第1話 皇孫・桑冬柏
昌安門の騒動の後――そして、恭化州の馮少尹が処罰された後も、主上は桑清虎に皇城の一角を住まいとして与えた。宗室の一員として堂々と後宮にも招かれる清虎は、もはや主上の賓客であった。
さらに、主上は清虎を日を開けずに召し出しては、地方や市井の話を語らせた。そのたびにわらわも同席しては、褒美をやる、いやもったいない、のやり取りを聞くことになった。当然というべきか、桑清虎は主上からの褒美を謝絶して受け取ろうとせぬのだ。
<褒美の値を吊り上げようとしてるなら逆効果だよね。馬鹿なのかな?>
ふむ、そのような打算ゆえではないと思うのだが、通天万照鏡は、どうも清虎に対して刺があるのう。確かに、主上のご機嫌が傾いていっているのも事実ではあるのだが。
「ふん、そなたは無欲だのう」
「……申し訳ございませぬ」
今日も、何度目かの謝絶に遭って、主上は鼻を鳴らした。せっかくの厚意を、という苛立ちを察したのであろう、清虎は恐縮のテイで長身を縮めるが、折れる気配はない。
控える侍女や宦官が不安げな表情を漂わせ始めたのを巣食ってやるべく、わらわはあえて明るい声を上げた。
「清虎殿はまことに清廉なお人柄、わたくし、感服いたしました。いかがでしょう、洛王冬柏様の護衛を務めていただいては……!?」
「ふむ……?」
わらわがその名を挙げた洛王桑冬柏は、皇太子の長子。すなわち、主上にとっては孫にあたる。今はまだ十にもならぬ幼児ではあるが――後々のためには今のうちに近づいておきたい御子である。
桑清虎を生かしたからには、徹底的に利用せねばな!
<気になってたんだけど、皇太子ってとっくに成人してるよね? 何がどうなって龍華に帝位が回ってきたのさ>
うむ、それは楽しい話ではないゆえ追々に、な! そなたの力を借りずとも済むことゆえ気にせずとも良いぞ。
<ええ~暗殺とか陰謀とか要るんじゃないの~? 龍華様、今さらそんなのを嫌ったりしないでしょ~~?>
わらわと鏡のやり取りなど知る由もなく、主上はいく度か目を瞬かせた。思いもよらぬことを言われた、という意外の表情であった。
「冬柏か。確かに、今ひとつ覇気がなく頼りない子ゆえ、清虎を傍に置くのは良い刺激になるやもしれぬが」
「で、ございましょう!? 将来は帝位に上られる御子でもいらっしゃいます。清虎殿の功績に報いるには十分な褒美かと存じますわ!」
主上が迷ったり、清虎が固辞したりする暇を与えず、わらわは畳みかけた。
何しろ寵姫のおねだりで、恩ある美姫からの執り成しである。そもそも通らぬ見込みはほとんどない。
「さすがは龍華、名案である。明日にでも、皇太子に冬柏を連れて来させよう」
案の定、主上は機嫌よくうなずかれた。
「清虎も良いな? 今度こそ否とは言わせぬぞ。何、子供のお守りゆえ大したことではない」
「は、はい……」
庶民に近い暮らしをしていた清虎は、皇帝の孫の名など知らなかったかもしれぬ。だが、察することはできたのであろう。助けを求めるような眼差しがわらわに向くが、知ったことか。
わらわが助けてやった命なのだ。わらわのためにも励むが良いぞ!
* * *
皇帝の言葉は絶対である。ゆえに、皇太子とその幼い子は、翌日にはただちに紫薇宮に参じることになった。
「ご機嫌麗しく、父上――冬柏に守り役をつけてくださるとか」
皇太子――桑梓叡は、今は四十前後であったであろうか。通天万照鏡が懸念した通り、戦でも政でも相応の経験がある、つまりは押しも押されもせぬ後継者、というわけじゃな。
「……夏貴妃様のお気遣いとか。まことに感謝に堪えませぬな」
父帝の傍には、孫のような年の美姫――わらわのことじゃ!――が侍り、その美姫の進言によって、我が子が、つい先日までは庶人同然であった男の褒美のために利用されるというのだ。内心で思うところがあってもおかしくはなかった。
とはいえ、いまだ意識明瞭な父帝を憚ったのか、皇太子の声にも表情にも不満の色は見えなかった。
「うむ。まずは顔合わせと思うてな」
わらわと桑清虎を従えて、さらりと言った主上は、我が子に対して気兼ねや遠慮は無用と思っておられるのだろう。幼い孫に対してはなおのこと、否と言われることなど想像だにしておられないようであった。
「冬柏、朕と皇太子は語らうことがあるゆえ、そなたは龍華と清虎と遊んでいるが良い。朕の妃と宗室の一員であるから、気兼ねする必要はないぞ」
「は、はい。主上……」
主上が視線を向けた先で、白い顔の子供が小さく跳ねた。白い――日焼けを知らないというだけでなく、血の気が薄く見えるその子供は、黄色の袍の輝かしさに掻き消されそうな、儚い風情さえあった。
これが、桑冬柏。
わらわと出会うのはもっと後のはずであったが、印象は変わらぬな。主上が案じられるのも無理はない、というか。
父と祖父が去った後、所在投げにわらわと桑清虎を見上げる冬柏を見て、鏡も嘲るように言った。
<確かに覇気のない子供だね。広い東華の国を治めるなんて、できそうにない>
うむ。優しい子だが、少々病弱のきらいがあってのう。ゆえに、統治の重責はわらわが引き受けてやるほうが冬柏にとっても幸せであろう。
<あ、そういう理屈なんだ>
何やら勝手に得心した様子の鏡は放って、わらわは床に膝をつき、子供の目を覗き込んで微笑んだ。
「洛王様。貴妃の位を賜っております、夏龍華と申します。お目にかかれて嬉しゅうございます」
「……本当に?」
わらわの蕩けるような微笑みは、子供にも通じる美しさと嫋やかさであったであろう。にもかかわらず、冬柏が疑わし気につぶやいて目を逸らしたのは、この子の自信のなさの現れだ。
偉大なる東華の後継者に相応しくない、とのささやきは、子供の耳にさえ届いているのだろう。皇帝の孫、皇太子の子という立場抜きでは、自分に価値などない。興味を持たれることなどないと、すでに諦めきっているのだ。
「もちろんでございます!」
何とも哀れなこと――であればこそ、年上の美姫に優しくされる、という甘い経験は効くであろう。鏡の魅了幻惑の術を借りるまでもない、子供を篭絡するくらい、わらわには容易いことである! 何しろ、わらわは冬柏の性格も好みもすべて把握しているのじゃ!
「こちらの桑清虎殿のお話を、わたくしも大変楽しく興味深く伺っておりました。市井の子供がよくするとかいう、虫取りだとか魚釣りだとか――とはいえ、畏れ多くも後宮で、それも、この動きにくい衣ではなかなかできませんでしょう」
「虫。魚」
ほら。期待をすまい、と言いたげに伏せられていた冬柏の目に、興味の光が煌めいた。
この子は、ずっと草花や鳥獣の類いを育てては、絵に描いたり生態を書き記したりするのが好きであった。学者の真似事、君子らしからぬ趣味ではあろうが――庭園を与えておけば満足する、本当に良い子であったのだ。
「皇孫殿下ならば、お庭でやんちゃをなさっても許されるかと。……市井の遊びに、ご興味はございませんか?」
魚が針にかかったのを見て取って、わらわは笑みを深めて畳みかける。話の分かる遊び相手、皇族らしからぬ遊びを許してくれる秘密の共有者と、思っていただかなくてはな?
「ある! 桑清虎とやら、私に教えておくれ!」
疑いや警戒は、もはや吹き飛んだのだろう。冬柏の、青白いほどの頬に赤みが刺した。高い声で強請られて、清虎は驚きに軽く目を瞠り――そして、会心の笑みを浮かべるわらわにうなずいてから、破願する。
「……はい。洛王殿下。喜んで。闘蟋(コオロギを戦わせる遊び)はお好みですか? 強いコオロギの見つけ方をご教示いたしましょうか」
「うん、知りたい!」
* * *
そうして、清虎は瞬く間に冬柏の心を解した。
わらわは知っておる、この子は馬術も武術も苦手で、本来は外遊びを好まぬのだが――清虎は、冬柏にひ弱な身体への劣等感を思い出させることなく、心行くまで遊ばせた。後宮の庭にあれほどの種類の虫やら蜥蜴の類いがいるとは、わらわもついぞ知らなんだ。
<そりゃまあ、宮女だって庶民とはかけ離れた生活をしているわけで。龍華様は、なんだかんだでお嬢様でお姫様なんだよねえ>
後の女帝を姫、などと呼ぶ無礼な鏡はさておいて。わらわは庭園の四阿にいた。遊び疲れた冬柏は、わらわの膝を枕にうたた寝しておる。主上と同じことを許された栄誉は、この年ではまだ分からぬであろうがな。
「すっかり懐かれたご様子ですね。さすが、貴妃様のお美しさとお優しさです」
「清虎殿のお陰でしょう。お見事なお手並みでしたもの」
絹の袍のところどころを泥で汚した清虎は、礼儀正しい距離を保ちつつ、わらわと冬柏を護衛する構えのようであった。賊が忍び入る余地のない後宮だというのに、律儀な男である。
「貴妃様は、殿下とお会いするのは――」
まあ、こやつを手なずけるのも必要なこと。主上が戻られるまで、雑談に付き合ってやることにするか。
「初めてでした。けれど、お噂は少々伺っておりましたから。馬や剣よりはああいうことのほうがもしかしたら、と。虫取りなども、男の子の好きそうなことでしょう?」
この男も冬柏も、さほど変わらぬ。さらに言うなら主上も、であろうか。
美しい女、若い女、着飾った女。本来なら縁遠いはずの存在に理解された、と感じるのはこの上なく楽しく喜ばしいらしい。ほかの女とは違う、と勝手に思ってくれれば好都合、と――微笑んでやったのはそんな打算があってこそ、であったのだが。
「夏貴妃様……!」
「な、何ぞ……!?」
不意に、桑清虎は声を上げると、わらわの前にひざまずいた。大仰な動作に、わらわは思わず冬柏の頭を落としそうになる。
幸いに、冬柏は目を覚ますこともなく、むにゃむにゃと唸っているだけであったが――何と無礼で、何と危険な。
叱りつけてやろうと、わらわは大きく息を吸った。だが、桑清虎がまくし立てるほうが、早い。
「故郷――恭化州から便りが届いております。皆、苛政の終焉を喜び、主上のご慈悲に感謝申し上げております。しかし――これもすべて、夏貴妃様がいらっしゃったからこそ。何と御礼を申し上げれば良いか……!」
「そのような――」
どうやら、わらわの笑みは効き過ぎたらしい。
もとより感謝の念に溢れんばかりであったこの男の胸に、最後の一滴を垂らした、といったところか。感激のあまり、思いのたけが決壊したのじゃな。
どうも買いかぶられているようで、落ち着かぬのう。
「……あの日、あの一瞬で、清虎様の真摯な思いが伝わりましたから。あれほどの必死なご様子は、きっとよほどの事情があるのだろうと思いましたの」
心を宥めるために、冬柏の乱れた髪を指先で直しながら――わらわは、淑やかな美姫が言いそうなことをどうにか拵えた。笑みもまとい直して、桑清虎が抱いているらしい幻想をますます輝かしく見せてやる。
「後宮でこのように絹と玉をまとうことができるのも、民あればこそ。取り立ててくださった主上のご恩に報いるためにも、非道や不正は見過ごせませんから……そう、きっと天の配剤というものでしょう」
「夏貴妃様……!」
桑清虎の目に涙が浮かび、きらきらと光った。最初に会った時といい、男のくせに涙もろいところがあるようじゃな。あるいは、わらわが美しいからこそであろうか。
「お姿ばかりだけでなくお心までもが清らかでお美しいとは――貴女様が主上のお傍にいてくださることこそ、天の思し召しかと」
「まあ、身に余るお言葉ですわ……!」
とにかく――見目好い男が身を乗り出し、賞賛の言葉を熱く捧げてくるのは悪くない。演技ということでもなく、わらわの頬には熱が集まる。鏡を取り出して見たならば、ほど良い朱が差していることであろう。
<あーあ、龍華様の外面に騙されちゃって。何も知らないで良い気なものだよね!>
当の通天万照鏡は、何やら不服げであったが。まあ、後で宥めてやれば良かろう。
「貴女様に引き合わせてくださったこと、心から天に感謝しております」
今は、桑清虎からの賛辞と、輝くばかりの崇拝のまなざしを堪能するので忙しいからな!




