第8章 砂浜の足跡
十一月の終わり。汐浦の海は、冬の気配を帯び始めている。
帆波は朝の教室で、窓の外を見ていた。空が高い。雲が速い。海は夏の明るさを失って、くすんだ灰青色をしている。窓の隙間から入り込む空気は冷たく、潮の匂いがいつもより強い。
閉館後の水族館で千草と過ごす時間が、二人の間で暗黙の習慣になりつつあった。毎回ではない。週に一度か、二度。千草のバイトがある日の閉館後、帆波が母親の研究室を訪ねるついでに、少しだけ残る。水槽の前に並んで座って、話したり、黙ったりする。
帆波は自分の中で起きている変化に気づいていた。
千草のことを考える時間が増えた。教室で千草が笑っている時、その笑顔の裏を知っている自分だけが感じるもの。千草の笑顔が完璧であればあるほど、帆波の肋骨の内側がきしむように痛んだ。
水族館で見せる千草の素の表情。力が抜けた目。低い声。飾らない言葉。あの顔を、もっと見たいと思う。
それが何なのか、帆波にはまだわからなかった。わからないまま、考え続けている。名前のない感情を持て余すことは、帆波にとって初めてのことだった。一人でいれば答えが見つかると思っていたが、見つからない。むしろ一人でいる時間の方が、答えが遠くなる気がした。
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昼休み。帆波は汐音と教室で弁当を食べていた。
千草は渚と一緒に食堂に行っている。窓の外には中庭が見えて、他のクラスの生徒が数人、ベンチに座っている。秋の終わりの陽射しが、教室の床にまだらな影を落としていた。
汐音が玉子焼きを箸で切りながら、ぽつりと言った。
「千草、最近ちょっと変わった気がする」
帆波の箸が止まった。
「前より……うーん、なんだろ。たまに目が笑ってないっていうか」
帆波は汐音を見た。汐音は弁当に目を落としたまま、箸を膝の上に置いて、考え込むように首を傾げている。
「気のせいかな。でも先週の体育の時、みんなでドッジボールしてて、千草ってめちゃくちゃ盛り上げるじゃん。声出して、走り回って。でも、チーム分けの合間に一瞬だけすごく疲れた顔してて。すぐ戻ったけど」
「……」
「あ、気のせいかも。千草はいつも元気だもんね」
汐音は自分の言葉を自分で打ち消すように笑った。でもその笑い方には、打ち消しきれなかったものが残っていた。
帆波は少し間を置いてから、口を開いた。
「汐音は、ちゃんと見てるんだね」
「え?」
「千草のこと」
汐音が目を丸くした。それから、少しだけ困ったように視線を逸らした。
「わたし、見てるつもりはないんだけどね。ただ、近くにいるから」
帆波は頷いた。近くにいるから見える。それは帆波自身にも言えることだった。
話題は午後の授業のこと、来週の小テストのことに変わった。でも帆波の頭の中には、汐音の言葉が残っていた。
「たまに目が笑ってない」。汐音も気づいている。全部ではないけれど、表面の罅を感じ取っている。汐音は千草の親友ではないけれど、千草の隣にいて、静かに見ている人だ。
帆波は自分が持っている秘密の重さを感じた。あの夜、水族館で見たもの。千草の涙。涙を拭って顔を作り直す仕草。それを知っているのは帆波だけで、誰にも言っていない。言うつもりもない。
でも、知っていることの重さが、少しずつ増えている。
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休日。千草から連絡が来た。
「明日、ひま? 天気いいみたいだから、海行かない?」
帆波はスマホの画面を見つめた。千草から誘われるのは、水族館以外では初めてだった。指が画面の上で一瞬止まった。行きたい、と思った。その即答の速さに、自分で少し驚いた。
「行く」
日曜の朝。汐浦の海岸。
千草はパーカーにジーンズという格好で来た。学校の制服姿しか見ていなかった帆波は、一瞬だけ目を留めた。髪を下ろしている。学校では結んでいることが多いから、下ろした髪が風に揺れるのは少し新鮮に見えた。
「おはよ! この町来てからちゃんと海行ったことないでしょ。案内するよ」
「案内役、好きだね」
「得意分野だから」
千草が笑う。でもその笑顔は、学校で見るものとほんの少し違った。力み方が緩い。八割くらいの出力。休日だからか、帆波の前だからか。
二人で砂浜を歩いた。十一月の砂は冷気で締まっていて、靴の下でぎゅっと硬い音がする。十一月の海岸は人が少ない。夏のような賑わいはなく、サーファーが数人、波を待っているだけだった。風が冷たく、波が白く砕けて砂浜を洗っている。潮の匂いが濃い。夏の甘い磯の匂いとは違う、冬に近づく海の、鋭くて清潔な匂い。
「この辺、夏はめちゃくちゃ混むんだよ。海水浴の人とか、バーベキューの人とか。でもこの時期は誰もいなくて、あたしはこっちの方が好き」
「わかる。静かな海の方がいい」
「でしょ?」
千草は波打ち際を歩いた。スニーカーの先が波に濡れないギリギリのところ。時々波が近づくと、笑いながら飛び退く。引き波が砂を攫っていく。足元の砂粒が海の方へ流れて、一瞬だけ地面が動く感覚がある。波が引いた後の砂は黒く濡れていて、千草の足跡がくっきりと残る。
「冬の海ってさ、ちょっと怒ってるみたいじゃない? 夏はにこにこしてるのに、冬は機嫌悪い感じ」
「海に感情があるとしたら?」
「あるよ、絶対。凪の日は穏やかだし、嵐の前はイライラしてる。あたし、海の気持ちわかるもん」
帆波は千草の横顔を見た。波打ち際を歩く千草は、教室にいる時とは違う体の使い方をしている。腕を振って、時々小走りになって、風に向かって目を細めて。子供みたいだ、と思った。
千草がこの町のことを話し始めた。夏祭りのこと。花火が水面に映ること。漁港の朝市のこと。父と貝殻を拾ったこと。
「お父さんは、今は?」
帆波が訊いた。
千草の足が少しだけ遅くなった。
「……内陸の町。別々に暮らしてる」
「そう」
帆波はそれ以上訊かなかった。
千草は一瞬だけ帆波を見た。訊いてこないことへの安堵と、もう少し訊いてほしかったかもしれない寂しさが、同時に顔をよぎって、すぐに消えた。
二人はしばらく黙って歩いた。波の音だけがあった。砂浜に二人の足跡が並んでいる。千草の足跡の方が少し大きくて、歩幅も広い。帆波の足跡はまっすぐで、千草のは時々横にぶれている。
波が来て、足跡を少しずつ消していく。
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防波堤に座って、自動販売機で買った缶のミルクティーを飲んだ。足元の岩場に浅い潮だまりがあって、冷たく澄んだ水の底で小さな貝が動いている。千草はホットを、帆波は常温を選んだ。缶を手に取ると、千草の方は指先にすぐ熱が伝わった。帆波の缶はひんやりとしている。
「岬さんってさ、寒くないの? 常温とか信じられないんだけど」
「寒くはない。ちょうどいい」
「嘘でしょ。風めっちゃ冷たいのに」
千草がパーカーのフードを被る。帆波はカーディガンの前を合わせるだけ。
「千草……じゃなくて、汐見さんは寒がりなんだね」
帆波が言い直した。千草の目が、少しだけ広くなった。
「今、千草って言いかけた?」
「……言い間違い」
「いいよ別に。千草って呼んで。あたしも岬さんってちょっと距離感あるなって思ってたし」
帆波は缶を両手で包んで、少し考えた。防波堤のコンクリートが冷たい。
「……千草」
「うん」
「千草」
「二回言った」
「練習」
千草が笑った。今日何度目かの笑顔。でもこれは、学校の笑顔とは違う。水族館の帰り道で見たのと同じ種類の笑顔。小さくて、不格好で、作り物じゃない笑顔。
帆波はその笑顔を見ながら、風に乱れる千草の髪を目で追った。頬が少し赤い。寒さのせいか、別の理由か。
千草の隣にいると、笑顔を作らなくていい気がする。千草がそう感じていることを、帆波は知らない。でも帆波の方にも、似たものが起きていた。
帆波はずっと、一人でいることに不自由を感じなかった。一人で本を読み、一人で考え、一人で過ごす。それで十分だった。誰かといることで得られるものが、一人でいることで失うものより大きいと思えたことがなかった。
でも今、防波堤に並んで座って、千草の横顔を見ている。冷たい風の中で缶のミルクティーを飲んでいる。一人でいても平気だったはずなのに、この時間が終わることを、少しだけ惜しいと思っている。
その感覚が帆波には新しくて、持て余していた。
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> **— 水槽の前で —**
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> 足の裏に、まだ砂の感触が残っている。靴は脱いだのに、体が覚えてる。あの砂浜の、ぎゅっと鳴る感じ。
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> 今日、帆波と海に行った。砂浜を歩いた。
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> あの子の隣にいると、肩の力が抜ける。笑わなきゃって思わない。なんでだろう。渚といる時は楽しいけど、「明るい千草」でいなきゃって思う。でも帆波の前だと、そのスイッチが入らない。
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> 砂浜に足跡が並んでた。あたしのと、帆波の。波が来て、少しずつ消してた。それ見てたら、なんかちょっとだけ寂しかった。消えちゃうんだなって。
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> ……あたし、あの子に甘えてるのかな。水族館で一緒にいてもらって、海に連れ出して。あの子は嫌がってないと思う。でもあたしは、あの子に何を求めてるんだろう。
>
> ……わかんない。でも、怖い。この気持ちに名前がついたら、きっともっと怖くなる。
>
> ……わたしは、何を怖がっているんだろう。名前がつくことが怖いのか、名前がついた後にあの子がいなくなることが怖いのか。
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帰り道。二人が別れる交差点。
夕方になって、空がオレンジ色に染まっている。海の方向に太陽が沈みかけていて、二人の影が長く伸びている。
「今日、楽しかった」
帆波がそう言った。声は平坦だけれど、「楽しかった」の響きに嘘がなかった。
「あたしも」
千草が笑う。パーカーのフードを被ったまま、缶を両手で持って。
帆波は千草を見た。夕日に照らされた千草の顔。笑っている。でもいつもの完璧な笑顔ではない。もっと曖昧で、もっと柔らかい顔。八割くらいの、力の抜けた顔。
「千草、今日はあんまり笑わなかったね」
千草の肩が、わずかに跳ねた。
「え……そう? あたし、笑ってたよ?」
「うん、笑ってた。でも学校の時みたいにずっとじゃなかった」
千草は何か言おうとした。「あはは、そうかな?」がいつものように喉まで来ている。でも、出なかった。
帆波が続けた。
「今日の方が、好きだった」
それだけ言って、帆波は角を曲がった。「また明日」と小さく手を振って、去っていく。
千草はその場に立ったまま動けなかった。
「今日の方が、好きだった」。
笑わなかった今日の方が。作らなかった今日の方が。八割の、力の抜けた、不格好な千草の方が。
顔が熱い。頬から耳まで、内側から熱が広がっている。十一月の冷たい風が吹いているのに、首筋まで火照っている。
千草はフードを深く被った。寒さのせいだと思いたい。でも、違う。
交差点に一人残された千草の耳に、遠くの波の音が届いている。潮が満ちてくる時間。砂浜の足跡は、もうほとんど消えているだろう。
でも、二人で歩いたことは、消えない。




