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悪逆女帝は反省しない  作者: 悠井すみれ
第三章 女帝陛下、仇敵に逢う

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第2話 疾風、大路を駆け抜ける

 皇城および諸坊諸市を囲む都の城壁は、東西南北四方の壁の何か所かに門が設けられておる。うち、桑《そう》清虎《せいこ》が到着すると思しき昌安《しょうあん》門の傍には碧汀湖《へきていこ》という大池がある。都の飲料を支え魚介を給する食糧庫であると同時に、舟遊びの名所としても名高い。

 盛夏の折には、高位の官や諸侯、富裕な商人などがそれぞれに趣向を凝らした船を浮かべ、庶民の目を楽しませるのが常であった。いずれわらわのものとなる東華は、文化栄える豊かな国なのである。


 そして、後宮の妃嬪や女官にとっても、碧汀湖の舟遊びは魅力的な娯楽であった。皇城の奥の禁苑《きんえん》にも広大な池があるが、諸家が競い合って飾り立てた船が舳先を並べ、管弦の調べや料理の匂いで競い合う賑やかさ華やかさは、市井ならではのものだからだ。


 色鮮やかな衣をまとった女たちが乗る馬の列が、皇城から都の中心の大路へと流れ出る。

 髪を飾る絹や金銀の花鳥、衣を彩るやはり鮮やかな刺繍や箔が夏の日差しのもとでまばゆく輝き、見上げる庶民の目を射るであろう。

 列の中心、つまりは高位の妃嬪は、帷帽《いぼう》――つばに薄絹の帳を巡らせた笠――で顔を隠している。だが、風に乗って届く麝香や伽羅や白檀の香りが、薄絹の奥の佳人の姿を思い起こさせるはずだ。

 横乗りの鞍に腰をあずけ、自ら手綱を取るわらわの耳に、興味と憧憬に満ちた庶民の声が届く。


「夏《か》貴妃様の行列だ」

「宮女から貴妃に駆け上ったなんて、夢のようなお話……!」

「さぞお美しいんだろうなあ」


 ふふふふん、わらわの美貌の噂は庶民にまでも響き渡っているようじゃな。あのようにささやく者どものうち、いくらかは後にわらわに背くであろうこと、決して忘れはせぬが――今は、心地好く聞いておくことにしよう!


 わらわを取り巻く妃嬪たちもまた、尊崇を込めたまなざしと声でわらわを称える。


「外の風は心地好いですわねえ。夏貴妃様のお気遣いに感謝申し上げますわ」

「主上におねだりできるのは、夏貴妃様だけですもの」

「しかも、わたくしたちにもお声がけくださるなんて……!」


 一度後宮に入ってしまうと、外出の機会はごく限られるからのう。稀に行幸に伴われる幸運に恵まれるとしても、望んだ時に望んだ地に赴くことなどできはしない。


「後宮に閉じこもっていると、息が詰まってしまいますものね。女だけで羽根を伸ばすといたしましょう?」

「ああ、夏貴妃様……!」

「本当に、ありがとうございます!」


 轡《くつわ》を並べた至近の距離ならば、薄絹越しでもわらわの美貌の輝きは明らかであっただろう。女たちは口々に賛嘆の声やため息を漏らした。

 此度の後宮も、わらわの手中に収まりつつあるのは重畳である。――まあ、これも上辺だけの追従に過ぎぬであろうがな。


 と、わらわの頭に、通天《つうてん》万照鏡《ばんしょうきょう》の呆れたような声が響く。


<皇帝の寵姫って、すごいんだね……あんなに早く外出の許可が降りるなんて……>


 口では妃嬪たちと他愛のない雑談を交わしながら、わらわは鏡への応《いら》えを念じる。


 わらわは「無理」という言葉が嫌いである! 無理を通すのがわらわのやり方、これで分かったであろう!


<はい、分かりました……>


 うむ、良い返事じゃ。……こうしている間にも桑清虎は近づいてきているのであろう? 姿が見えるか、声が届く範囲に来たら教えよ。難癖をつけて捕縛してやる!


<難癖……。う、うん。後顧の憂いを断つ好機、だもんね! 現れたらすぐに教えるよ、龍華《りゅうか》様《サマ》!>


 通天万照鏡が、勢い込んでうなずいた――ちょうどその時であった。わらわたちの前方に、土煙が巻き起こった。都の大路の真ん中を、馬で押しとおろうとする者がいる!


 危険を察して逃げようとした者たちが、ぶつかり合って倒れる。伸ばされた手が、投げ出された足が、道にはみ出していた屋台を引き倒し、露店の商品をぶちまける。ほんの数秒も経たぬうちに、巷《ちまた》は悲鳴と怒号、泣き声が渦巻く坩堝《るつぼ》と化した。


 わらわたちの行列もまた、混乱と無縁ではいられなかった。


「きゃあっ」

「何て乱暴な――」


 浮足立つ馬に揺さぶられて、悲鳴や非難の声があちこちで響く。わらわも、慌てて手綱を引いて馬を宥めた。

 地を揺らす蹄の音が、馬上のわらわにも伝わってくる。明らかに豪奢で煌びやかな、つまりは貴人の行列に、ためらいなく突っ込む者が、すぐ目と鼻の先に迫っておる!


 大路に混乱をもたらした勢いは風となり、その一騎が伴う土煙を束の間、晴らした。わずかに薄れた砂色の帳の向こうから現れたのは――


「ご容赦を!」


 まぶしい、と思うた。


 わらわの目の前を過ぎったのは、妃嬪に与えられた皇城の良馬とはほど遠い、痩せて見た目の悪い斑《ぶち》の農耕馬に過ぎぬというのに。

 乗り手がまとうのも、絹の艶も金糸銀糸の煌めきもない粗末な葛布《くずふ》の短褐《じょうげ》――だが、装飾などなくとも、背筋の正しさ、衣の上からも窺える逞しさが美しい、と思えた。そう、きっと、虎の獰猛なしなやかさと同種の美であろう。


 む――わらわは今、虎、と思うたか?


 不穏な予感に眉を顰めた時――わらわの顔を隠す薄絹が、風にあおられてめくれ上がった。それはまさに、葛布の騎手が振り返った瞬間であった。ほんのわずか、頭を下げる仕草に、貴人の顔をさらさせた非礼への謝意が込められている。


「逃げるつもりはございませぬ――お咎めは後でいかようにも!」


 わらわの耳には馴染まぬ低い声は、雷のようであった。わらわの脳天から身体を貫いて、全身をしびれさせるような。それとも、その男のあまりに真っ直ぐなまなざしが、そのように感じられたのか。


 思えばわらわは、若い男というものをほとんど目にしたことがなかったのだが――それにしても、この男の顔立ちは精悍で活力に満ちて、しかも整っておる。


 このわらわが、自分自身以外の顔に見蕩れることがあろうとは。不覚にも自失していたわらわの意識を、通天万照鏡の狼狽え切った声が揺さぶる。


<龍華様! そいつ! そいつが桑清虎だ!>


 何じゃと? 通天よ、今、何と申した!?


 声に出して問い質さなかったのは僥倖であった。わらわは慌ただしく手綱を繰ると、馬の向きを変えさせようとする――と、供の宦官どもが、決死の表情で道をふさぐ。


「夏貴妃様!?」

「馬を押さえよ、貴妃様が危ない……!」


 ええい、違うわ! わらわはあの者を追おうとしているのじゃ。決して馬を扱いかねているわけではないのだぞ!

 ああもう、こうしている間にも奴が遠ざかってしまうではないか!


<落ち着いて、龍華様。貴妃様の行列に襲(・)い(・)掛(・)か(・)っ(・)た(・)んだもの、十分重罪でしょう!?>


 お、おお。そうであった。鏡の声も慌てふためいてはおるが、有用な進言である!

 わらわは大きく息を吸い、護衛の兵どもに命を下そうとした。だが、それよりも早く、新たな怒声と馬の蹄の轟《とどろ》きが、大路を揺らす。


「ここまでだ、桑清虎!」

「待ち伏せしていた読みが当たったな!」

「皇城を騒がせる前に捕縛せよ!」


 眼を見開いたわらわの視線の先で、ひと際大きな土煙が上がった。

 都は縦横の路で碁盤の目のように区切られているゆえ、当然、大路が皇城に至るまでにはいくつかの枝分かれがある。――そのうちのひとつに、潜んでいた何(・)者(・)か(・)が、駆け抜けようとした桑清虎の馬の横腹に、同じく騎乗してぶつかったのだ。


<何、あれ……>


 通天万照鏡の呆然としたつぶやきを聞きながら、わらわは桑清虎が落馬するのを、さらに待ち伏せをしていた者どもに群がられるのを呆然と眺めた。

 無論、わらわは無為に手をこまねいたりはしない。目に映ること、耳に入ることから事態の把握に努めはしたが!


 桑清虎に圧し掛かり押さえつける者どもが乗っていたのは、体格も肉付きも良い軍馬のようであった。乗り手も、簡素ながら戎衣《よろい》を身に着け剣を帯びた――官の兵、あるいは、それなりの地位と財がある者が抱える手勢に見える。


 そのような者どもが、都の城壁の中で、山賊よろしく身を潜めて、通りかかる者に襲い掛かる計画を立てておった? しかも、その相手がわらわの仇の桑清虎であった、じゃと?


 事態を把握したところで謎は深まるいっぽうで、わらわは苛立ちを吐き出した。


「ええい、次から次へと――いったい何ごとなのじゃ!」


 その、わらわの足もと――というか、騎乗していた馬の足もとに、素早くひれ伏した影があった。


「お騒がせして申し訳もございませぬ!」


 見下ろせば、その影は一応は下級の官の袍をまとっていた。やたらと土埃に塗れておるのは、もしや桑清虎を追ってはるばる旅して来たからなのか。

 何にせよ――都の大路の真ん中での乱暴狼藉。しかも、商売を邪魔され、私財や商品を損なわれ、あるいは自らが怪我を負った民の、不満や嘆きの声も方々から上がってきておる。

 後に帝位に就く定めの者としては、許しがたい不敬、見過ごせぬ惨状である!


「いかなる理由があって主上のおわす都城を騒がせる。この始末をどうつけるつもりじゃ!?」

「はは――っ」


 怒りを込めて一喝すると、その男はやたらと大仰にかしこまってみせた。だが、その割に、おずおずとわらわを見上げた顔には、卑しく媚びへつらう笑みが浮かんでおった。


「あの桑清虎なる者は、大それた不届き者です。宗室を騙って罪を犯し、しかも追及した者を逆に讒言《ざんげん》せんと都を目指したのですから……!」

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