第6章 イルカの笑顔
「千草、うち先帰るわ。台本の続きまた明日ね」
「うん、お疲れ! また明日!」
渚が教室を出ていく。鞄を肩に引っかけて、ぱたぱたと軽い足音を廊下に残して。千草は手を振り返してから、自分の鞄を片付け始めた。
十一月に入っていた。教室の窓から見える海の色が変わっている。夏の透き通った青は深い紺に沈み、空はどこか白っぽい。朝の通学路では、潮風がブレザーの隙間から入り込んで首筋を冷やすようになった。
あの夜から一週間。千草は何も変わらない日常を送っている。教室では笑い、演劇部では動き回り、水族館ではイルカに語りかけて帰る。いつも通り。
帆波の態度も変わっていない。学校では相変わらず静かで、汐音と話し、時々千草と目が合えば小さく頷く。特別な視線を向けてくるわけでもない。千草は安心する。あの夜、水族館に誰かがいた気配はなかった。
鞄のファスナーを閉じて顔を上げると、帆波がまだ教室にいた。
窓際の席で本を読んでいる。西日が差し込んで、ページの上に光の帯が乗っている。放課後の教室に残る空気は、暖房と埃の匂いがわずかに混じっていた。
千草は立ち上がって、帆波の方へ歩いた。
「また海の本?」
帆波が顔を上げる。
「シグネチャー・ホイッスルの続き。個体ごとの鳴き分けのパターンについて」
「あたしもイルカ好き。水族館でバイトしてるし」
「知ってる」
「え?」
「お母さんが水族館で働いてるから。スタッフ一覧で見た」
千草は笑った。「あ、そっか。そうだよね」
自然な会話だった。帆波の声にはいつも通りの落ち着きがあり、千草を窺うような気配はない。千草の肩から、力が少しだけ抜けた。
「イルカのこと、詳しくなった?」
「前からそれなりに。お母さんの影響で」
「じゃあ、あたしよりイルカ博士じゃん」
「飼育の知識は汐見さんの方がずっと上だと思う。私は文献でしか知らないから」
「あたしは逆に本は読まないから、知識は現場叩き上げ」
帆波の口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。帆波にしては珍しいことだった。千草の頬が、ふわりと緩んだ。作った笑顔ではなく、口元が勝手に動いた。自分でも気づかないうちに。
「ねえ、今日バイトないんだけど、一緒に帰らない?」
言ってから、少し驚いた。自分から帆波を誘ったのは初めてだった。案内役の時は仕事として一緒にいたけれど、それ以降は距離を保っていた。保っていたのは千草の方だ。帆波の静かな目が、笑顔の裏を見透かしそうで。
でも今日は、声が出た。
「いいよ」
帆波が本を閉じた。栞を挟む指先が、丁寧だった。
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海沿いの通学路。二人で歩く。
十一月の夕方は日が短い。四時を過ぎるともう空がオレンジ色に傾き始める。海面が光を散らして、きらきらと輝いている。冷たい風が千草の髪を揺らした。風と一緒に、潮と枯れ草の混ざった匂いが鼻に届く。
千草はいつものように話そうとして、少し迷った。帆波の隣にいると、弾んだ声を出すのに微妙な努力が必要になる。出せないわけではない。ただ、出さなくても許される気がして、どちらにするか迷う。
帆波が先に口を開いた。
「汐見さん」
「ん?」
「イルカって、口の形のせいで常に笑ってるように見えるんだよね」
千草の歩幅が、半歩分だけ狭くなった。
「……うん、知ってる。かわいいよね」
「でも、あれは表情じゃない。構造」
帆波の声は平坦だった。世間話をするように。道端の花の名前を言うように。
「笑ってるように見えるだけで、本当に笑ってるかはわからない。嬉しい時も、悲しい時も、同じ顔」
波の音が、急に近くなった気がした。引いていた波が寄せてくるように。
千草は前を向いたまま歩いている。口角は上がっている。笑顔の形は保っている。でも唇の端が震えているのが、自分でもわかった。
「……そうだね。イルカって、そういう生き物だよね」
「うん」
帆波はそれ以上何も言わなかった。
千草を責めているわけではない。問い詰めているわけでもない。ただ、イルカの話をしている。それだけのこと。なのに千草の耳の奥で、その言葉だけが繰り返されている。
笑ってるように見えるだけ。本当に笑ってるかはわからない。
帆波はそれに気づいているのかいないのか。何も言わない。ただ隣を歩いている。同じペースで。同じ方向を見て。
二人の間に沈黙が流れた。でも居心地の悪い沈黙ではなかった。波の音と、風の音と、二人の足音が、冷えた空気の中で混ざり合っている。
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> **— 水槽の前で —**
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> 頬の筋肉が強張っている。笑い疲れた日の夜は、顔がうまく動かない。口元を緩めても、頬だけが引きつったまま残る。
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> 今日、岬さんとイルカの話をした。
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> 「笑ってるように見えるだけで、本当に笑ってるかはわからない」って。
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> あたしのこと、言ってるのかな。わからない。あの子はいつも静かで、何を考えてるかわかりにくい。でもあの言葉を聞いた時、体がこわばった。足が止まりかけた。
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> もし、知ってるんだとしたら。あたしがここで泣いてるの、知ってるんだとしたら。
>
> ……怖い。
>
> でもね、あの子が言った時、あたし、少しだけ楽になった。「笑ってるように見えるだけ」って、誰かに言葉にしてもらえたこと。みんなはあたしの笑顔を見て「千草は元気だね」って安心する。でもあの子だけが、「それは見えてるだけだよ」って。
>
> 否定じゃない。攻撃でもない。ただ、事実を言っただけ。イルカの口の形は構造であって、感情じゃないって。
>
> わたしの笑顔も、構造なのかもしれない。
>
> あの子が読んでた本のこと、思い出す。イルカには自分だけの鳴き声があるんだって。名前みたいなもの。——あたしの声は、どれだろう。教室の声? ここでの声?
>
> ……怖いよ。でも、あの子の隣を歩いてる時、笑顔が震えた。震えたのに、あの子は何も言わなかった。震えてるのを、そのまま受け止めてくれた気がした。
>
> それが、怖くて、嬉しくて、よくわからない。
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家に帰った千草は、洗面所で顔を洗った。
タオルで水気を拭いて、鏡を見る。冷たい水の感触が肌に残っている。
自分の顔。飾りのない、素の顔。目の下に薄い隈がある。口元は力が抜けている。鏡の中の千草は笑っていない。
千草は意識的に笑顔を作った。口角を上げる。頬を引き上げる。
目が、ついてこなかった。
口は笑っている。でも目の中に光が入るまで、一拍の間があった。以前はそんなことなかった。口も目も同時に動いた。いつからだろう、目が遅れるようになったのは。
鏡の中の自分を見つめていると、イルカの顔が重なった。口元のカーブ。顎の構造が作る、変わらない形。笑っているように見える。
千草は鏡から目を逸らした。
歯を磨いて、部屋に戻って、ベッドに横になった。天井を見つめる。暗い天井に、水族館の水槽の光を思い出す。青い揺らめき。ソラの影。布団の中に潜り込むと、自分の体温で空気がゆっくり温まっていく。
スマホが鳴った。渚からのグループメッセージ。文化祭の打ち上げの話。千草は「行く行く!」とスタンプを送った。
送った後、スマホを枕元に置いて、目を閉じた。
「笑ってるように見えるだけで、本当に笑ってるかはわからない」
帆波の声が、耳の奥に残っている。静かな声。批判でも同情でもない、ただの観察。でもその観察が——千草の鎧の継ぎ目から、するりと入り込んでくる。
千草は布団を顎まで引き上げた。
眠れない夜が、少しずつ増えている。




