第2章 転校生
「千草のカメラロール、イルカしかいないじゃん」
「だって可愛いんだもん。見て、この子ナミっていうんだけど——」
「それ昨日も聞いた」
九月の半ば。朝の教室はまだ残暑の空気を溜め込んでいて、開け放たれた窓から海風がカーテンをふくらませている。千草は自分の席で、渚と夏休みに撮った写真を見せ合っていた。渚のスマホには汐音と海に行った写真が並んでいて、千草のスマホにはイルカの写真ばかりが並んでいる。
二人で笑っていると、一時間目のチャイムの前に担任の長谷川先生が教室に入ってきた。手に出席簿ではなく、プリントの束を持っている。その後ろに——見慣れない生徒がいた。
教室が少しだけざわつく。汐浦高校で転校生は珍しい。町自体が小さいから、よそから来る人がそもそも少ないのだ。
「今日から皆さんと一緒に勉強することになりました。岬さん、自己紹介をお願いします」
その子が、教壇の前に立った。
セミロングの栗色の髪。落ち着いた目。背は千草より少し低いくらい。制服はまだ糊がきいているようで、襟のあたりがかすかにぎこちない。
「岬帆波です。よろしくお願いします」
それだけだった。
声は小さくもなく、大きくもない。抑揚も最小限。笑顔はない。かといって、緊張しているようにも見えない。ただ過不足がない。自己紹介に必要なことだけを言って、口を閉じた。
窓から入る風がカーテンを揺らす音だけが、教室に残った。転校生の自己紹介には、もう少し何かが添えられるものだ——好きなこと、前の学校のこと、この町の印象。でも岬帆波はそれを一切省略して、淡々と名前を告げた。
「はい、ありがとう。岬さんの席は——東さんの隣にしましょう。東さん、色々教えてあげてね」
汐音がゆっくりと手を挙げた。「はい」と静かに答える。
そして、長谷川先生が千草の方を見た。
「汐見、岬さんの案内役をお願いできるかな。この学校のことは汐見が一番よく知ってるし、頼りになるから」
千草は椅子から勢いよく立ち上がった。椅子の脚がタイルを叩いて、がたん、と教室に響く。
「はーい! 任せてください!」
声が大きい。教室のあちこちから笑いが漏れる。千草自身も笑う。これはいつものことだ。何かを頼まれたら、明るく引き受ける。それが千草の役割で、千草の居場所の作り方だった。
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昼休み。千草は帆波を連れて校舎を案内していた。
「ここが食堂ね。メニューは多くないけど、日替わりの定食が意外といけるよ。あと、パンが美味しい。焼きそばパンはすぐ売り切れるから、食べたかったら四時間目終わりにダッシュ」
入口の引き戸が開いていて、揚げ物の匂いが廊下まで漂ってきている。帆波は千草の少し後ろを歩きながら、静かに頷いている。
「こっちが図書室。海の近くの学校だからか、海洋関係の本が結構ある。あ、岬さん、本好き?」
「……読む方です」
「いいねいいね。あたしは全然読まないけど」
笑う。帆波は笑わない。でも、聞いている。千草の言葉をひとつひとつ受け止めるように、視線がちゃんとついてくる。
体育館を案内し、中庭を通り、特別教室棟を見せた。千草は歩きながら冗談を挟み、すれ違う後輩に手を振り、部活の先輩に声をかけ、帆波に「ここの先生はちょっと厳しいけど面白い」と耳打ちする。
帆波は過不足なく反応した。頷く。「そうなんですね」と言う。時々、小さく相槌を打つ。でもそれ以上は何も訊かない。
最後に、屋上に近い階段の踊り場。窓から海が見える場所。
「ここ、あたしのお気に入り。放課後に誰もいない時、ぼーっと海を見るのが好きなんだよね」
そう言ってから、千草の指先がかすかに冷えた。渚にも言ったことのない話を、なぜ今日会ったばかりの転校生に言ったのだろう。
帆波は窓の外を見た。青い海と、白い雲の境目。窓枠の隙間から風が入ってきて、帆波の栗色の髪が揺れた。
「……きれいですね」
「でしょ?」
千草は笑った。そして、本題を切り出す。
「何か困ったことあったらいつでも言ってね! あたしで良ければなんでも手伝うから」
帆波がこちらを向いた。千草の目をまっすぐ見る。
「ありがとう。でも、今のところ大丈夫」
千草の口元が、一瞬だけ形を失った。
いつもなら、ここで相手が「ありがとう、心強い!」と返してくれる。そこから関係が始まる。千草が助けて、相手が感謝して、千草は必要とされる。いつものパターン。いつもの入り口。
でも帆波は——満ちていた。欠けている場所がない。助けを必要としていない。千草の手を借りなくても、この学校に立っていられる。そういう佇まいだった。
「あ——うん! もちろん、困った時でいいからね!」
声が少しだけ上ずった。千草はそれを笑顔で覆い隠す。帆波が気づいたかどうかは、わからない。
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五時間目が終わって教室に戻ると、帆波は汐音と話していた。
汐音が自分から声をかけたらしい。隣の席から自然に。汐音はそういう子だ。積極的ではないけれど、目の前の人に対して壁を作らない。水が低い方に流れるように、汐音はいつの間にか人のそばにいる。
「岬さん、前はどこに住んでたの?」
「都内です。お母さんの仕事で、こっちに」
「お母さんのお仕事って?」
「海洋生物の研究を。汐浦水族館の研究部門に」
「え、水族館? 千草がバイトしてるとこだ」
汐音が千草の方を見た。千草は自分の席から手を振った。
「そうそう、あたしそこでバイトしてるの! 岬さんのお母さんと会うかもね」
帆波が千草を見る。少し間があって、小さく頷いた。
「……そうかもしれません」
そこから、帆波と汐音は穏やかに会話を続けた。前の学校のこと。引っ越しのこと。この町の第一印象。帆波は訊かれたことに過不足なく答え、汐音は相手のペースに合わせて言葉を返す。自然な会話だった。
千草はそれを自分の席から見ていた。
自分の出番がないことに気づいている。帆波は千草を必要としていない。汐音と普通に会話ができている。転校初日の緊張も、新しい環境への不安も、帆波からは読み取れない。すでに自分の場所を見つけつつある——というよりも、場所を見つけなくても平気でいられる人なのだ。
千草は窓の外に目を向けた。海が午後の光を反射して白く光っている。口元にいつもの形を作ったが、それは誰に向けたものでもなかった。
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> **— 水槽の前で —**
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> 転校生が来た。岬帆波っていう子。
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> 硝子に額を寄せると、ひんやりする。今日はこの冷たさが、いつもより心地いい。
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> 静かで、落ち着いてて、自分のペースを持ってる子。最初に「ありがとう、でも大丈夫」って言われた時、なんか……変な感じがした。
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> あたし、いつも「何か手伝おうか?」から入るの。それでみんな「ありがとう」って言って、そこからあたしの居場所ができる。でもあの子は「大丈夫」だった。大丈夫って言われたら——あたしは、何をすればいいんだろう。
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> ……助ける側じゃないと、何していいかわかんないんだよね。
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> 汐音とは普通に話してた。それを見てたら、ちょっとだけ寂しかった。寂しいっていうのも変だけど。あの子はあたしの助けがなくても大丈夫で、それは良いことなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう。
>
> ……考えすぎだよね。うん。明日も普通にしよ。笑ってれば、大丈夫。
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放課後。千草は渚と一緒に昇降口に向かっていた。今日はバイトがない日だ。渚が部活帰りに寄りたいお店があると言うので、つきあうつもりでいた。
靴を履き替えていると、廊下の先に帆波がいた。
窓際に立って、外を見ている。海の方を。夕日が低くなりかけていて、廊下にオレンジ色の光が流れ込んでいる。帆波の横顔がその光を受けて、輪郭だけが明るく浮かんでいた。
千草は、少し長くその横顔を見てしまった。
なぜだか目が離せなかった。帆波が海を見ている目が——何かを探しているようにも、何も探していないようにも見えて、そのどちらでもない感じが、千草の知っている誰とも違っていた。
帆波が振り返る。
目が合った。
千草の口角が上がった。速かった。まばたきより速く、笑顔が完成する。
「岬さん、帰り? 駅の方?」
帆波は笑わなかった。でも、冷たいわけではない。ほんの少しだけ首を傾げた。千草の笑顔を見て——その奥の何かを確かめるように。
「いえ、迎えが来るので。お疲れさまでした」
「うん、お疲れさま! また明日ね!」
手を振る。帆波は手を振り返さない。小さく頷いて、窓の方に視線を戻した。
千草は渚と並んで昇降口を出た。
「転校生、静かな子だったね。うち、ちょっとどう話しかけていいかわかんなかった」
「うん、でもいい子だと思う」
答えながら、さっきの帆波の首の傾げ方が頭に残っていた。あの子はあたしの笑顔を見て、「笑ってるな」とは思わなかった気がする。もっと別の何かを、見ていた気がする。
何を見ていたんだろう。
考えかけて、やめた。渚が駅前の新しいクレープ屋の話を始めたからだ。千草は「え、行きたい!」と声を上げ、渚の腕を引っ張って走り出した。
秋の始まりの風が背中を押す。海の方から、潮の匂いがした。




