第2話 新たな寵姫
わらわが徳妃に上るまでに、三月とかからなかった。
主上の御年ゆえに、上の位階の方々も身罷られた方が多く、空席があったことも理由ではあろう。
だが、より大きな理由は、それだけ主上がわらわに向けるご寵愛が篤いから、である!
わらわは今日も、紫薇宮の最奥、皇帝の私室に招かれていた。この間に季節は進み、暑気が厳しくなっている。部屋の隅には龍の氷像が据えられ、宦官がそよがせる扇が涼風を生み出していた。
わらわがまとう絹の衣もいよいよ薄く軽く、そして彩る刺繍や箔は豪奢に華やかになっておる。花の盛りの若く瑞々しい美を、金銀や宝玉で飾り立てるのは楽しいものじゃ。
螺鈿細工で花蝶を描いた団扇を手に弄びつつ、口に運ぶはよく冷やした茘枝。早馬を継いで千里の彼方から運ばせたからこその爽やかな甘さは、万金にも値しよう。
女帝であったころに尽くした贅にはまだ及ばぬが、手始めとしては上々であろう!
そして――装いや美食だけではない、わらわが語ることもまた、確実に女帝に近づいていた。
「主上、またあのお話を聞かせてくださいませ。永儘の乱の折りのこと――賊将の間の反目を見抜いて離間の計を仕掛け、自滅させたご慧眼を!」
「うむ、うむ」
わらわがしなだれかかると、主上は相好を崩して顎ひげをさすった。わらわの媚態に揺らいだから、だけではなかろう。
老いた主上の心は、はるかな過去にいることが多い。思考は明瞭明晰で、身体も頑健で。手足のように軍を動かし、油断ならぬ諸侯高官と渡り合い、民には恐れられつつも慕われて後宮の諸花を愛でた――そのような、輝かしい日々に。
「龍華よ、汝は女子でありながら絹や玉や菓子だけで頭がいっぱいではないようだ。まことに感心である」
皇帝の歓心を買うべくへつらう者はいくらでもいるであろうが、後宮の若い妃嬪には年寄りの自慢話はおおむね退屈なものであろう。的確な相槌を打つことができるわらわを、主上はことのほかお気に召してくださっている。
謙遜と恥じらいを表すため、わらわは団扇の影に顔を隠して目を伏せた。長い睫毛が頬に落とす影によって、いっそう色香が漂うことであろう!
「この茘枝も、南海に産する真珠も、西方からもたらされる絹も。すべて、主上のご威光があればこそ。東華の国をいかに統べてこられたのか、愚かな小娘にご教示賜りたく存じます……!」
「そうだ。都の繁栄も後宮の華美も、朕の労苦があってこそ。何も知らず考えずに享受する者も多いというのに、汝はものの道理が分かっておる」
仰せの通り。民の恩を知らぬこと、足るを知らずに隙あらば反抗を目論むことは、わらわも身をもって知っておる。
帝位の重責と孤独を理解する者は少ないもの。だからこそ、今のわらわは、かつてよりもしっかりとがっちりと、主上のお心を掴んでいる。
「汝は知らぬであろうが、かの乱の真の首謀者は――」
前も合わせればもう何十度目かに聞く話を、さも初耳であるかのように傾聴するわらわの頭に、拗ねたような声が響いた。
<めちゃくちゃ話が弾んでるね……>
無論、今もわらわの懐には通天万照鏡が潜んでおる。わらわの柔肌に触れているのだから役得と思えば良いものを、その態度は何ごとじゃ?
<だって、桑松黎がこうも容易く手玉に取られるなんて思わないしさあ。ねえ、龍華様。前もこうだったの……?>
ふむ、まったく同じではないな。
主上の話ににこやかにうなずきながら、わらわは通天万照鏡に前の経緯をざっと伝えてやる。
主上のお話に対する、正しい受け答えを覚えるまでは、鏡の幻惑魅了の術に頼ることもあった。
慣れてからも、正直言って主上のお話は年寄りの繰り言と思うておった。何十年も前の手柄話を、よくも飽きずに繰り返されるもの、と。
<まあ、年を取るってそういうことだからね>
だが、今は違う!
長く帝位におわし、広大な東華の国土を治めてきたお方の知見を、間近に拝聴することができるのだ。話半分に聞き逃すなど惜しいことをしたものだと、わらわ自身が即位した後に悔やんだものよ。
今なら、かつてよりも踏み込んだ問いを発することができる。後の女帝の世にも役立てるべく思索を重ねられる。
それによって主上はますますわらわを気に入り、位階も絹も玉も惜しみなく与えてくださる。
さすがわらわ! 立て続けに一石二鳥を決めるとは!
<うん、まあ、全体的には順調っぽいから良いんだけどさあ>
通天万照鏡がため息のような調子でこぼした時――宦官の列が進み出た。それぞれ、湯気の立つ粥やら湯やらの椀や、肉を包んだ餅やらを乗せた盆を捧げ持っている。
「なんだ、腹は減っておらぬぞ」
お話の隙を見計らったつもりなのであろうが、主上は顔を顰めると面倒そうに手を振った。
「恐れながら主上、朝もそのように仰せでほとんど何も――」
「くどい。要らぬと言うておる!」
主上の声の険しさ、苛立ちに尖った眼差しの鋭さに、夏の暑さも凍りつく――が、ひりつく緊張感を無視して、わらわはあえて無邪気な声を上げた。
「美味しそうではございませぬか。わたくし、ご相伴にあずかりたいですわ」
「……ふん、汝がそう言うのなら」
主上はまだ顔を顰めておられたが、お声はかなり和らいだ。
「夏徳妃様……!」
青ざめていた宦官も、感激に目を潤ませてわらわを見ておる。うむうむ、気難しい年寄りに食事を取らせるのは一苦労だからの。わらわの助け舟を恩に着るが良いぞ。主上には、今しばらくはご壮健でいていただかねばならぬからな。これくらいはどうということはないぞ!
暑気払いに良い緑豆粥を前にして――だが、主上はまだ匙を取られはしない。口を動かすのはものを食べるためではなく、ある祈願の言葉を述べるためだ。
「白虹の、日を貫くことなかれ。凶兆の、天穹にかかることなかれ。淫祀邪教の徒の、地上から消え失せんことを」
「――消え失せんことを」
主上に続けて、わらわも女官も宦官も、同じ言葉を続けて唱和する。宮女であったころにも噂には聞いておったが、最初にこれをやった時は、奇妙にもおかしくも感じたものじゃ。
<唱えただけで淫祀邪教が消えうせるなら世話はない。桑松黎、やはり耄碌したな……!>
懐の通天万照鏡が、嘲るように言うのもまあ無理はない。主上は、朝晩と食事の前には必ずこの呪文めいた言葉を唱えられるのだから。
とはいえ、主上のお気持ちを考えれば無理のないことでもあるのだ。
東華国には、古くより民に広く信じられる白虹貫日教、という教えがある
白い虹が太陽を貫くのを宿願が叶う吉兆と捉え、その到来を天に祈る――というのは表向きの教義に過ぎない。
しかしてその実態は、太陽に擬した皇帝を、白い虹――矢、あるいは剣の切っ先が貫く、との喩えで国家転覆を企む秘密結社、まさしく淫祀邪教にほかならぬ。
表向きの教義が素朴かつ単純なだけに信徒は多く、廃絶するのは難しい。歴代の皇帝が苦慮してきたのはもちろん、主上の御代では特に大きな乱が何度も起きている。
最初の皇后、恭慈昭皇后を病床に置いて親征なさった時の反乱も、実のところ白虹貫日教が扇動したものであったとか。
「白虹貫日教を根絶やしにせねば、朕は死ぬに死に切れぬ。厳罰を課しているにもかかわらず、いまだ各地で陰謀の気配が絶えぬとは。朕は臣下に恵まれぬ……!」
だから、主上の怒りも恨みもかように深い。邪教の廃絶がままならぬのに業を煮やして、不確かな呪文にさえ縋るほどに。愚かとも老いたとも言えようが――わらわにはつけ入る隙になるから、良い。
可憐な美姫の笑みをまとって、わらわは主上に粥を掬って差し上げる。
「主上のご覚悟を、天も必ず聞き入れてくださいましょう。その時をめでたく迎えるためにも、どうぞお食事を――」
白虹貫日教の宗徒の中には、人知を超えた術に長けた者もいるという。幻を操ったり、人心を惑わせたりしては、数では遥かに勝る鎮圧の軍を退けたり壊滅させたりさせてきた。
歴史上、頭目とされた者を捕らえて処刑したことも何度かあるが、その度に数百里を隔てた地で健在が喧伝されるのが常であった。虹――白虹貫日の宗徒が崇める龍に似た幻獣――には頭が複数あるだとか、皮を脱いで生まれ変わるだとか言われることもある。
まあ、多くは将の無能や腐敗や、賊との癒着を糊塗するための尾ひれがついた噂ではあろうが――油断がならぬ手ごわい輩であるのは、間違いない。
宝物盗難の騒ぎの時、主上が怪しい術云々と口になさっていたのも邪教の妖術に惑わされた経験があればこそ。世に不可思議があると信じ込んでいらっしゃるからこそ、亡き皇后のお告げなども信じるのだ。
裏を返せば、白虹貫日教のお陰で、わらわは主上にお目通りできたのだ。邪教の者どもには、いっそ感謝すべきではないか? のう、通天万照鏡?
<……そう、だね。そういうことにしておこうか>
不承不承といった調子でうなずく声が、わらわの頭に響く。さて、どの色の光を映して言っているのであろうな?




