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悪逆女帝は反省しない  作者: 悠井すみれ
第四章 女帝陛下、過去を思う

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第2話 嫌なものは嫌

 桑《そう》清虎《せいこ》は、皇孫冬柏(とうはく)の護衛兼遊び相手として、その邸宅に日参することになった。ゆえにわらわと顔を合わせる機会は減った――かというとそのようなことはない。

 主上が市井の話を珍しがって清虎を召すのは変わらぬし、冬柏も、後宮の庭園と、何よりわ(・)ら(・)わ(・)が(・)気に入ったようであったから。厳しい祖父皇帝への畏れや気後れを越えて、たびたび紫薇《しび》宮に詣でるようになったのだ。


 今日も、冬柏は池のほとりで魚を捕らえるための罠に見入っておる。清虎の指導のもと、竹で作った籠状の細工を沈めたものじゃ。後宮の池で養われる太った鯉を戯れで獲ることが許されるのは、皇孫ならではの特権であろう。


「冬柏様。日差しが強うございますよ。四阿《こちら》で削り氷を召し上がられては?」


 紺碧の琉璃瓦《るりがわら》の屋根が落とす影の下から、わらわは呼びかけた。

 すぐにかかるものではない、民はほかの仕事をしながらじっくりと待つのだと、清虎が言い聞かせたというのに。冬柏は鯉がかかる瞬間を見逃したくはないようであった。


「大丈夫!」


 高い声が強情に言い張るのを聞いて、わらわは主上や清虎と顔を見合わせて笑った。心身ともにひ弱なこの御子が、このように大きな声を出すのは、最近まではなかったこと。主上も、後の後継者のやんちゃぶりに安心しておられるのであろう。

 無論、小さな身体に変わりはないから、暑気による霍乱(かくらん)は心配なのだが――


「言い出したら聞かないお方です。土の湿り気と、水面を渡る風で、意外と涼しいとは存じますが。気を抜かずに注視させていただきます」

「清虎殿が見ていてくださるなら安心ですわね」


 氷水で冷やした蜜漬けの瓜を口に運びながら。わらわは何気なくうなずいた。冬柏の肌は危ういほどの白から健康的な色に焼けつつある。今宵は疲れ果ててぐっすり眠ることになるのかもしれないが、近侍の者どもにとってはかえって手間がかからないくらいのものであろう。


 前《・》の世界では、冬柏は最期まで病弱であった。今度は違った生を用意してやれると良いのだが。


 と、主上が茶器を卓に置く、高く澄んだ音がわらわの耳に刺さった。


「そなたらはすっかり打ち解けたようだのう」

「ええ。冬柏様も、心なしか逞しくなられたようで」


 わらわが考えていたのは、冬柏の成長と将来のこと。冬柏と清虎が、と自然に判じて相槌を打ったのだが――主上は、苦笑すると首を振った。


「違う。龍華《りゅうか》――そなたと、清虎のことだ」

「……は?」


 期せずして同時に目を見開き、溜息をこぼしたわらわと清虎から顔を背け、主上は冬柏を見つめておられた。ただ、そのまなざしは、孫を見守る祖父というよりは、若さへの嫉妬めいた憧憬に満ちていたかもしれぬ。


「朕はもう長くない。いかにそなたの位を高め、絹や玉や金銀を与えたとて、虚しいものよ。長い余生を寡婦として過ごさせるのは忍びない」

「そのような、不吉なことは――」

「老いた者が先に去るのは世の定め。分かり切ったことである」


 ありきたりの気休めを短く鋭く斬り捨てて、主上はわらわと――清虎へと向き直った。


「桑清虎よ。朕が亡き後、龍華をそなたに頼めぬか。ふたりして冬柏を見守ってくれ」


 清虎が息を呑む気配がした。主上のお言葉を聞きながら、脇を向く非礼など許されぬが――顔を見ずとも分かってしまう。驚きと同時に、納得と喜びもこもった息であった。


 皇帝からの、実質的な命令である。そもそも断る余地はないが、桑清虎は快諾しようとしているのだな。それを見て取ったのか、主上の頬がわずかに緩む。


「龍華も良いな。清虎なら不足はあるまい」


 頬に血が上り、わらわの目の前が、真っ白に染まる。白魚のごとき華奢な指が、裙を握りしめて深い皺を刻む。


「わ、わたくしは――」


 何ごとかを言わねば、と思うが、ひと言を紡ぐだけで額に汗が滲む。そんな有り様のわらわの頭を、今日も懐に隠れていた通天《つうてん》万照鏡《ばんしょうきょう》の絶叫が揺さぶった。


<ええええ何それ! 冗談じゃない!>


 思わず眉が寄ったほどの、駄々を捏ねる子供のような遠慮も加減もない叫び声であった。余人がいる席では、わらわの邪魔にならぬように弁えて、独り言ていどに留めるのが常だというのに。今は何を動揺しておるのか、しきりに語りかけてくる。生身の人間であったなら、肩を掴んで激しく揺さぶっているところであっただろう。


<龍華様(サマ)!? いくら顔が良いからって! 一度殺されかけた相手でしょ!? まさか、傍にいて監視しようとか思ってない!?>


 ええい、うるさい! わらわを誰だと思うておる! 東華の女帝として君臨する者が、一介の男の美醜に惑わされるはずがなかろうが!


「――絶対に嫌でございます!」


 うるさくはあったが――鏡の横やりのお陰で、我に返ることができた。わらわは、決然として言い切った。


「夏貴妃様……」


 桑清虎の、呆然としたつぶやきには、どこか傷ついた気配があった。わらわが赤面したからと、恥じらいつつうなずくのだろう、とでも思っていたなら残念であったな。わらわは、そなたていどに相応しい存在ではないのだ!


「何を言い出す。そなたにとっても悪い話ではなかろうが」


 とはいえ、わらわが対峙しているのは清虎ではなく主上である。小娘に真っ向から歯向かわれて、至尊のお方の声と視線が剣呑に尖る。

 そう、今のわらわはただの小娘に過ぎぬ。貴妃の位も主上によって与えられたもの、剥ぎ取るのも主上の一声があれば足りる――そう分かってはいても、堪えることはできなかった。


「嫌なものは嫌なのです! なぜそのようにひどいことを仰いますか!?」

「朕の気遣いを無下にするか。何と不遜な……!」


 心のままに言い放った高揚は、けれど、主上の一喝を浴びせられて霧消する。枯れた拳が卓を叩く音も、痩せた身体に見合わず雷鳴のごとき不穏な響きがあった。


「申し訳ございません。つい――取り乱しました」


 このお方こそが、今の東華の皇帝なのだ。わらわが生きるも死ぬも、主上のご機嫌次第。忘れてはならぬ――ならぬのだが、ひたすらに許しを乞わねばならぬのは、何と悔しいことか!


 内心で歯噛みしつつ、それでもわらわは椅子から滑り落ちるようにして主上の足元にひざまずいた。


「主上にお仕えすることこそがわたくしの幸せ、わたくしの喜び。ただでさえ、夢ではないか、幻ではないかと朝に夜に疑うほどの僥倖でございます。寵が失われることだけなら、ですから覚悟してはおりますが――そのような形だなんて、想像するだに恐ろしくて」

「ふん……!」


 無論、少しばかり殊勝にしたところでお怒りは解けぬであろうが。――ほれ、通天万照鏡よ、そなたの魅了幻惑の術の出番であるぞ!


<う、うん……龍華様……!>


 鏡の術によって、主上の目に浮かんだお怒りがわずかながら薄れた。その隙に、わらわは切々と訴える。


「わたくしは、あの応宝林(ほうりん)などとは違います。あの、主上が……身罷られた後のことの富貴に、何の意味がございましょう? そのようなことより、一瞬一瞬を大切に、主上にお仕えさせてくださいませ……!」


 わらわに宝物の横流しの濡れ衣を着せようとした応宝林は、主上が亡き後、尼寺に送られる身の上を悲観して蓄財を目論んだのだ。貞節や忠義よりも我が身を優先したりはしないのだ、と――鏡の術と併せれば、主上の勘気を和らげるには十分であろうか。


 念じつつ見つめること、しばし――やがて、主上は口元を引き攣らせるようにして笑った。


「……健気な物言いであるな。清虎よ、振られたな」


 完全に怒りを収めたというよりは、息を呑んで見つめる侍女や宦官どもの手前、そ(・)う(・)す(・)る(・)こ(・)と(・)に(・)し(・)た(・)、といったところであろうか。主上が清虎に向けた言葉には、まだ拗ねたような八つ当たりのような刺があった。


「畏れ多いことでございます。夏貴妃様のご忠誠に、臣も心打たれました。どうぞ末永くご健勝であらせられますように……」


 そして、従順に追従した清虎の声も、何かしらの感情によって揺れているように聞こえた。


 わらわに振(・)ら(・)れ(・)て(・)、傷ついておるのか、この男は!? 何たる不遜、何たる思い上がりであろう!

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