第7章 ふたりだけの水族館
暖房の温風が足元から立ち上がって、窓硝子の下半分を白く曇らせている。硝子に指を当てると、外の冷気と室内の温もりが薄い一枚を挟んで同居している。十一月の半ば。
千草が教室に入ると、汐音が帆波と話しているのが目に入った。帆波の表情はいつも通り穏やかで、汐音は文庫本を机の端に置いて、何かを説明するように手を動かしている。
「おはよ。何の話?」
千草が二人の席に寄ると、汐音が振り返った。
「岬さんのお母さん、今週から一週間海外出張なんだって。学会」
「え、一人で大丈夫なの?」
千草は帆波を見た。帆波は頷いた。
「大丈夫。自炊できるし」
「ご飯とか、ちゃんと食べてる? コンビニ弁当ばっかりとかじゃない?」
「昨日は肉じゃがを作った」
「肉じゃが!? あたし作れないよ肉じゃが。すごいね」
帆波は少しだけ首を傾げた。「じゃがいもと肉と玉ねぎを煮るだけだよ」
「それが難しいんだってば。あたし、料理は卵焼きと味噌汁が限界」
汐音が笑う。「千草、学校と部活とバイトで忙しいもんね」
「そうそう。生存に必要な最低限の家事スキルで生きてる」
笑う。いつもの調子。帆波は助けを必要としていない。千草の出番はない。わかっている。わかっているのに、気になる。帆波が一人で夜の家にいることが。
---
その日の夕方。千草は水族館のバイトに向かった。
受付に立ち、清掃をし、閉館作業をする。いつもの流れ。閉館のアナウンスが流れ、客が帰り、スタッフが帰る。
最後の片付けをしていると、受付に人影が見えた。閉館間際、もう受付は閉めている時間だ。
帆波だった。
「岬さん?」
「お母さんの研究室に忘れ物を取りに来た。入っても大丈夫?」
千草はスタッフ用のカードキーで通用口を開けた。「研究棟はこっちだよ」と案内する。帆波は「ありがとう」と言って中に入った。
千草は閉館作業の続きに戻った。モップをかけ、展示パネルの汚れを拭き、ゴミ箱を交換する。消毒液の匂いが手についている。作業をしながら、頭の片隅で帆波のことを考えている。忘れ物って何だろう。お母さんがいない間の一週間、あの子は毎晩一人で肉じゃがを作るのだろうか。
三十分ほど経って、作業がほぼ終わった。帆波はまだ帰っていない。
千草は展示エリアの方に向かった。もう照明は落としてある。非常灯と水槽の光だけの、あの青い空間。靴底がタイルを踏む音が、いつもと同じように反響する。でも今日は、その先に誰かがいるかもしれないという予感が、足取りを少しだけ速めていた。
メインホールの入り口に立って、千草は足を止めた。
帆波がいた。
イルカの大水槽の前に、立っている。
千草がいつも座る場所の近く。水槽の硝子に向かって、じっと水の中を見つめている。青い光が帆波の横顔を照らしていて、栗色の髪が深い紺に見える。
千草の呼吸が、一拍止まった。
ここは千草の場所だ。誰にも見せていない場所。笑顔を外す場所。イルカに語りかける場所。その場所に、帆波がいる。
「忘れ物、見つかった?」
声をかけた。自分でも驚くほど自然な声が出た。
帆波が振り返る。
「うん。でも、もう少しいてもいい?」
千草は迷った。
ここに誰かを入れたことがない。ここは千草がひとりで泣くための場所で、閉じられた空間だった。誰かが入ってきたら、その空間が壊れてしまうかもしれない。
でも帆波は、「もう少しいてもいい?」と訊いた。訊いてくれた。許可なく踏み込むのではなく、境界線の手前で立ち止まって、聞いてくれた。
「……いいよ。あたしも片付け終わるまでちょっとかかるし」
嘘だった。片付けはもう終わっている。でもそう言わないと、自分がここに留まる理由がなくなる。
---
二人で水槽の前に座った。
千草はいつもの場所。壁にもたれて、膝を立てる。タイルの冷たさが太腿の裏に触れた。いつも通り。でも、すぐ隣に帆波の体温がある。腕が触れるほど近くはない。でも、空気を介してかすかに温度が伝わってくる。いつもここにいる時は水槽の冷たさしか感じなかったのに、今日はその横に、人のぬくもりがある。
帆波は少し間を空けて座った。姿勢がいい。背筋が伸びていて、膝の上に手を置いている。
青い光。水の揺らめき。ポンプの低い振動と、エアレーションの泡が弾ける細かな音。ソラが水面近くをゆっくり泳いでいる。ナミは水底で片目を閉じたまま漂っている。眠っているのか、起きているのか、わからない。シオが水槽の端を旋回している。
沈黙。
千草は沈黙が苦手だ。普段なら何かを話す。冗談を言う。場を埋める。でも今は、この沈黙を壊したくなかった。水の音だけが流れている時間が、不思議と苦しくなかった。
ソラが水槽の中央をゆっくりと横切った。千草は無意識に小さく声を出した。
「ソラ、今日はのんびりだね」
自分に向けた言葉ではなかった。イルカに向けた言葉。いつも一人でいる時にそうするように、千草は自然にイルカに話しかけていた。
言ってから、気づいた。隣に帆波がいることを。
慌てて口を閉じようとしたが、帆波はこちらを見ていなかった。同じように水槽を見上げて、ソラの動きを目で追っている。
「いつもあの子が一番最後まで泳いでるの。ナミとシオが休んでても、ソラだけずっと泳いでる。のんびりなのに、止まらないんだよね」
止められなかった。帆波が黙って聞いているから。水槽を見ているから。千草の声は、学校の声でもなく、水槽の前で独り言をつぶやく時の声でもなく、その中間にある素朴な声になっていた。
やがて、千草がぽつりともっと深い話を始めた。
「水族館で働き始めたの、高一の夏。お母さんの知り合いが飼育員をしてて、紹介してもらった」
帆波は黙って聞いている。
「最初は受付と清掃だけだったんだけど、イルカのプールの掃除を手伝うようになって、そしたらイルカが寄ってくるようになって。ナミが最初に慣れてくれたの。手を水面に入れると、鼻先でつんってしてくる。冷たいんだけど、つるつるして、不思議な感触」
千草は水槽を見上げた。
「小さい頃、この水族館に来たことがあるの。お父さんとお母さんと三人で。まだ家族がひとつだった頃」
声のトーンが少しだけ下がった。千草自身もそれに気づいている。でも止められなかった。帆波の隣にいると、言葉が勝手にこぼれてくる。学校の千草なら絶対に言わないことが、この青い光の中では境界線を越えてしまう。
「あの時見たイルカショーがすごくて。イルカが跳んで、水しぶきがばーって上がって、あたし、びしょ濡れになって。お父さんに怒られるかと思ったら、お父さんも一緒にびしょ濡れで、みんなで笑って」
千草は笑った。でもそれは学校の笑顔ではなかった。もっと小さくて、もっと壊れやすい笑顔。記憶の中の光を見つめるような。
「……あの日が、あたしがイルカを好きになった日。もう十年くらい前だけど」
帆波は質問しなかった。「ご両親はどうなったの」とも「寂しくない?」とも訊かなかった。ただ、聞いていた。
「……この場所が好きなんだね」
帆波がそう言った。静かに。確認するように。
「うん。ここだと……」
千草は言いかけて、止まった。「ここだと笑わなくていいから」。その言葉が喉まで来て、出口で詰まった。
「……落ち着くから」
代わりにそう言った。帆波は頷いた。それ以上は訊かなかった。
千草は膝を抱えた。自分がどんな顔をしているのかわからなかった。笑っていない。でも泣いてもいない。力が抜けた、何の飾りもない顔。こんな顔を帆波の前でしていることに気づいて、慌てて口角を上げようとした。
上がらなかった。
頬が動かない。昨日の夜、鏡の前で目が遅れたのと同じだ。今度は口角そのものが、力を入れているのに持ち上がらない。顔の筋肉が、笑顔を拒んでいる。
でも、上げなくていいと思った。帆波がここにいて、何も訊かないでいてくれている。笑顔を求められていない。「千草、元気ないね?」と言われない。ただ隣に座っている。それだけ。
それがこんなに楽だなんて、知らなかった。
---
> **— 水槽の前で —**
>
> 隣に、温度がある。
>
> いつもこの場所はあたしと水槽だけで、硝子の冷たさしかなかった。でも今日は、右腕のすぐ横に、別の人の温もりがあった。触れてはいない。でもわかる。人の体温って、離れていても伝わるんだね。
>
> 今日、初めてこの場所に誰かがいた。岬さん。
>
> 怖かった。ここはあたしだけの場所だったから。あたしが泣いて、笑顔を外して、素の自分に戻る場所。誰にも見られちゃいけない場所。
>
> でも……不思議と、嫌じゃなかった。
>
> あの子は「大丈夫?」って訊かない。「何かあったの?」って訊かない。「元気出して」とも言わない。ただ隣にいるだけ。
>
> それが、こんなに楽だなんて知らなかった。
>
> 渚は優しい。あたしのことが大好きで、いつも一緒にいてくれる。でも渚の前では「明るい千草」でいなきゃいけない。渚があたしに求めてるのは笑顔だから。渚が悪いんじゃない。あたしがそういう関係を作ったから。
>
> でも岬さんの前だと、そのスイッチが入らない。笑わなきゃって思わない。理由がわからない。あの子がそうさせるのか、あたしがそうなるのか。
>
> ……ソラに話しかけちゃった。岬さんの前で。恥ずかしかったけど、あの子は何も言わなかった。あたしがイルカに話しかけるのを、ただ同じ方向を見て聞いてた。
>
> ……わたしの声を、あの子は聴いてくれたんだと思う。イルカに向けた声を。笑顔の裏の声を。
>
> 怖いけど。でも、今日はちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、嬉しかった。
---
帰り道。二人で水族館を出た。
通用口のドアを開けた瞬間、水族館の中とは別の空気が頬を叩いた。夜の十一月は冷える。吐く息が白くなりかけている。空には雲が少なくて、星がよく見えた。さっきまでの青い光の残像が、暗い夜空にゆっくり溶けていく。
千草は通用口の鍵を閉めて、帆波と並んで歩き出した。
「寒くない?」
「平気」
「あたし寒がりなんだよねー。冬はもこもこに着込むタイプ」
軽い口調。学校の千草に戻りかけている。でも完全には戻りきれていなくて、声がいつもより少し低い。
帆波が隣を歩いている。肩が触れるほど近くもなく、離れすぎるほど遠くもない距離。
街灯の下を通り過ぎる時、千草が笑った。
自然に。ふっと。口角が上がって、目が細くなって、すぐに消えた。作った笑顔ではなかった。水族館で過ごした時間がまだ体の中に残っていて、それが顔に出ただけ。小さくて、不格好で、すぐに消える。でも、本物の笑顔。
帆波はそれを見た。
学校で見る笑顔とは違う。形が整っていない。口角の角度も左右対称じゃない。目の細め方も足りない。
でも、これだ、と帆波は思った。
この笑顔を、覚えておこうと思った。
二人は道が分かれる交差点まで歩いて、「また明日ね」と言って別れた。千草は手を振った。帆波は手を振り返さなかったが、小さく「うん」と言った。
千草が角を曲がった後、帆波はしばらくその場に立っていた。冷たい風が吹いている。遠くで波の音がする。
帆波は歩き出した。一人の夜道。でも寂しくはなかった。
さっきの千草の笑顔が、まだ目の裏に残っている。




