第3話 獄中での「再会」
牢に放り込まれるや否や、わらわは床に這いつくばり、髪から抜き取った簪を、敷き詰められた石材に立てた。
膝にじっとりと染み入る、悪臭放つ水の正体は深く考えまい。どうせ、わらわには相応しからぬ麻の粗衣に過ぎぬのだ。
手や腕を這っていったのが何なのかも、わざわざ気に懸けずとも良い。時刻はすでに深夜、灯りひとつない獄中では何も見えぬのだから、何もないのと同じことよ!
錫製の簪が早々に折れた後は、自らの手指を使う。石材の間に詰まった土や苔を取り除くうちに、べり、と嫌な感触があったが、爪が剥がれた痛みにも構わない。むしろ、懐かしいとさえ思う。
かつてのわらわも、こうして牢の床に齧りついたのだ。犯してもいない罪を認めるなどあり得ず、かといって牢獄で朽ち果てる末路も望まぬのなら、自ら活路を開くしかない。いかな儚い望みであっても、座して死を待つよりはずっと良い!
今のわらわは、アテがある分かつてのわらわよりもずっと気が楽で、しかも、無駄なく作業ができた。
ほどなくして、石材のひとつが揺らぎ――持ち上げた隙間から、薄青い光が漏れ出した。そして、聞いたばかりの、けれど懐かしい軽薄な声が。
<へえ……よく僕を見つけたね>
わらわは、それを石材の下から引っ張り出すと、こびりついていた土を丁寧に払った。
八稜の縁、裏面の宝相華の意匠、何よりもこの生意気なもの言い! 光がうっすらと紫を帯びたのは、平静を装おうとして喜びの桃色がにじんだのじゃな? 可愛いやつめ!
<僕は通天万照鏡。天に――>
「天に通じ万事を照らし出すのだな、存じておるぞ!」
口上を遮ったうえに先取りすると、鏡の表面は、今度ははっきりと困惑の紫色に染まった。
<え……?>
「我が名は夏龍華。そなたに龍気を見出され、一度東華国の玉座に上った者!」
<何て?>
かつての通天万照鏡は、鏡が語り出す不思議に驚き、不覚にも怯え疑ったわらわに、得意げに自らの由緒を語ったものであった。桑氏の天命が尽きたのを知って、新たに天下を統べる者を待っていて云々と。
長く温めてきたであろう口上を無にしてやるのは面白いが、一から説明せねばならぬのは面倒ではあった。とっとと済ませようと、わらわは手短にまとめる。
「だが、わらわを悪逆の暴君などと謗る不埒者どもを粛清し損ねたのが失態であった。そやつらの扇動した反乱で窮地に陥ったところ、そなたの時の流れを遡行する技によって、わらわの魂を四十年前に戻してくれた」
<待って>
しかし、四十年前のこやつは察しが悪いのう。自分はついて行けない、などと申しておったが、なぜわらわにかような手間をかけさせるのじゃ?
暗い牢にぺたりと座り込み、石の床から伝わる不快な湿気と冷気に耐えながら。通天万照鏡を目の高さに掲げ、わらわは辛抱強く言い聞かせた。
「通天万照鏡よ、再び玉座を目指そうぞ。今度こそあらゆる敵を見過ごさず、あらゆる陰謀を叩き潰して玉座を全うするのじゃ!」
この上なく分かりやすく明確に言ってやったというのに、鏡は猜疑の濃緑と困惑の紫を交互に浮かべて瞬いた。
<いやほんと待って……。玉座? 四十年? 君が――東華の皇帝になったって? そんな可愛い女の子なのに?>
可愛い、の一語は、話が一向に進まない苛立ちをわずかながら宥めてくれた。
「二十年ほどかかったがな。その時のわらわは円熟を極めた妖艶なる美姫であったぞ」
そう、四十の時も還暦の時も、わらわは常に美しかった。
が、通天万照鏡に映る姿を改めて見ると、十八の時のわらわの可憐さは格別であるな!
桃のような頬の、滑らかさと瑞々しさ。さんざん打たれて熱っぽいからであろう、ほのかに上気しているのがまた匂い立つような色香を醸している。ふっくらとした唇、潤んだ瞳と併せれば、まさしく朝露を湛えた芍薬の風情であろう。
思えば、妬まれて陥れられるのも当然であった。
「まあ、此度はもっと早く帝位を得られるやもしれぬ。何しろ二度目なのだからな!」
<僕を知ってるってことは、妄想ではないんだろうけどねえ>
無礼なことに、通天万照鏡はまだ猜疑と困惑の色の間で面を揺らめかせていた。お陰でわらわの顔色が悪く映ってしまっているではないか。
<時空遡行も、できなくはないけど……命と引き換えになりかねない大技を、君のためにやったって? この僕が?>
「それだけわらわの器を見込んだのであろう?」
<うーん、信じがたいなあ……>
聞き分けのない鏡を一喝すべく、わらわは大きく息を吸い込んだ――が、声を発する前に、牢の厚い扉が外から叩かれた。
「うるさいぞ! 大人しくしておれ!」
扉越しに聞こえる甲高い声は、見回りの宦官のものであろう。手にした棒で囚人を威嚇するのは常套手段だと、わらわは前の経験で知っておる。普通の囚人は怯えて黙るのであろうが、今は相手が悪かったな!
「うるさいのは貴様のほうじゃ」
「何!?」
わらわの再起に向けた、大事な話の腰を折るとは何ごとか。世が世なら厳しく罰してやるところであるが――
「まあ良い。手柄を立てる機会をやろう。――宝物を盗んだ真犯人は、応宝林じゃ!」
「な――」
扉の外の宦官が絶句したのも、まあ無理はない。宝林といえば八十一人いる御妻のひとり、れっきとした皇帝の妃嬪ではある。末席も末席、数合わせに過ぎぬ女にさほどの価値はないが。
「……苦し紛れの讒言か。罪が重くなるだけだぞ」
先ほどの尋問でも言わなかったこと、疑うのもまた当然よな。通天万照鏡を見つけるためにあえて牢に入ったなどと、下っ端宦官の想像には及ぶまい。
「主上の寵もなきに等しく、余生の蓄えにせんとの邪心で宝物を横流ししたのだ。無論ひとりではできぬこと、近侍の平少監もぐるじゃ!」
だが、わらわはすべてを知っておる。応宝林の近侍の宦官の名も共に挙げれば、信憑性はいや増そう。
「あの女の殿舎には、金銀の燭台だの玉の香炉だの、売り払う前の品がまだまだあるぞ? わらわの居室に仕込んだのは、そのうちのたったひとつに過ぎぬのだ。宝物殿の目録と実態の不一致は、一か所だけではないであろう? だからこそわらわに吐かせようとしたのではないか?」
「む――」
相手が揺らいだのを見て取って、わらわはここぞとばかりに畳みかける。今の可憐な声には似合わぬが――女帝として君臨して身につけた、有無を言わせず従わせる命令の声じゃ。
「畏れ多い大罪、許しがたい不敬である。見過ごして良いのか!?」
「し、しばし待て――」
慌ただしい足音が去ると、牢の中にはしばし沈黙が落ちた。
通天万照鏡が放つ光は――黄昏時の空のような、深い青の中に赤や黄や橙が閃く色。落ち着いた上で、意外な驚きと喜びを覚えている、といったところであろうか。
<……本当、みたいだね>
「言ったであろう?」
<うん……>
しおらしくうなずいてから、鏡は確かめるようにゆっくりと言葉を発した。
<君にとっての四十年前、僕が応宝林の罪を教えたんだね? それで冤罪を晴らして、栄達の切っ掛けにした……?>
「うむ。あの時はわらわも半信半疑であったからの、調べさせるまでに手間がかかったが――今なら、違う。見た通り、言った通りであろう?」
わらわはすでに、この鏡の力を信じておる。周囲の者を従わせるだけの立ち居振る舞いも身に着けた。
さらに――
「この頭には、何もかもが入っておる。これから起きること、誰が何を企むか、誰がいつ逆らうか裏切るか――そのすべてが、だ」
とん、と。指先で頭を突いて示してやると、通天万照鏡は喜びを表して鮮やかな桃色に輝いた。
<頼もしいね>
「頼るが良いぞ!」
素直な賞賛に気を良くして、わらわは顎を反らして笑った。
玉を打ち合わせたような澄んだ声が牢に響くが、構うものか。掖庭宮は、今宵は応宝林の調査に忙しく、囚人にかかずらう暇はないであろう。
何より、この高揚を押し殺すなど無理なこと。女帝になることを定められた身が、何ゆえ獄吏などを憚って声を潜めねばならぬのだ?
「わらわの知恵と勇気と美貌に、そなたの力が加われば、もはや恐れるものは何もない! 今宵ここより、新たな覇道が始まるのじゃ……!」




