第2話 冤罪からの投獄
わらわが威厳を保って泰然と振り向くと、手に手に武器を持ち、目を血走らせた男どもが押し寄せていた。開け放たれた扉からは黒煙が流れ込み、この者どもが皇城で働いた乱暴狼藉を教えていた。
見れば、装備も統一されておらぬ烏合の衆ではないか。このていどの連中が紫薇宮を泥のついた足で汚すとは嘆かわしい!
「誰が婆じゃ! 東華皇帝の前であるぞ! 平伏して叩頭せよ!」
わらわの一喝に、賊の間に動揺が走った。ふふん、これが皇帝の威厳というものである! 壇上の玉座にいるという高低差も手伝ったのであろう、平伏はせぬまでも、近づきかねているようだった。
手に持ったままの通天万照鏡が、わらわだけに聞こえるていどの声量でささやく。
<……いいぞ。ちょっと時間を稼いでね、龍華様>
ふむ、時の流れの遡行は大技と言っていたか。術の準備だか何だかが整うまでの間、賊どもを寄せ付けてはならぬということだな。
では、業腹ではあるが、賊どもとの問答に付き合ってやろうか。乱を起こしたからには。わらわに言いたいことがあるのであろうからな。
わらわは冷静にして賢明である。息を整えつつ、慎重に言葉を選ぼうとした、のだが――
「……国の乱れが目に余りましたゆえ、立ちました。貴女様には玉座を退いていただきたく。お命は保証しますゆえ、ご安心召されよ」
「黙りゃ!」
賊どもの間から進み出た男が述べたことは、あまりに聞き捨てならなかった。反射的に叫んだ後、わらわはその老齢の男を睨めつける。
なんと醜い男じゃ。
頬には深い傷跡が残り、しかも加齢による皺や染みがその傷跡をいっそう際立てている。どう見ても、怪しげな稼業に手を染めてきた破落戸崩れにしか見えぬというのに――なのに、広間に踏み入った賊どもは、畏敬の目でその男を見ている。
この男が、桑清虎なのか?
この見てくれで宗室の末裔を名乗り、皇城を落とすだけの兵を集めたというのか? 賊どもはなぜこの男に従ったのだ?
否、ならぬ――賊の来歴を考えるなど、皇帝のすることではない! わらわは吠えるように叫んだ。
「皇帝たるもの、賊に慈悲を垂れられて喜ぶとでも思うたか! 貴様らに屈するくらいなら死んだほうがマシじゃ!」
わらわの怒りに応じてか、轟音と共に広間が揺れた。賊どもが考えなしに放った火が回り、天井の一部が崩落したのだ。
見上げれば、玉座の直上を彩る龍の画も、あちらこちらを炎の真紅が彩っている。画の龍が炎をまとって動き出しているかのような一種の壮観に束の間、見蕩れる――が、龍の長大な体躯がぐらりと傾いだ。
梁が限界を迎え、天井が龍の画ごとわらわの頭上に落ちようとしている。
目を見開いたわらわの耳に、賊どもの悲鳴めいたどよめきが刺さる。
「あ、まずい――」
「誰か行け、死なせるな!」
「無茶を言うなよ!?」
その時――わらわの手の中で、通天万照鏡が声を弾ませた。濃い桃色の光は、喜びの輝きだ。
<……大丈夫、イケる。僕はついて行けないけど――ご武運を、女帝陛下>
鏡からあふれ出る光は、炎の不穏な真紅を圧倒してわらわを包み込む。玉座の下の賊どもも、もはやよく見えぬ――が、ただひとり、こちらへと手を差し伸べる者が、いる。
「夏皇母太后――」
「陛下と呼べ、下郎!」
桑清虎らしき者の声だ。
先々帝の寵姫であったころの称号でわらわを呼ぶとは、何たる不敬! 何たる不遜!
光のせいか、炎のせいか、それとも時を越える前兆なのか。目に映る何もかもが歪む。空気がひしゃげ、押しつぶされ、わらわ自身も千々に引き裂かれるかのような感覚が襲う。
だが、それでも。これだけは言ってやらねば! わらわは桑清虎がいる辺りを見据え、腹に力を込めて舌を動かした。
「貴様を見落としたのは失態であった。だが! 一度追い詰めたからと調子に乗るなよ、桑清虎! 次こそは、悪事を目論む前に貴様を探し出し、始末してやる……!」
わらわの言葉が、どこまで届いたのかどうか。言い切るか否かのうちに、龍の天井画がとうとう落ちた。光の奔流に加えて、火の粉と黒煙が彼我を隔てる。
わらわの肉体も――砕けたのか? わらわの、意識は。魂は?
何も分からぬまま、何もかもが光に呑まれた。
* * *
頬にひんやりとした感触があった。心地好――くは、ない。身体は、むしろ熱い。
否、痛い。肩に背、腿もずきずきと。何じゃ、この痛みは?
不審に身じろぎすると、痛みはいっそう激しくわらわを苛んだ。
「う――」
思わず呻いたわらわは、唇からこぼれた声の可憐さに目を見開いた。何としたこと、わらわの声はもっと低く威厳に満ちていたはずだが?
変化の理由を探る間もなく、何かが風を切る音が聞こえた。次の瞬間、鈍い音が響いて痛みがまた一か所増える。
「……っ、くぅ」
「夏龍華、寝たフリは止めよ! 休もうという魂胆は見え透いておるぞ!」
耳障りな甲高い声が、降ってくる。宦官か。わらわを呼び捨てるとは恐れを知らぬにもほどがある。舌を引き抜いて犬の餌にしてやらねば。
無礼者の顔を確かめるべく、わらわは顔を上げた。そう、夏龍華ともあろうものが、床に倒れ伏していたのだ!
「強情を張るのもほどほどにせよ。神妙に罪を認めるのだ!」
何度か瞬きをすると、声の主の顔かたちが像を結ぶ。
髭のないつるりとした頬に、猜疑心に満ちた細い目。典型的な宦官の顔と裏腹に、体つきは不釣り合いに逞しい。それは、その宦官が手に持つ棒が理由であろう。
罪を犯したり、不品行があった宮女や宦官を、あの棒で打ち据えるのだ。後宮は広く、嫉妬も愛憎も渦巻く場所ゆえに遺恨も陰謀も絶えない。毎日のように棒を振るう機会があるからこその体格だ。
「李掖庭丞……」
記憶の底から掘り起こしたその宦官の名をつぶやきながら、わらわは密かに得心した。
後宮の栄耀栄華とはかけ離れた、薄暗く湿った建物――ここは、罪人を収容する掖庭宮。
わらわは、後宮の宝物を盗んだ咎で尋問されているところであった。わらわの美貌と才知を妬み恐れた妃に陥れられたのだ。
無論、わらわはいくら打たれても罪を認めなかった。証拠まで用意されての冤罪であったから、傍目には罪人が居直っているようにしか見えなかったであろう。李掖庭丞の苛立ちはそのためだ。
「なるほど……」
「何だ、その目は!」
冷静にうなずいたわらわの態度が癇に障ったのか、李掖庭丞が棒を振り上げた。
二度、三度。硬い棒に打ち据えられる痛みに、わらわは歯を食いしばって堪えた。
前のわらわも同じことをした。犯してもいない罪を認めるなどあり得ぬこと。あの時は、憤りに任せて罵倒を連ねたのを理由に打たれたものだ。
卑劣な輩に屈してなるものか、の一念で耐えたのに比べれば、今はずっとやり過ごしやすい。
通天万照鏡は、ちょうど良き場所場面にわらわを戻してくれた。この後いかに振る舞えばあれと会えるかは、もう分かっておるからな。
ややあって――李掖庭丞は、棒を投げ捨てた。しょせん去勢された宦官のこと、体力が尽きたのであろう、息を切らせながら忌々しげに吐き捨てる。
「反省の色が見えぬ。このまま口を割らぬようなら、牢に入れるぞ。日も差さぬ音も聞こえぬ暗闇の中、虫と鼠を友に苔を齧って朽ち果てたいのか」
罪を認めるまで牢から出さぬ、とのお達しだ。並みの女なら震え上がって慈悲を乞うところであろう。前のわらわも、さすがに表情を凍らせた。だが、今は――
「うむ。そうする」
「何……?」
目を剥いた李掖庭丞に、わらわは晴れやかに微笑んだ。痛みをこらえて立ち上がると、身体が軽いのが爽快だった。この時は――わらわは十八であったか。さすが、還暦を迎えた肉体とはわけが違う。
「わらわに罪はないが、無意味に打たれとうはない。ゆえにとりあえず従ってやる」
紡いだ声も玲瓏そのもの、我ながら美酒に酔う心地さえするほどじゃ。わらわの美は歳を重ねても損なわれることはなかったが、若さとはやはり何ものにも代えがたい。
「さ、早う連れて行くのだ」
「夏龍華――」
呆然とつぶやく李掖庭丞の顔は、あまりにも間が抜けていておかしかった。ゆえに、わらわの名を呼び捨てた無礼は許してやることにした。
そうだ、確かこの者は後日罰してやったのであったな。罪なきわらわを打ち据えた恨みも屈辱も忘れがたかったから。
だが、一度女帝として人の上に立つ身になった今のわらわならば、感想も多少は変わってくる。
「わらわの美貌に惑わされず、職務を果たしたのは感心である。いずれ、主上に口を利いてやろう!」
そのころには、尋問の場にいた下級宦官も我に返っていた。形ばかりは罪人として両手を戒められ、わらわは意気揚々と牢に足を向ける。どちらに進めば良いかも、賢いわらわはちゃんと覚えておるのだ。
「やりすぎたか。おかしくなってしまったのか……?」
李掖庭丞がぼやく声が、背中から聞こえる。まったく、礼を弁えぬ者じゃ!




