第14話:【執筆方針・豊能と多田源氏の系譜を見て北摂の気風を知る】
従来の歴史小説の世界観とは異なり、母方の親族、母系を軸に歴史を見直したいと考えています。中川清秀の母親は塩川氏の出身とされています。
1. 多田源氏の誕生と豊能の開拓
平安時代中期、源満仲が猪名川上流の多田(現・兵庫県川西市周辺)を開墾し、清和源氏の発祥の地となる多田庄を築きました。満仲の長男は酒呑童子を退治した源頼光であり、三男が河内源氏の祖である源頼信です。その血統は源義家(八幡太郎義家)へと連なり、鎌倉幕府や室町幕府の基盤を形作っていきました。
2. 「多田院御家人」としての塩川氏
多田源氏の家臣団および多田院の護衛・管理にあたった武士集団を「多田院御家人」と呼びます。その筆頭格として勢力を伸ばしたのが塩川氏です。塩川氏は多田院の威光を背負いながら、北摂の山間部を支配する国人領主へと成長しました。
3. 塩川氏の拠点「獅子山城」と鉱山利権
塩川氏は豊能一帯の交通の要衝を押さえ、鉱山を管理する一族でした。茨木北部には刀を含めた鉄器の鍛冶に関係する遺跡が複数存在しており、中川清秀が母方の血筋を通じてこうした技術的・経済的ネットワークにアクセスできたことは、彼の武将としての器を大きく支える背景となっていたのです。
4.北摂地区の中川清秀
北摂地区は京都の南西に位置し、西国街道沿いという交通の要衝にあります。隣の高槻市には三好氏の芥川山城があるなど、歴史的な話題が豊富な地です。
茨木地区の歴史上の偉人である中川清秀は、意外なほど世間一般には知られていません。歴史の過小評価といっても過言ではないでしょう。江戸時代以降に茨木城主となった片桐且元(豊臣家の家老)の知名度に隠れがちですが、戦国期の北摂を実質的に支えたのは中川清秀らの地侍たちでした。
当時、摂津の人々は応仁の乱以降、主家がたびたび入れ替わる激動の中にありました。主家の戦の度に男手が死亡していては国が滅びてしまいます。そのため、戦があっても農繁期には村へ戻り、領地を守り抜くという強かな生活の知恵が根づいていました。
中川清秀は、変な功名心や物欲に走るのではなく、寺社を窓口とした外交や、水運・鉱山の管理を通じて富を領内に循環させました。楽市楽座の先取りともいえるこうした地域経営のあり方こそが、北摂の気風を形作っていたと作者は考えています。




