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水槽のアリア  作者: はるうた


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第5章 閉館後の水槽

 カードキーをリーダーにかざすと、ロックが解除される小さな電子音がした。帆波は通用口のドアを押し開けた。


 夜の汐浦水族館。母が研究室に資料を忘れたと言った。「取りに行こうと思うんだけど、帆波も来る?」。帆波は頷いた。夜の水族館には興味があった。


 母は研究棟の方に向かい、帆波は「少し見てくる」と言って展示エリアに足を踏み入れた。


 照明が落とされている。非常灯の淡いオレンジと、水槽から漏れる青い光だけが通路を照らしている。天井に水の揺らめきが映って、ゆっくりと形を変えている。昼間は子供の歓声と解説アナウンスで満たされている空間が、今は水の音だけを響かせている。ポンプの低い振動。ろ過装置の唸り。エアレーションの泡が水中で弾ける音。どこかで水が落ちる音。魚が水面を叩く小さな音。空気には海水と消毒液が混ざった匂いが、昼間より濃く、湿気とともに肌に触れてくる。


 帆波はゆっくりと歩いた。靴底がタイルを踏む音が反響して、自分の足音が二人分に聞こえる。


 小型の水槽が並ぶ通路を抜ける。クラゲの展示室。暗い部屋の中で、ミズクラゲが透明な傘を開いたり閉じたりしている。照明が青から紫に変わり、クラゲの縁がほのかに光る。水槽の硝子に近づくと、冷気が頬に触れた。きれいだ、と思う。昼間の水族館は人の気配が多すぎて、水の中の生き物を静かに見ることができない。でも今は、ここには帆波と、水と、硝子の向こうの生き物だけがいる。


 メインホールに向かう廊下。角を曲がりかけた時、声が聞こえた。


 小さな声だった。話し声。ひとり分の声。


 帆波は足を止めた。


 声はメインホールの方から聞こえている。誰かが話している。こんな時間に展示エリアにいるスタッフがいるだろうか。


 帆波は廊下の角に立ち、そっと覗いた。


 メインホール。イルカの大水槽。


 水槽の前の床に、誰かが座っていた。


 膝を抱えて、背中を壁にもたせている。水族館のスタッフ用の青いTシャツ。髪をひとつに束ねている。


 汐見千草だった。


 帆波の呼吸が止まった。


 千草は笑っていなかった。


 学校で見る千草とは、まるで別人だった。教室で太陽のように笑っていた顔から、光がすべて抜け落ちている。口角は下がっている。目は伏せられている。肩が落ちて、体が小さく丸まっている。水槽の青い光が千草を照らしていて、その横顔は水の底に沈んでいるように見えた。


 そして、千草はイルカに向かって話していた。


「……今日さ、演劇部の後輩に言われたの。『千草先輩がいるから安心です』って」


 声のトーンが違う。学校で聞く弾むような声ではなく、低くて、静かで、言葉のひとつひとつに重さがある。


「嬉しかったよ。嬉しかったんだけど……なんでだろ、ちょっと苦しかった」


 千草の手が膝を抱え直す。指先が白くなるほど、自分の腕を握っている。


「あたしがいるから安心する。あたしがいないと不安になる。それってさ、あたしがいなくなったら、その安心は消えるってことでしょ。あたしの代わりはいないってことでしょ。嬉しいはずなのに、重い。重いって思う自分が嫌で、嫌って思ってることも言えなくて」


 千草の声が震えた。


「……あたし、いつまで笑ってればいいのかな」


 涙が一筋、千草の頬を伝った。水槽の光を受けて、涙の筋が青く光った。


 千草はそれを手の甲で拭った。無造作に。慣れた動作だった。泣くことに慣れているのではなく、ここで泣くことに慣れている。この場所で、この水槽の前で、何度もそうしてきた仕草。


 帆波は動けなかった。


 見てはいけないものを見ている。そのことはわかっている。今すぐ踵を返して、廊下を引き返して、何も見なかったことにすべきだ。


 でも、目が離せなかった。


 あの千草が泣いている。誰よりも明るくて、誰よりも頼りにされて、教室の中心にいた千草が——暗い水族館の床に座って、イルカに向かって泣いている。


 帆波の手のひらに、爪が食い込んでいた。いつの間にか拳を握りしめていた。


 千草はしばらく黙っていた。涙を拭い、鼻をすすった。水の音と、その音だけがメインホールに響いている。


 やがて千草が立ち上がった。


 深呼吸を、ひとつ。


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。肩を引き、背筋を伸ばす。顔を上げる。


 そして——顔を作り始めた。


 口角が上がる。頬が持ち上がる。目が細まる。ひとつひとつの動きが正確で、迷いがなかった。さっきまで泣いていた顔が、三秒もかからずに「いつもの千草」に戻る。完成した笑顔は、学校で見るものとまったく同じだった。同じ角度、同じ曲線。


 帆波はその切り替えを見て、背筋が冷たくなった。


 まるで化粧を直すように。壊れた仮面を修繕するように。慣れきった手つきで、千草は自分の顔を塗り替えた。


 千草が水槽に向かって手を振った。


「また明日ね」


 いつもの声。明るくて、軽くて、何の問題もない声。


 千草が振り返る。出口に向かって歩き出す。帆波は咄嗟に身を引いて、廊下の柱の影に隠れた。全身がこわばって、指先が冷たい。


 千草の足音が近づいてくる。スニーカーがタイルを踏む音。すぐそばを通り過ぎていく。制服の上に羽織った青いTシャツが擦れるかすかな音。かすかに、せっけんの匂いがした。千草は帆波に気づかない。通用口の方へ歩いていき、やがて足音が消えた。


 ドアが開いて、閉じる音。


 静寂が戻る。


---


 帆波は柱の影に立ったまま、しばらく動けなかった。


 呼吸を整える。握りしめていた手を開くと、掌に爪の跡が四つ、白く残っていた。


 ゆっくりと歩き出す。メインホールに入る。さっきまで千草がいた場所。水槽の前の、床。タイルの上に、千草がいた痕跡は何も残っていない。温度も、形も。ただ、水槽の光だけが同じように床を照らしている。


 帆波はそこに立って、水槽を見上げた。


 イルカが泳いでいる。大きな体がゆっくりと旋回し、水面に浮上する。噴気孔から短く息を吐く音が、静かなホールに響いた。また潜っていく。水槽の底からの光がイルカの腹を照らして、滑らかな皮膚が青白く光る。


 口元のカーブ。顎の構造が作り出す、あの形。


 笑っているように見える。


 帆波はそれを見つめた。長い間。


 この水槽の前に、千草はどれくらいの間、通い続けてきたのだろう。一人で。誰にも見られずに。笑顔を外して、涙を流して、そしてまた顔を作り直して。繰り返してきたのだろう。


 帆波は声に出さず、唇だけを動かした。


 あの子はずっと、ここで、一人で泣いていたのか。


 イルカが水槽の中を横切った。口元は笑っている。何の感情も込められていない、構造としての笑顔。


 帆波は水槽に手を触れた。硝子は冷たかった。指先から、冷たさが手首の方まで上がってくる。向こう側の水は、触れられない。透明なのに、届かない。


 千草も、こうやって硝子に手を当てていたのだろうか。


 母から電話が来た。「資料見つかったよ、帰ろう」。帆波は「今行く」と答えて、水槽から手を離した。指先に、硝子の冷たさだけが残った。


 メインホールを出る前に、一度だけ振り返った。


 水槽の青い光が、誰もいないホールを静かに照らしていた。


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