第1話 皇城、陥落す
わらわの背で歓声と怒号、悲鳴と嘆声が湧いた。前者は皇城を侵さんとする賊どものもの、後者は守らんとする宦官どものものであろう。
外朝と内廷を分かつ光福門が破られたのだ。ここ、皇帝の寝所たる紫薇宮に賊が迫るのも時間の問題であろうか。
「おのれ……っ」
日月、星辰などの十二の紋章をあしらい、風をはらむ大袖の袞衣は重く、長く裾を引く裳はわらわの足にまとわりついた。逃げ落ちるためには宮女に扮したほうがと、恐る恐る進言してきた宦官の、白い顔が頭を過ぎる。だが――
取り合うに値しない愚考である!
わらわは夏龍華、東華国を統べる唯一にして正統なる皇帝である。いついかなる時でも相応しい装束をまとわねば、天意に背くというものだ。
わらわはまだ負けてはおらぬ。諦めておらぬ。逃げたりなどするものか――わらわには誰も知らぬ奥の手があるのだ!
その広間にたどり着いた時、わらわの息も鼓動も乱れていた。汗が滲んでかすむ視界に映るのは、贅と華麗を極めた吉祥の装飾。――この場にて、わらわの六十の賀を大々的に祝うはずであったのに。祝賀の献上品を携えた貴顕ではなく、野蛮な賊を迎えることになろうとは!
足取り荒く、わらわは壇上に設えられた玉座によじ登った。宦官のひとりかふたりでも残っておれば、担がせたものを!
玉座の傍らには、厳重に封をした盒子がある。男の皇帝であったなら、寵姫を侍らせる席にあたるであろうか。いったい何が、といぶかる者も多かったであろう、いわくありげな盒子の中身こそが、わらわの奥の手じゃ!
盒子の封印をむしり取ると、わらわは中身に呼びかけた。
「通天! 通天万照鏡!」
蓋の下にまず見えたのは絹布、それを取り払うと、花弁を模した八稜の縁の鏡が現れる。手に取れば裏面に感じる凹凸は、宝相華紋をあしらったものだ。
片手で取りまわせるていどの大きさの、ごくありふれた鏡だ。長年しまい込んできた割に白銅の輝きにも曇りなく、わらわの姿をあますことなく映し出している。
うむ、今日も美しく華やか、かつ威厳にも満ちた、皇帝に相応しい風格である。
冕冠はわらわの美意識に合わぬゆえ廃したが、だからこそ、この齢でも白髪ひと筋もない髪の艶やかさが明らかである。
高く結い上げた髪にあまた挿した金銀や宝玉の花鳥、その輝きが照らし出すはわらわの顔、これもまた染みも皺もなく、先々帝に愛された往時の面影を十分以上に留めている。
黒々として力強い双眸も、くっきりと弧を描く眉も――と美点を数え上げていた時だった。鏡の面が、淡い桃色の光を浮かべて瞬いた。そして響くのは、飄々とした若い男の声が響いた。
<あ、龍華様? 久しぶり――>
「おお、通天万照鏡よ、変わらぬな!」
そう――この鏡こそ、わらわを帝位を目指す切っ掛けとなった秘宝。天に通じ万事を照らすとの名に恥じず、わらわに色々と教えてくれた。口うるさいゆえ、ここしばらくは封印していたが、今こそ使いどころであろう!
安堵と喜びに頬を緩めつつ、わらわは命じた。
「危急の時である。何とかせよ!」
<ええ――>
鏡の面が、今度は紫色に瞬いた。長い付き合いゆえに知っておる、これは光の色で感情を現すのだ。
困惑の紫に続けて、沈思の濃紺に染まることしばし――通天万照鏡はやや真摯な声を発した。
<……反乱か。光福門が破られて紫薇宮にも賊が迫っている。ああ、火も放たれて――これは、詰んだねえ、龍華様>
言われてみれば、ものが焦げる臭いが鼻に感じられた。地がかすかに揺れるのは、賊どもが無遠慮に闊歩しているからというだけでなく、建物が崩れ始めているのやも。
だが、そのようなことはわらわが聞きたいことではない!
「わらわは東華の正統なる女帝ぞ!? 有象無象の賊どもが、わらわの玉座を穢すなどあってはならぬこと……! そなたの力があればあの獣どもを焼き払えるであろうが!」
<いや無理だって。いくら僕でもこれは無理、無理です。無理無理無理>
わらわの嫌う「無理」の語を六度も並べたうえに、通天万照鏡は黄色の光を明滅させた。こやつ、面白がっておるのか。
<そりゃあね? 皇城に押し寄せている反乱軍のいくらかを消し飛ばして、君をどこかに逃がす、くらいはできるよ? でも、そこからどうするのさ>
「決まっていよう。兵を集めて乱を収め、首謀者を八つ裂きにする!」
<あ、うん。君ならそう言うよね……>
わらわの気迫に圧倒されてか、鏡の光がすっ、と消えた。決然とした表情のわらわを映したまま、どうも軽い男の声が響く。
<でもね、その兵、いないと思うよ?>
「女帝の命に従わぬと申すのか? 将や兵や諸侯が!」
<うん。だからこうなってるんだよね?>
「馬鹿な。なぜじゃ!?」
<なぜって――>
鏡の面が、またも困惑の紫を浮かべて瞬いた。なぜと問われる理由が分からない、とでも言いたげで腹の立つ。
<だって君、桑氏じゃないじゃん。女だし。そういえばなんで玉座にいるんだ? って――皆、気づいちゃったんじゃない?>
桑氏は、東華を立てたかつての宗室の姓だ。わらわがその一族の出身ではないこと、女であること、いずれも事実。しかし、だから何だというのだ?
「わらわは正統なる女帝である。先帝から禅譲を受け、諸官の推戴を得て即位した! 東華の国土をつつがなく治め栄えさせてきた! この二十年にわたって、だ! わらわが玉座にいることに何の不思議もない!」
わらわの力強い宣言にも、不可思議な鏡の面は揺らがなかった。ただ、平静な声だけが返る。
<たぶん、外の連中は違う言い分があるだろうね。反乱軍の首領の名って――聞いてる?>
「うむ……」
さすがというべきか、通天万照鏡はこの短い間に驚くほどの情報を集め、把握したようだ。反乱軍の首領――ごく最近になって奏上されたその名を、わらわは熊の胆を舐める思いで口にする。
「……桑、清虎。宗室の末裔などと名乗っておるが、どこの馬の骨とも知れぬ破落戸じゃ! わらわに異を唱える桑氏の者は、あらかた黙らせたというのに!」
<要するに、民は桑氏の復位を望んだってことでしょ? 形式を整えて油断したのは、君の落ち度だ>
つまりは、民はわらわが思った以上に愚かであったのか。誰のお陰で平穏な暮らしがあるのかを考えもせず、些細な不満のはけ口を滅んだ一族の亡霊に求めたとは。
「恩知らずどもめが……!」
<さすが、反省しないねえ>
歯軋りと共に絞り出したわらわの目に、鏡が発する黄色の煌めきが刺さる。何が面白いのか、まったく分からぬ。わらわが我が身を省みる必要がどこにある? 悪いのはすべて、愚かな民と反乱を目論む賊どもであろうが!
「……その余裕は策があるからか? わらわの怒りを、あの無礼者どもにどう思い知らせてくれよう?」
<策、ねえ。あるといえばある、かな?>
鏡は、思わせぶりに黄色と桃色に瞬いた。頼られて嬉しい、とでも思ったのであろうか。鏡のくせに?
<君に放っておかれたおかげで、僕も力を蓄えられた。使う機会がなかったからね。おかげで大技が使えそうだ>
「回りくどい。端的に申せ」
こうしている間にも、荒々しい怒声が近づいてきている。
わらわの額から汗が伝うのは、確実に上がった空気の温度を感じ取ってのことだ。この紫薇宮にも火が放たれたのだ。猶予は、ないのだ。
<……時空を遡行する術がある。川の流れに逆行するように、本来は不可逆な時の流れを遡るんだ。魂だけなら、それができる>
「つまり?」
<やり直せる。今の君の記憶と意識を持って、最初から。君が一介の宮女だったころ、僕と出会った時のことは覚えてる?>
「……覚えている」
万事を照らすと称する鏡を見つけ、その力を目にしたわらわは狂喜したのだ。これで何もかもが変わる、何もかもが手に入る、と。
「四十年以上も昔のことだな」
あの時の喜びを、それ以来に起きた諸々を思い起こして、わらわはしみじみと言った。ほう、と漏らした息が鏡の面をわずかに曇らせる。
<そう、四十年分のやり直しだ。常人ならうんざりするところだろうけど――>
「わらわを誰だと思うておる。凡百の惰弱と一緒にするでない」
くどくどしい口上を遮って、わらわは胸を張った。鏡に映る不敵な笑みの、我ながらなんと頼もしいことか。
「わらわは東華国の女帝である。此度は不運に見舞われたが、二度はない!」
ふつふつと湧きあがる闘志に任せて、わらわは高らかに告げる。
「わらわに逆らう不埒者は、すべて叩き潰してくれる。次こそ玉座を全うするのじゃ……!」
わらわの宣言が広間を揺るがした、その残響が消えた瞬間だった。無作法な足音が間近に響いたかと思うと、剣戟や鎧が触れ合う無粋極まりない騒音と共に、粗野な声がなだれ込む。
「いたぞ!」
「派手な婆――夏龍華か!?」




