第4章 触れない距離
水槽の硝子に手を当てると、寄ってくる魚と泳ぎ去る魚がいる。千草は昔から、寄ってくる方が好きだった。
四時間目の現代文。千草は教室の窓から海を見ていた。先生の声が遠い。ノートには冒頭の三行だけが書かれていて、その下に無意識にイルカの落書きが増えている。十月の海は、九月に比べて色がひとつ深くなっている。夏の明るい青が、少しずつ暗さを含み始めていた。
帆波が転校してきて数週間が経った。
千草は「案内役」の任を終え、いつもの距離に戻ろうとしていた。帆波にはもう案内する場所もない。食堂もトイレも体育館も図書室も全部教えた。質問されることもなくなった。千草の役目は完了したはずだった。
なのに、帆波のことが気になる。
教室で帆波を探している自分に気づく。無意識に視線がそちらに向かう。帆波は窓から二つ目の列、汐音の隣の席。授業中は姿勢がよくて、ノートをきちんと取っている。休み時間は本を読んでいることが多い。汐音とは自然に話すようになった。渚とも、時々言葉を交わす。
でも、帆波は教室で目立たない。声が大きいわけでもなく、誰かの輪に積極的に入るわけでもない。かといって浮いてもいない。そこにいて、静かに空気に馴染んでいる。窓際に置かれた鉢植えのように——あることが自然で、ないと少しだけ寂しい、そういう存在の仕方。
千草は自分と比べてしまう。
あたしは、一人でお昼を食べたことがない。
中学の時から、いや、小学校の高学年から。お昼休みに一人でいるのが怖かった。正確には、一人でいる自分を誰かに見られるのが怖かった。だからいつも誰かのそばにいた。声をかけた。誘った。誘われた。輪の中にいた。それが千草の生き方だった。
でも帆波は——一人でいることに怯えていない。昼食を一人で食べる日もあれば、汐音と食べる日もある。どちらでも同じ顔をしている。一人でいても欠けない。誰かといても溢れない。
千草は窓の外に目を戻した。海が午後の光を受けて、白く細かく揺れている。潮が引き始める時間帯だった。水際が少しずつ遠ざかっていく。手を伸ばしても届かない場所に、海が退いていく。
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ある日の放課後。千草は演劇部の活動を終えて教室に戻ると、渚が鞄を肩にかけて待っていた。
「千草、今日バイトないんでしょ? うち、駅前のクレープ屋寄りたいんだけど」
「あ、ごめん。ちょっと図書室行きたくて。先に行ってて」
「えー、一人で? 珍しいじゃん」
渚が目を丸くする。千草が放課後に一人で図書室に行くことは、確かにほとんどない。
「ちょっと調べものがあるの。演劇の参考資料!」
「ふーん。じゃあまた明日ね」
「うん、また明日!」
渚と別れて、図書室の前を通りかかった。
窓から中が見えた。帆波がいた。
窓際の席で本を読んでいる。一人きり。西日が机の上に長い影を落としていて、帆波の栗色の髪が柔らかく照らされている。本に目を落とす角度、ページをめくる指先、時々ほんの少しだけ眉を上げる仕草。古い紙とインクの匂いが、開け放たれたドアの隙間から廊下にまで漂ってきていた。
千草は足を止めて、図書室に入った。
「何読んでるの?」
帆波が顔を上げた。驚いた様子はなかった。千草がここにいることを、来る前から知っていたように。
「イルカの本」
指先が、かすかに震えた。
「イルカ? あたしもイルカ好き。どんな本?」
千草は向かいの席に座った。椅子を引く音が、静かな図書室に響いた。帆波が本の表紙を見せる。『海棲哺乳類のコミュニケーション——エコーロケーションから社会的学習まで』。学術書に近い厚さの本だった。表紙のイルカの写真が、西日を受けて光っている。
「……難しそう」
「面白いよ。イルカは音で世界を見てるの。超音波を出して、反射で周囲の形を把握する。エコーロケーション。水の中は光が届かないから、音が目の代わりになる」
帆波は本の話をする時、少しだけ声のトーンが上がる。千草はそれに気づいた。普段の帆波は声に抑揚が少ない。でも海の生き物の話をする時だけ、言葉の端々に熱が乗る。机の下で、帆波の指先が本の背表紙を無意識になぞっている。
「へえ……音で、見るんだ」
「うん。仲間同士でも音で会話する。名前みたいな固有の音を持ってて、それでお互いを呼び合うの」
「名前があるんだ、イルカにも」
「シグネチャー・ホイッスルっていう。自分だけの音。生まれてすぐに覚えて、一生変わらない」
千草は窓の外に目をやった。図書室の窓からは、校舎の裏手の木々が見える。葉の隙間から、遠くに海が光っていた。一生変わらない、自分だけの音。
「……いいね、それ」
「何が?」
「自分だけの音。変わらないって、いいなって思って」
帆波がほんの一瞬、千草の目を見た。何かを読み取ろうとするような目。でもすぐに本に視線を戻した。
「水族館でバイトしてるんだよね」
「うん。高一の夏から」
「イルカの名前、知ってる?」
「もちろん。ソラとナミとシオ。ソラが一番おっとりしてて、ナミは人懐こくて、シオはマイペース。性格がみんな違うんだよ」
千草は自分でも驚くほど自然に話していた。イルカの話をしている時、千草の声は少しだけ変わる。学校の「元気な千草」でもなく、水槽の前の「静かな千草」でもない。その中間くらいの、素朴な声。教室では出さない声。渚の前でも出したことがない声。
帆波は静かに聞いていた。相槌も最小限。でも、聞いていた。千草の言葉のひとつひとつを、図書室の静けさの中で受け止めるように。
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チャイムが鳴った。五時の下校促進のチャイム。余韻が天井の高い図書室に残って、ゆっくりと消えていった。千草は「あ、もうこんな時間」と椅子を引いた。
「ごめんね、長居して」
「ううん。楽しかった」
帆波がそう言った。声は平坦だけれど、「楽しかった」の「た」がほんの少しだけ上がっていた。千草の耳はそれを聞き取った。
図書室を出て、千草は演劇部の用事を思い出して特別教室棟へ向かった。帆波は昇降口の方へ。廊下の空気が、図書室より少しだけ暖かかった。
別れ際、千草は振り返って手を振った。帆波は手を振り返さなかったが、小さく頷いた。いつものように。
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十月の汐浦。朝、玄関を開けると潮の匂いが鼻先に触れる。東京にいた頃は、朝の空気は排気と乾いたアスファルトの匂いだった。ここでは、水がすぐそばにあることを、体が毎朝思い出させられる。
帆波がこの町に来て一ヶ月が経とうとしている。
転校は初めてではない。母の仕事の都合で、小学校の時に一度、中学の時に一度。三つ目の学校。慣れてはいる。新しい教室、新しい席、新しい名前の群れ。最初の一週間を乗り越えれば、あとは時間が距離を縮めてくれる。
でもこの町は、前の二つとは少し違った。海が近い。教室の窓から水平線が見える。空気に塩の気配がある。水のそばにいるということが、体に馴染んでいく感覚。帆波はそれが悪くないと思っていた。
そして——汐見千草がいた。
帆波は千草を観察している。意図的にではなく、自然に目が行く。
千草はいつも教室の中心にいる。物理的に中心の席にいるわけではない。千草がいる場所が中心になる。千草が笑えば周りが笑い、千草が話しかければ相手の表情がほぐれる。引力のある人間。太陽みたいだ——と、誰もが思うだろう。
帆波も最初はそう思った。
でも、見ていると気づくことがある。
千草の笑顔には、継ぎ目がある。
口角が上がるのと目尻が下がるのが、ほんの一拍ずれる時がある。本当の笑顔は全部が同時に動く。千草の笑顔は、パーツが順番に組み上がっていく。精度が高いから、普通は見落とす。でも時々、目の奥の光が、口角より一瞬遅れて点灯する。そして時々、口角は上がったまま、目の中だけがふっと暗くなる。
笑顔の形はそのまま、中身だけが抜け落ちる瞬間。誰も見ていない角度で、笑顔の裏側が一瞬だけ覗く。次の瞬間にはもう元に戻っていて、誰にも気づかれない。
帆波は気づいている。
なぜ気づくのかはわからない。観察が得意だから——と言えばそれまでだけれど、もしかしたら、帆波自身が「笑わない人間」だからかもしれない。笑顔が自然に出る人間は、他人の笑顔を疑わない。笑顔が少ない人間は、他人の笑顔の中にある継ぎ目が見える。
昼休み。汐音と一緒にお弁当を食べている。汐音は卵焼きを小さく切り分けながら、いつもの穏やかなペースで箸を動かしている。
「汐音」
「ん?」
「汐見さんってどんな子?」
汐音は卵焼きを口に入れてから、箸を膝の上に置いて少し考えた。
「千草? うーん……いつも元気で、頼りになって、みんなの太陽みたいな子だよ」
「太陽」
「うん。千草がいるとね、安心するの。場が明るくなるっていうか。困ったことがあると千草に相談するし、千草もいつも笑顔で聞いてくれる」
汐音の声は、千草のことを話す時もいつもと変わらず穏やかだった。信頼している人の名前を口にする時の、温度。
帆波は頷いた。太陽。みんなの太陽。
——太陽は、自分自身を照らせない。
帆波はその言葉を、お茶と一緒に飲み込んだ。
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> **— 水槽の前で —**
>
> ろ過装置の低い唸りが、床から伝わってくる。昼間は気づかない音。ここに一人でいると、水族館が全部、音でできていることに気づく。
>
> 最近、岬さんのことを考える。
>
> あの子、あたしを見てる。見てるっていうか……観察してる? 悪い意味じゃなくて。何かを確かめるみたいに、時々こっちを見る。
>
> みんなはあたしの笑顔を見て安心する。「千草がいるから大丈夫」って。でも岬さんだけ、笑顔を見て首を傾げる。「この笑顔は本物なのかな」って疑ってるわけじゃないと思う。もっと……なんだろう、笑顔の奥にあるものを覗こうとしてる感じ。
>
> 怖いよ。膝を抱える腕に、力が入る。だって、覗かれたら、見つかっちゃうじゃん。あたしが笑ってないところ。あたしが空っぽなところ。
>
> ……でもね、今日、図書室でイルカの話をした。あの子、イルカの本を読んでたの。シグネチャー・ホイッスルっていう、イルカの固有の音の話をしてくれた。自分だけの音。一生変わらない音。
>
> あたしにも、そういうのあるのかな。笑顔を全部外しても残る、あたしだけの音。
>
> ……わかんない。でも、あの子といる時、少しだけ——声のトーンが変わる気がする。作ってないっていうか、普通に話せるっていうか。なんでだろう。渚といる時は楽しいけど、「明るい千草」でいなきゃって思う。でも岬さんの前だと、そのスイッチが——入りにくい。
>
> 音で世界を見るって、あの子は言った。光が届かない場所で、音が目の代わりになるって。
>
> ……わたしの音は、どんな音なんだろう。誰かに届いたことは、あるんだろうか。
>
> 怖いような、嬉しいような。
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放課後の昇降口。千草と帆波が一緒になった。
偶然だった。千草が靴を履き替えていたら、帆波が後から来た。外は十月の夕焼け。空がオレンジから紫へのグラデーションに染まっていて、海がその色をそのまま映していた。靴箱に残る日射しが、少しだけ温かい。
「岬さん、帰り?」
「うん」
「方向、一緒だったりする?」
「途中まで」
二人で校門を出た。並んで歩く。足元のアスファルトがまだ昼間の熱を持っていて、靴の底からほのかに温度が伝わってくる。千草はいつもの調子で話そうとして、少し迷った。帆波の隣にいると、テンションの高い声が出しにくい。無理に出せるけれど、出さなくてもいい気がする。
「岬さんって、この町どう? 慣れた?」
「少しずつ。海が近いのはいい。空気が広い」
「空気が広い?」
「前に住んでたところはビルが多くて、空が狭かった。ここは見上げると空が全部見える。海の上まで続いてる」
「あー、わかる。あたしもこの町好きだよ。海の匂いとか、夕方の空とか」
帆波が千草を見た。真横からの視線。夕日が帆波の瞳を琥珀色に染めている。
少し間があった。
「汐見さんは、笑ってない時もこの町が好き?」
千草の足が、止まりかけた。
笑ってない時。
その言葉が、指先の温度を奪っていった。
「……なにそれ、変な質問」
笑う。いつもの笑顔を出す。
「あたしいつも笑ってるよ?」
帆波は千草の笑顔を見た。少しだけ、ほんの少しだけ——目を細めた。
「うん。いつも」
その「いつも」の言い方に、千草の喉が詰まった。
「いつも笑ってるね、すごいね」という意味の「いつも」ではない。「いつも笑っている、それは本当に自然なことなのだろうか」と問う「いつも」。肯定ではなく、観察。それも、冷たい観察ではない。静かに、丁寧に、千草を見ている人の——問いかけ。
千草の口が開いたまま、言葉が出なかった。
帆波もそれ以上は何も言わなかった。遠くで波が打ち寄せる音が、夕方の空気の中をゆっくりと渡ってきた。二人は無言のまま少し歩いて、道が分かれるT字路で足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
帆波が右に曲がっていく。千草は左の道をまっすぐ。
三歩ほど歩いて、千草は振り返った。帆波の背中が遠ざかっていく。夕焼けの中に、小さなシルエット。
「笑ってない時もこの町が好き?」
笑ってない時。笑ってない時のあたし。そんなあたし、いるの。いるに決まってる。でも、誰にも見せたことがない。見せたら——どうなるんだろう。
風が吹いた。海の匂い。潮が満ちてくる時間。水際がゆっくりと、砂浜を取り戻していく。
千草は前を向いて、歩き出した。足元に夕日の影が伸びている。長い影。千草の影と、もう一人ぶんの影があったはずの場所。でも振り返っても、帆波の姿はもう見えない。
秋の夕暮れが、海の色を深くしていく。




