第3章 ふたつの家
潮風がホームを吹き抜けて、千草の髪を巻き上げた。
土曜日の朝。汐浦駅。千草は片手で髪を押さえながら、スマホで天気予報を確認した。内陸の町は晴れ。気温は汐浦より少し高い。九月の終わりだけれど、あちらはまだ暑いかもしれない。
電車が来る。青い海沿いを走る二両編成のローカル線。千草は端の席に座って、窓に額をもたせた。車内は空いている。休日の朝に汐浦から出る人は少ない。
海が車窓を流れていく。防波堤、漁港、テトラポッド。トンネルを抜けると田んぼに変わり、もう一度トンネルを抜けると小さな町の住宅地が見えてくる。風景が変わっていく。窓を閉めていても、海の匂いが薄れて、土と排気の匂いに切り替わっていくのがわかる。
乗り換えを一回。各駅停車に揺られて約一時間半。内陸の、名前だけは聞いたことがあるような中規模の町。駅前のロータリーには、チェーンのコーヒーショップとドラッグストアがある。汐浦にはどちらもない。
千草は駅から十五分歩いて、マンションに着く。五階建ての、外壁がくすんだ集合住宅。三階の一室。
インターホンを押す。
「——はい」
「あたしだよ」
ドアが開く。父親が立っている。Tシャツにスウェット。少しだけ痩せた気がする。
「おう、上がれ」
「おじゃまします」
千草が靴を脱いで上がると、玄関からリビングまでの短い廊下に、千草のためのスリッパが出ている。ピンクの、ウサギ柄の。中学の時に千草が選んだもので、底がすこし擦り減っている。何年も同じものが、同じ場所に置いてある。
リビングは広くはない。男の一人暮らしの部屋。整頓されているけれど、空気が静かすぎる。汐浦の家では窓を開ければ波の音が入ってくるが、ここに聞こえるのは道路の車の音だけだ。テーブルの上にマグカップが二つ用意されていた。片方には千草が好きなココアのスティックが添えてある。
「ココア、まだあったんだ」
「お前が来る時のために買ってある」
父はそう言って、やかんを火にかけた。コンロの点火音がかちりと鳴って、青い炎が立つ。
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千草の両親は、千草が中学二年の時に別居した。
離婚ではない。少なくとも、まだ書類は出していない。母親は汐浦の実家に戻り、父親は仕事のある内陸の町に残った。千草は母親と暮らすことを選んだ——というより、汐浦の海が好きだったから、そちらに残った。
険悪な別居ではなかった。怒鳴り合いも、皿が割れる音もなかった。ただ、ある日から父と母が同じ食卓に座らなくなり、会話が減り、やがて母が「少し離れた方がいいのかもしれない」と言った。千草は中学生だった。何が起きているのかはわかっていた。でも何も言えなかった。何を言えば正解なのかがわからなくて、とりあえず笑った。「大丈夫だよ、あたし」と言った。母は泣いた。
それ以来、千草は月に二回ほど、週末に父親の家を訪ねている。
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午後。父とふたりで遅い昼食をとる。近所の定食屋。千草は唐揚げ定食、父は焼き魚定食。揚げたての衣が箸に触れると、さくりと音を立てた。
「学校はどうだ」
「楽しいよ。二学期始まったし、演劇部の秋公演もあるし」
「演劇か。台本は」
「あたしが書くことになった」
「大変だな」
「ううん、好きだからいいの」
千草は箸を動かしながら、学校のことを話した。渚のこと、汐音のこと、水族館のバイトのこと。転校生が来たこと。
「友達多いんだな」
父がそう言って、少しだけ口元を緩めた。千草も笑った。
でもこの笑顔は、教室でのものとは筋肉の使い方が違う。学校では頬を高く持ち上げて、声のトーンも一段上げる。父の前では口元だけで笑って、声は普段のまま。明るさではなく、穏やかさを纏う。心配させないための笑顔。大丈夫だよ、あたしは元気だよ——そう伝えるための形。
どちらの顔も、鏡の前で練習したわけではない。でも、どちらも勝手に出てきたものでもなかった。
食後、千草は父の部屋で過ごす。ソファに座ってテレビを見る。父は台所で洗い物をしている。蛇口から落ちる水の音が、静かな部屋に響いている。
千草はふと気づく。この部屋にいる時、自分の話し方が変わっている。汐浦の方言混じりの、跳ねるような口調が薄れて、内陸の言い回しが増える。語尾が柔らかくなる。テンポが落ちる。意識して切り替えたわけではない。この部屋の空気を吸った瞬間、喉が勝手にチャンネルを合わせる。
汐浦にいる時は、こちらの言葉が混じると渚に「ん? 今の何語?」と笑われる。こちらにいる時は、汐浦の方言が出ると父に「海の子だな」と言われる。どちらにいても、もう片方の土地の言葉が顔を出す。
千草はそれを「まぜこぜ言葉」と呼んで笑いのネタにしている。「あたし、チャンネル二つあるから、たまに混線するんだよね」。みんな笑う。面白いキャラクター。個性。——でも本当は、どちらの言葉も「自分のもの」だという感覚がない。汐浦にいても内陸にいても、言葉が少しだけずれている。どこにいても、半分だけよそ者。
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日曜の夕方。帰りの電車。
窓の外が田んぼから海に変わっていく。千草は窓に映る自分の顔を見ていた。車輪が線路の継ぎ目を踏むたびに、小さな振動が背中に伝わる。トンネルを通るたびに、暗い窓に顔が浮かぶ。笑ってはいない。口元は力が抜けていて、目はどこを見ているのかわからない。
もう一度トンネルを抜けると、海が見えた。夕日が水面に赤い道を引いている。
千草はスマホを見た。母からのメッセージ。「今日は何食べた?」。千草は「唐揚げ定食!」と返した。スタンプを添えて。母は「お父さん元気だった?」と訊いてきた。千草は「うん、元気だったよ」と打った。本当は少し痩せた気がしたけれど、それは言わない。
汐浦駅に着く。改札を出ると、潮の匂い。体がこの匂いを覚えている。帰ってきた、と思う。でも服にはまだ、父の部屋の柔軟剤の匂いが残っている。さっきまでいた場所が、肌の上から離れない。あのスリッパ。あのココア。帰ってきたのに、もう一つの「帰る場所」が頭から離れない。
家がふたつあるのに、帰る場所が定まらない。どちらの家にも千草の部屋があって、千草の荷物があって、千草を待っている人がいる。なのに、どちらにいても、もう片方のことを考えている。
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月曜日の朝。教室。
渚と話していると、千草が不意に父親の町の方言を使ってしまった。ほんの些細なこと。「そうだよね」と言うところを、少し違う語尾で言った。
「ん? 今の何語? うち、聞いたことない言い回しなんだけど」
渚が不思議そうに首を傾げる。周りの子も「え、なにそれ」と笑う。
「ごめんごめん、チャンネル間違えた! 週末ちょっと出かけてたから、電波がまだ戻ってないんだわ」
大袈裟に頭を叩いてみせる。教室に笑いが起きる。千草も笑う。渚が「千草って時々変なとこあるよね」と腕を組む。千草は「それがあたしの魅力でしょ」とウインクする。
笑い声。いつもの教室。いつもの千草。
——まぜこぜ言葉。二つの土地の言葉が混ざった、どちらでもない話し方。千草はそれを面白おかしく処理する技術を、もう何年もかけて磨いてきた。笑えるネタにしてしまえば、誰も深く考えない。「千草って面白いよね」で済む。
誰も、その奥にあるものには気づかない。
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> **— 水槽の前で —**
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> 週末、お父さんのところに行ってきた。
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> 硝子に指を当てると、あたしの体温で小さく曇る。ここだけ、あたしの痕跡が残る。すぐに消えるけど。
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> いつもそうだけど、帰ってくると少し迷子になる。電車に乗ってる間、窓の外がどんどん変わっていって、海が出てくると「帰ってきた」って思う。でも同時に「離れちゃった」とも思う。
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> どっちの家にいても、もう片方のことを考えてる。お母さんといる時はお父さんのことが気になるし、お父さんといる時はお母さんの作ったご飯が恋しくなる。
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> あたし、家がふたつあるのに、帰る場所がないみたい。変だよね。贅沢な悩みかもしれない。家がない人もいるのに。でも——ふたつあるのに「ここだ」って思える場所がないのは、なんていうか、足元がずっとぐらぐらしてる感じ。
>
> 言葉もそう。汐浦の言葉も、お父さんの町の言葉も、どっちもあたしのものなのに、どっちも完全にはあたしのものじゃない。混ざって、中途半端で。みんなは面白がるけど、あたしは時々、自分がどこの言葉を話してるのかわからなくなる。
>
> ……イルカはいいな。水の中にいれば、それでいいんだもんね。海のどこにいても、水は水。境目がない。
>
> わたしも、そうなれたらいいのに。
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水族館を出ると、夜の九月。風が少しだけ涼しくなっている。秋が近い。
千草はイヤホンを着けて歩き出す。いつもの帰り道。商店街を抜けて、住宅街を通る。街灯の下を歩きながら、ふと前方に人影が見えた。
帆波だった。
水族館の方向から歩いてきている。母親の研究室に来ていたのだろう。紺色のカーディガンに、ショルダーバッグ。夜道を一人で歩いている。
千草は声をかけようとして——やめた。
イヤホンを外しかけた手が、そのまま止まる。今の自分は、笑顔を作り直す前の自分だ。水槽の前の自分と、学校の自分の、切り替えがまだ済んでいない。中途半端な顔。中途半端な言葉。声を出したら、どちらの喋り方になるか自分でもわからない。どちらの千草でもない、継ぎ目の部分。
足が勝手に速度を落とした。
帆波は気づかない。海の方を見ながら歩いている。街灯の光が帆波の髪を照らして、栗色が少しだけ明るく見えた。
帆波が角を曲がって、見えなくなる。
千草はそこで立ち止まった。夜風が頬に触れる。遠くで波の音がする。引き潮だった。海が、少しずつ遠ざかっていく時間。
千草は深呼吸をして、歩き出した。さっきまで帆波がいた道を、同じ方向に。でも、もう追いつこうとはしなかった。




