第3話 攻めの手
ある朝――紫薇宮を辞して自身の殿舎に向かうわらわの耳に、くすくすという忍び笑いが届いた。さらに、悪意と嘲りをたっぷりとまぶした声が、殿舎同士を結ぶ回廊に響く。
「――売女」
後宮に相応しくない卑語を発した主は、視線を巡らせればすぐに見つかった。というか、隠れるつもりもなかったのであろう、鮮やかな色の披帛が、回廊の角に消えながらひらひらと舞った。濃すぎるほどの香や白粉の匂いと聞えよがしのささやき声が、夏の朝の爽やかな空気を濁らせる。
「毎夜毎夜のお召しだなんて、たいそうなご寵愛」
「祖父と孫ほどにも年が離れているのに――」
「主上のお身体が心配だわ」
髪に挿した金銀の歩揺や額の花鈿から煌めきを振りまき、面靨が彩る唇に毒気ある笑みを浮かべながら。こちらに流し目をくれつつ駆け去るのは、高位の妃嬪の侍女たちであろう。
噂話のテイで、わざわざわらわに聞こえるように言わせた、その女どもの主は――背後に控える侍女や宦官が、憤った声で教えてくれる。
「盧貴妃様のところの者たちですね」
「龍華様のご栄達を妬んでいるのです」
盧貴妃は、皇后亡き後の今の後宮に君臨する最高位の妃。裏を返せば、長年主上に仕えた枯れ切った婆である。前もそうであったから驚くには当たらぬが、挨拶に上がった時は、若く瑞々しく美しいわらわのことを射殺さんばかりの険しい目で睨んでおったわ。
まあ、驚き慌て、恐れるのも無理はない。皇子公主の数や順番、寵の厚薄による競争はとうに終わったと思っていたところ、妃嬪の序列に大変動が起きたのだからな。下世話な噂をわざと聞かせて、わらわを萎縮させようという肚であろう。
陰口のひとつやふたつでわらわが折れるなどと考えるとは愚かの極みだがな!
美であれ才知であれ寵愛のほどであれ、人より抜きんでた者が妬まれるのは世の常というもの。負け犬の遠吠えは耳に心地好く、劣勢な婆の悪あがきはいっそ娯楽と思えるのだが――そのような内心は、言わぬが花というものであろう。
「主上に対しても不敬でございます。お伝えすれば――」
「良いのです。貴妃様も主上を案じておられるのでしょうから」
ゆえに、怒りに頬を染めた宦官の進言を遮って、わらわは大仰に衣の袖で目元を押さえた。さも、中傷に心を痛めつつ、健気に耐えているかのように。
<うーん、白々しいっていうか、むず痒くなるっていうか……>
銅でできた鏡のくせに、通天万照鏡は奇妙なことを申す。
わらわとて時と場合は弁えておるのだ。今はまだ、可憐な美姫として振る舞うべき時であると。
涙を堪えるフリでわずかに顎を上向かせながら、わらわはそろそろと歩き出す。従う者どもからは、泣き顔を見せまいとする気丈な振る舞いに見えるであろう。
「わたくしは、婢女のように主上にお仕えしているだけ、何ら恥じ入ることはありません。だから――良いのです」
「徳妃様……!」
ほれ、通天万照鏡以外の皆はまんまと騙されて感激しておるぞ。わらわの栄達の余禄で潤っているからでもあろうが、わらわは演技も優れているこそ、ではないか?
<それは分かんないけど、まあ、客観的にも龍華様に理があるのは事実ではあるよねえ>
傷心のわらわを気遣ってか、侍女も宦官もあえて話しかけようとはしていない。ゆえに、わらわは通天万照鏡とのやり取りに集中することができた。
そう――盧貴妃が言わせたのは邪推も良いところ、完全な言いがかりだからこそわらわの侍女や宦官どもも憤るのじゃ。
わらわと主上に男女の仲は一切ない。わらわはただの添い寝係で話し相手に過ぎぬ。閨を暖め、着替えやお食事のお手伝いをして――亡き恭慈昭皇后のことも、その流れで聞いたことよ。
<って言っても、僕も驚いたけどね。皇帝に取り入るって言ったらそういうことだと思うじゃん?>
欠伸を噛み殺しながら、わらわは密かに笑う。天に通じるなどと称しながら、この鏡は思いのほかに俗っぽいのだ。
主上は扱いやすいおじじ様だと、もう何度も言うたであろうに。考えてみるが良い、房事の後や最中に、亡き妻の話をするはずがなかろうが。
下世話な想像を巡らせて溜飲を下げることしかできぬとは、盧貴妃も小物よ。いっそ哀れなほどである。
<意外と怒っていないんだね、龍華様。もっとこう……八つ裂きにしろとか言うのかと>
何しろ主上の朝は早いからのう。早く殿舎に戻って二度寝したい、というのが本音じゃの。わらわに嫉妬すること自体は不思議でも何でもないしのう。
<じゃあ、見逃すの?>
わらわの向かう先、今を時めく徳妃と見て取った宮女も宦官も、ことごとく地に伏して頭を垂れる。ゆえに、わらわの唇が弧を描くのを見た者はいなかったであろう。
通天万照鏡に映して何度も眺めたことのあるその笑みは、恐ろしくも凄みを帯びた、凄艶なる美しさなのだが、惜しいこと。
わらわは、胸元にしまった鏡を、衣越しにそっと撫でた。そして、声を発することなく思念で語りかける。
怒るか否か、見逃すか否かの話ではあるまい? わらわが帝位を得るためには後宮の掌握が必要、そのためにはわらわより高位の貴妃は邪魔者である。……前は、そなたが上手くやってくれたが?
<そうだね>
頼られたのが嬉しいのか、通天万照鏡は声を弾ませた。わらわの衣の中では、鮮やかな桃色に輝いているのやもしれぬ。
<ここまで君に任せきりだったからね……そろそろ僕の力を見せてあげる!>
* * *
通天万照鏡の仕事は、まことに早く的確であった。数日も経たぬうちに、ある報せが稲妻のように後宮を駆け巡ったのだ。
すなわち、盧貴妃は白虹貫日教を信奉していた。教えの象徴である虹――龍に似た幻獣――の玉佩を隠し持っていたのがその証拠である、と。
白虹貫日教は、主上にとっては不倶戴天の仇敵。貴妃がその仇敵に通じていたと知ったお怒りはすさまじく、貴妃本人はもちろん、仕えていた侍女や宦官、婢女にいたるまで捕縛された。
わらわについての下世話な噂をささやいていた者どもも同様であろう。わらわを見目良いだけの小娘と侮った代償は、高くついたというわけじゃな!
多くの者は、ああだこうだと尾ひれのついた噂を取りざたするだけであったが、わらわには調査の内情が事細かに届けられた。なぜなら当事者であるからだ。
「貴妃――否、盧氏は、邪教の術で夏徳妃様に害を為そうと目論んでいたのでございます」
わらわの――徳妃の華美な殿舎に似合わぬ皁い衣をまとい、身体を床に貼り付るようにして平伏して訴えるのは、李掖庭丞だ。
盧貴妃と呼ばれた婆は、今や盗みを働いた宮女と同様に獄に繋がれて尋問される身、良い気味というものじゃ! 無論、わざわざ喜色を表に出したりはせぬが。
「長く主上にお仕えしたお方が、邪教に魅入られるとは。わたくしは、そこまで憎まれていたのですね……」
「老いぼれたばかりか、徳妃様の清らかなお心の足もとにも及ばぬ醜い心根の鬼女でございますな!」
宦官特有の甲高い声が、さらに上ずり震えるのは、どうやら憤りゆえだけではないようだった。李掖庭丞は、なぜかやたらと力を込めて熱弁をふるう。
「徳妃様にご信任をいただいたからには、元は貴妃であろうと容赦はいたしませぬ。必ずや、悪しき企みのすべてを暴き、お心を安らがせて差し上げましょうぞ!」
この者は、どうしてこう感激したような風なのか、と内心首を捻っていると――高い位置で結んだ帯でわらわの胸元に挟まれた通天万照鏡が、面白がるような声を伝えてくる。
<龍華様を打ち据えて、咎められずに済んだのを、何だか良いように捉えているみたいだね?>
ああ――わらわの美貌に惑わされず、職務をまっとうしたのは天晴れであったと、確かに褒めたな。ふむ、信任とはそのことか。
鬢の乱れを整える振りで、わらわは鏡を取り出すと微笑みかけた。ご禁制の虹の玉佩を、どこからともなく取り出すこともできるとは。さすが、天に通じるとの名に恥じぬ、見事な手腕である。
<そりゃあね、任せてって言ったしね!>
賞賛に対して、鏡の声は分かりやすく浮かれた。ただ、あからさまに桃色に輝いたりはしない。時と場合を弁えておるのは、コレも同じようだ。
<李掖庭丞が張り切るのも織り込み済みだよ。濡れ衣で拷問した相手が寵姫になったんだ。大失態を挽回しようするだろうと思ったんだ>
なるほどのう。前の時は、盧貴妃を嵌めた時には李掖庭丞はとうに始末しておったのじゃが。
<え?>
李掖庭丞がおらぬでも、盧貴妃への取り調べは手加減されなかった。わらわに取り入ったほうが得だと、誰の目にも明らかであったからな。
だが――わらわに心酔し、わらわへの忠義ゆえに励んでくれる者が増えるのは、良きことじゃ。
一瞬のうちに思考を巡らせると、わらわは鏡を胸元に抱いて、にこりと笑みを浮かべた。
「頼もしいお言葉です。後宮にまで邪教が潜入していたとは一大事――主上の御身の安全のためにも、くれぐれもお頼み申し上げますよ、李掖庭丞」
「はは――っ」
李掖庭丞が意気揚々と辞したのを見送った後――通天万照鏡は、今度こそ悪戯っぽい黄色の煌めきを浮かべた。
<で、次は? ここからどう帝位を狙うのか、前はどうやったのか、教えてくれるよね?>
うむ。そのことじゃが。
長榻に身体を沈めながら、わらわは鏡を覗き込んだ。
ここまでは、前よりも順調に来ておるし、鏡の力も温存できておる。ゆえに、次は攻めの手を打つ!
<というと……?>
訝る調子の声に大きく頷くと、わらわは立ち上がり、拳を握った。自らを鼓舞するためにも、あえて声に出して宣言し、拳を高く突き上げる。
「不遜にも女帝に背いた桑清虎なる賊を、始末する! あやつが若造のうちに探し出し、第一の寵姫の権勢でもって叩き潰してやろうぞ!」




