えて潤んでおる。
ふふん、この者にも審美眼というものはあったと見える。否、この強情な者の心さえも動かすわらわの美しさこそが恐ろしい、と言うべきか。
<龍華様? 何考えてるの!?>
鏡の声は聞き流して。同時に、内心では得意絶頂で胸を張りながら。わらわは桑清虎に淑やかな笑みを見せてやった。ありがたく見蕩れるが良いぞ!
「夏、龍華。貴妃の位を賜っております。安心なさい、わたくしから願えば主上はそなたの話を聞いてくださるでしょう」
「何と――ありがたいお言葉……!」
今度こそ、桑清虎の目から涙の雫がこぼれ落ちた。殊勝で感心なことである。
<龍華様!? 何か考えがあるんだよね!? ねえ、ねえってば!>
うるさく喚く通天万照鏡の声が頭に響くのを無視して、わらわは大路を引き返すよう命じた。
城壁の外に出ることは叶わなかったが、まあ良かろう。常にない大捕り物を間近に見物して、妃たちも宦官どもも概ね満足しているようだし、の。
「き、貴妃様、あの――っ」
桑清虎を目の前から連れ去られる形になった帳史が、地に這いつくばって青ざめておるが――それも、知らぬ。
「何があったかは余さず主上にお伝え申し上げる。そなたらは大人しく沙汰を待つが良いぞ!」
もはや帷帽で顔を隠すこともなく言い放ったわらわは、地上の太陽のごときまばゆさであったであろう!




