第1話 老皇帝の猜疑
翌朝――わらわは早々に牢から出され、後宮の一角にて療養することを許された。当然である。
あの独房には、わらわに代わって応宝林が入れられたはず。職務に忠実な李掖庭丞は、さぞや張り切っていることであろう。
無論、通天万照鏡は、懐にしまい込んで持ち出した。清潔な部屋に移った後は、泥などの汚れをきれいに拭って新品同様の輝きを取り戻しておる。
光りしゃべる不可思議な鏡を傍らに、わらわは茶菓を楽しんでいた。
砂糖と油をふんだんに使った揚げ菓子は、ただの宮女には過ぎたもの。冤罪で打たれたことへの見舞いと、犯人を告発した褒美の意味合いがあるのであろう。女帝として味わった美食には及ばぬが、これはこれで悪くない。
<宮女姿でも掃き溜めに鶴、って感じで光ってたけど――見違えたねえ、龍華様>
「そうであろう、そうであろう」
通天万照鏡の言葉も耳に心地好く、磨いた白銅の面に映るわらわの姿も我ながら眼福である。
尋問で乱れ、牢で汚れた髪は清められ丁寧に梳かれ、双髻に結い上げた。そこに挿すは牡丹を模した絹の簪花、さすがに金銀や玉をちりばめたものとはいかぬが、今のわらわの瑞々しい可憐さには似合いであろう。
額には金箔を使った花鈿を貼り、唇は花弁の形に紅を刷いた。斉胸の襦裙に重ねた大袖の披衫は薄く軽く、わらわの珠の肌を透けさせる。
羽衣めいた披帛も、薄絹の袖や裾も、身じろぎするたびに揺れ躍る。天女が舞うかのようであろう!
「――この後は、主上よりお召しがある。冤罪をかけられながら、自力で晴らした宮女に興味があるとの仰せであった」
自身の姿に見蕩れながら、わらわは揚げ菓子を口に放り込んだ。じゅわりと滲む甘さを堪能してから、鏡に向けてにい、と笑う。
「前の時は、そなたが主上に術とやらをかけたのだ。何やら、思考がぼやけて目を合わせた相手の言葉に一も二もなくうなずくのだとか――」
<魅了幻惑の術、だね。任せて>
勢いよく請け合ってから、通天万照鏡は不穏な深い紅に揺らめいた。
<桑松黎――老いたとはいえ、残虐冷徹な男……! 心してかからないと>
東華国の皇帝の名を呼び捨てるのは、本来は大罪であろう。とはいえわらわと鏡の仲だからいちいち咎めはすまい。
「いや、此度は要らぬ。そなたの力は温存しておくが良いぞ」
<はい!?>
それに、今は次の手を考えるほうが先決じゃ。わらわは油を拭った指先で、鏡の面を悪戯に突いて、笑う。
「かねてより思っていたが、そなたは主上を恐れすぎじゃな」
<だって。長い治世の中で幾度となく乱を招き、民に苦しみを強いた暴君だよ? 桑氏の天命が尽きたのだって――>
「そして、次の天命はわらわに下ったのであろう?」
<……そう、だけど>
通天万照鏡が浮かべたのは、疑いを表す緑。最初よりは色は淡いが、まだわらわを信じ切れていないようだな。まったく、わらわを誰だと思うておるのか。
「案ずるな。わらわの知る主上は、呆けの入った扱いやすいおじじ様であったぞ!」
こやつを心服させてやることもまた、急務であろうな。一石二鳥を、狙うとするか!
* * *
さらに数日後、果たしてわらわは紫薇宮に召された。わらわの認識では数十年にわたって自らの住まいであった場所に、わざわざ招かれることになる。何とも不思議なことだのう。
通天万照鏡を懐に隠したわらわは、宮の奥、紫燕が彩る池を望む四阿に通された。待つのは、主上のほかにはわずかな女官と宦官のみ。内々の席だから、というだけではあるまい。
今の主上はすでに齢七十を越えておられる。後宮の事件にご興味を持たれたとして、威儀を正して詮議の席を設けるだけの気力はもはやないのだ。
牢のそれとは違って、美しく磨かれた敷石に平伏したわらわの頭上に、掠れしわがれた声が降る。
「――汝が夏龍華か。災難であったようだな」
「もったいないお言葉でございます」
打たれたことは報告されているであろうし、爪が剥がれた指先も、さりげなく見せている。それでも主上の声は乾ききって、労わりの気配は微塵もない。
当然であろう。皇帝たるもの、宮女ひとりの進退をいちいち気に懸けはしない。わらわが召し出されたのは、単なる興味だけが理由ではないということだ。
「面を上げよ」
「は――」
命令に従ったところで、皇帝の龍顔をまじまじと見つめるわけには行かぬ。わらわはすぐに目を伏せ、恭順の意を示した。
だが、一瞥しただけでも充分であった。貴色の黄の袍の輝かしさと裏腹な、くすんだ土の色の痩せた頬――主上は、老いてお疲れである。長年にわたって玉座にある重責に、喘いでおられる。
これは、早くわらわに後事を託していただかねばならぬな!
わらわの決意など知る由もなく、主上は枯れた声で淡々と告げた。
「応宝林は絞首、かかわった宦官どもは斬刑とした。罪を暴いたことに対しては褒美があるべきだが――」
酷刑をわざわざ教えたのは、脅し揺さぶるためであろうな。わらわも使う手法であるゆえよく分かる。
主上はさすがに疑い深くてあらせられる。悪事の犯人が分かって良し、で終わらせるはずなどないのだ。
慎ましく敷石に視線を落としていても、主上の目が鋭く険しくわらわを貫いているのがありありと感じられた。
「汝はいかにして知った。打たれても言わなかったことを、なぜ後になって告げた。汝も共謀していたのを裏切ったか――それとも、怪しげな術でも使ったか」
前は、ここで通天万照鏡が術をかけたのだ。目を合わせた者の言葉に従う魅了幻惑の術――傍からは、わらわの美貌にお心を捕らわれたようにしか見えなかったであろう。
<頼むよ、龍華様……>
その通天万照鏡が、わらわの頭に直接ささやく。
肌で触れていれば、わざわざ言葉にせずとも伝わるのだとか。まだわらわを信じておらぬのは不敬だが、まったく不思議で、しかも便利な鏡である。
受け答えを間違えれば、わらわの首も飛ぶ。目の前で惨劇が起きるのを恐れてか、控える女官や宦官どもが息を呑んで見守っておるわ。
だが、わらわは過たぬ。通天万照鏡の力を借りずとも、主上をあしらえることを見せてやろうぞ!
「それは――」
意識してわずかに震わせた、可憐な声をこぼす。か弱くも健気な美姫が、勇気をかき集めた風情を装って。
「わたくし、あの恐ろしい牢にて天に祈っておりました。我が身の潔白が明かされぬはずがない、宝物を盗んだ犯人を、どうか明らかにしてくださいますように、と」
<え?>
鏡よ、怪訝そうな声を伝えるでない。わらわも時と場合によって、口の利き方くらい変えるのじゃ!
「一心に念じておりましたところ、亡き皇后様がお告げをくださったのです。応宝林の考えはあまりにも不敬でございましたから、一刻も早くお伝えしなければ、と……」
そこまで言い終えると、衣擦れの音が聞こえた。主上が興を覚えて身を乗り出したのであろう。
「朕に皇后はふたりいるが。どちらが申しておったのだ」
さて、ここで答えに気を配らねばならぬ。
確かに主上には皇后がふたりおられる。
若くして亡くなったお方と、その後に立后され、長く後宮を取り仕切った後、つい先年に世を去ったお方と。
後者は皇太子の生母でもあるから、今も後宮で話題に上るとしたら、まずそちらのお方のほうだ。
だが――
「恭慈昭皇后様であらせられました」
「おお……」
前者の、つまりはとうに身罷られて人の記憶からも消え去ったほうのお方の追号を挙げると、主上は呻きながら立ち上がった。
椅子が倒れる音に、女官宦官どもがびくりと首を竦める中、痩せた身体がよろめくようにわらわに近づいてくる。
骨の浮いた手がわらわの肩を掴み、激しく揺さぶる。
「雪梅はさ迷っておるのか。供養が足りぬのか。何かほかに、申しておったか」
<え、信じるんだ>
通天万照鏡が意外そうにつぶやくのも道理、冷徹な為政者と名高いお方が、ただひとりの女をいつまでも心に留めているなど、誰も知らぬであろう。わらわの、ほかには。
肩を掴んだ手に、自らのそれを優しく重ねて。わらわは、ここぞとばかりに微笑を浮かべた。優しく労わりに満ちた、慈母のごとき麗しい笑みを。
「主上のお心を案じておられました。亡きお方のことで憂えることがないように、と。――雪梅様は、主上をお恨みしてはいらっしゃいませんでした」
「そうか。そのようなことを……」
雪梅――恭慈昭皇后は、主上が乱の鎮圧に親征なされてご不在の折りに、病によって身罷られた。
目が行き届かなかった、やせ衰えて行くのを放って出征した、死に目に会えなかった。後添えのふたり目の皇后とその御子への遠慮で、皇城の者は誰もがそのお方のことを口にしない。供養も、思うほどに盛大には執り行えない。
その後ろめたさは、年を経るごとに膨れ上がり圧し掛かる。それを、いく分かでも取り除いて差し上げたのがわらわ、というわけだ。これは利く。
「よくぞ伝えた。伝えてくれた……!」
瞑目して、噛み締めるように絞り出す主上の頬を、わらわは披帛で拭って差し上げる。東華皇帝たるお方の涙など、人に見せてはならぬのだ。ただ――それほどの弱みを見せた女の存在を、お心に刻んでいただければ良い。
ややあって立ち上がった時――主上の声はいくらか若返り、力強さがみなぎっていた。
「夏龍華。雪梅の言葉を伝えたことへの褒美である。朕の傍に侍ることを許す」
「なんとありがたいお言葉でしょう。誠心誠意、お仕えいたします……!」
弾んだ声で快諾し、再び平伏したわらわの頭上で、女官宦官どもの驚きのどよめきが湧く。主上の御年で新たな寵姫が生まれるとは、想像だにしていなかったのであろうな。
中でもとりわけ大きく頭に響くのは、通天万照鏡の悲鳴のような叫びであった。
<こんなにあっさり!? なんで!?>
ふふん、何も驚くことではないぞ。
亡き皇后様への思慕も悔恨も、わらわは閨で飽きるほど聞いておるからな。年寄りは何度も同じ話をするものじゃ。
言うたであろうが。今の主上は、扱いやすいおじじ様であると!




