第9章 ヒビ
硝子にヒビが入る時、最初は音がしない。表面に細い線が走るだけで、誰も気づかない。割れるのは、ずっと後だ。
十二月。汐浦の海は灰色になった。夏のきらめきも秋の深みもなく、空と海の境目が曖昧になって、町全体がくすんだ色に沈む。朝の通学路、千草は吐く息が白くなるのを見ながら坂を上った。手がかじかんでいる。手袋を忘れた。ポケットの中で拳を握っても、指先の感覚が戻らない。
スマホが鳴った。
父からの着信。千草は坂の途中で足を止めて、電話に出た。
「もしもし」
「千草か。ちょっと話があるんだが、今いいか」
父の声はいつも通り落ち着いていた。でも「話がある」という前置きに、千草の胃が小さく縮んだ。
「うん、大丈夫。何?」
「仕事のことなんだけどな。来年の春に転勤になりそうだ。九州の方の支社に」
「……九州」
「しばらく会いに来るのは難しくなるかもしれない。飛行機か新幹線になるから、月二回は無理だろう」
千草は電話を持つ手に力を入れた。冬の朝の空気が、肺の奥まで冷たく入り込んでくる。
「……そう、なんだ」
「すまないな。決まったらまた連絡する」
「うん。わかった」
千草は何か言おうとした。「寂しい」とか「嫌だ」とか、そういう言葉が喉の奥にあった。でも出てきたのは、
「お父さん、体に気をつけてね」
笑顔の声。電話越しでも笑顔が伝わるような、明るい声。
父は少しだけ黙って、「お前もな」と言った。電話が切れた。
千草はスマホを鞄にしまった。手が震えている。寒さのせいだと思うことにした。
坂を上り切って、校門をくぐる。渚が昇降口で待っていた。「おはよー! 遅いじゃん、うちもう凍え死ぬかと思った」。千草は「ごめんごめん、寝坊した!」と笑った。
二つの家のうち、片方が遠くなる。月に二回通っていた電車のルートが消える。父の家のウサギ柄のスリッパが、もう千草を待たなくなる。
帰る場所が、ひとつ減る。
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教室でも、千草はいつも通りだった。笑って、話して、冗談を言って。誰にも言わない。父の転勤のことを。
放課後。演劇部。
部室に入ると、渚が深刻な顔をしていた。
「千草、ちょっと。三上さんが部活辞めるって」
「……え?」
三上は一年生の部員だった。控えめだけれど舞台が好きで、照明を担当していた子。千草が入部を勧めた子だった。
「受験に集中したいって。さっきLINEで。うち、引き留めた方がいいのかなって悩んでるんだけど」
千草は部室の椅子に座った。パイプ椅子の金属が冷たい。三上が抜けたら、残る部員は四人。千草、渚、もう一人の二年生、そして一年生が一人。四人で「部」を維持できるのか。学校の規定では、部員が五人を切ると同好会に格下げされる。
「どうする、千草?」
渚の声が遠くに聞こえた。
「大丈夫! あたしたちでやれること考えよ!」
笑顔。声を張る。渚の不安を消すための笑顔。
でも机の下で、千草の指先が白くなるほど膝を握っていた。
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一週間が経った。
千草の日常に隙間がなくなっていく。
演劇部の冬公演に向けて、台本の書き直しが必要になった。四人でできる構成に変えなければならない。千草が脚本を修正し、演出を考え直し、小道具の調整もする。
クラスでは期末テスト前の委員会の仕事が回ってきた。文化委員の千草が取りまとめ役を引き受ける。「千草がやってくれるなら安心」と担任に言われた。
後輩から数学を教えてほしいと頼まれた。「千草先輩、教え方上手いんで」。断れない。断ったら、必要とされなくなる。
水族館では年末の特別イベントに向けた準備が始まっている。館内のBGMがクリスマスソングに変わった。明るい旋律が、閉館まで途切れずに流れている。シフトが増えた。閉館時間が延びる日がある。
朝、学校に行く。授業を受ける。昼休みは誰かと一緒にいる。放課後は演劇部。夕方から水族館。夜、帰宅。宿題。台本の修正。寝る。朝、起きる。繰り返す。
千草の一日から、余白が消えていった。夜、布団に入っても顎の筋肉が強張っている。笑い続けた一日の痕跡が、顔の奥に残っている。
渚が「千草、大丈夫? ちょっとやりすぎじゃない? うち、もっと手伝えることあったら言ってよ」と言った。千草は笑って「あたし、忙しい方が好きなタイプだから」と返した。
汐音が昼休みに「千草、顔色悪くない?」と訊いた。千草は「えー、そう? 朝ちょっと寝坊しただけだよ」と笑った。汐音は箸を止めて千草を見ていたが、千草が笑い続けるので、それ以上は訊かなかった。
帆波は何も言わなかった。ただ、千草を見ていた。
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ある日の放課後。廊下で帆波とすれ違った。
「最近、忙しそう」
帆波の声は平坦だった。非難でも心配でもなく、ただ見たものを言葉にしたような声。
「うん、でも楽しいよ!」
千草は笑った。
「……本当に?」
帆波が千草の目を見た。あの目。観察する目。笑顔の裏を見ようとする目。
「本当本当! あたし、こういうの好きだから」
千草は笑顔の出力を上げた。目も笑わせる。声のトーンも引き上げる。全力の「大丈夫」。でもその全力を出すのに、以前より明らかに多くの力を必要とした。顔の筋肉が、錆びた蝶番のように軋んでいる。
帆波は二秒ほど千草を見つめて、何も言わずに頷いた。
「そう」
それだけ言って、帆波は図書室の方に歩いていった。
千草はその背中を見送った。笑顔が、少しだけ歪んだ。口角が左右不均等に下がって、すぐに消えた。
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> **— 水槽の前で —**
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> 水の音が遠い。いつもはすぐそこに聞こえるのに、今日は壁の向こうみたいに遠い。
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> お父さんが遠くに行く。
>
> 「しばらく会えない」って。「しばらく」って、どのくらい? 半年? 一年?
>
> ……やめよう。考えない。大丈夫。あたしは大丈夫。
>
> 演劇部も大丈夫。四人になったけど、あたしが頑張れば回る。台本も書き直す。演出も変える。全部あたしがやれば大丈夫。
>
> 委員会も大丈夫。後輩の勉強も大丈夫。水族館も大丈夫。全部大丈夫。笑ってれば、大丈夫。
>
> ……でも最近、朝起きるのがちょっとだけ辛い。体が重い。目を開けて、鏡を見て、笑顔を作って、それから一日が始まる。その「笑顔を作る」の部分が、前より時間がかかるようになってきた。鏡の中のあたしが、あたしじゃない顔をしてる。
>
> 大丈夫。
>
> 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
>
> ……誰に言ってるんだろう、これ。
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夜遅く。水族館から帰る千草。
いつもの道。でも今日は足が重い。十二月の夜は早くから暗くなって、街灯の光だけが道を照らしている。
体が疲れている。頭も疲れている。でもそれ以上に、笑顔を維持する筋肉が疲れている。顔の表面が、一日中引っ張られた後のように強張っている。こめかみの奥が鈍く痛む。目の奥が熱い。
歩いていると、頬に冷たいものが触れた。
雨だった。
細い、十二月の雨。冷たくて、ほとんど音がしない雨。空を見上げると、街灯の光の中を斜めに落ちてくる雨粒が、細い線になって見えた。傘を持っていない。パーカーのフードを被って、歩き続ける。
スマホが鳴った。
帆波からのメッセージ。
「今日の夕焼け、きれいだったよ」
写真が添付されていた。海に沈む夕日。オレンジと紫のグラデーション。水平線の上に薄い雲がかかっていて、その雲が光を受けて金色に縁取られている。
千草はその写真を、雨の中で見つめた。
きれいだった。ただ、きれいだった。帆波がこの夕焼けを見て、撮って、千草に送ろうと思ったこと。「大丈夫?」でも「頑張ってね」でもなく、ただ「きれいだったよ」と。
千草の目に、涙が滲んだ。
理由がわからなかった。夕焼けの写真を見ただけなのに。きれいな景色を見せてもらっただけなのに。なのに涙が出る。雨と涙が頬の上で混ざって、区別がつかなくなる。
千草は道の端に立ち止まって、スマホを胸に押し当てた。雨が髪を濡らしていく。声は出さない。泣くことに慣れている。声を殺すことにも。
一分ほどで涙は止まった。千草は手の甲で目を拭い、スマホを見た。画面に雨粒が落ちて、夕焼けの写真が滲んでいた。返信を打つ。
「きれい! 帆波、写真上手だね。あたしも見たかったー」
スタンプを添えて送信。夕焼けのスタンプ。明るい返信。いつもの千草。
スマホをポケットにしまって、歩き出す。雨が少しずつ強くなっている。
足元の影が、街灯の下で雨に滲んでいた。




