第1章 千草色のアクアリウム
九月の汐浦は、まだ夏の尻尾を引きずっている。
朝の通学路、海沿いの道を歩くと、潮の匂いが制服の襟元に張りつく。水平線の上に薄い雲が伸びて、空と海の境目がぼやけている。波が防波堤にぶつかる低い音が、足元から一定のリズムで響いてくる。あの境目はどこまでが空で、どこからが海なのだろう——汐見千草はそんなことを考えながら、いつもの坂を上っていく。
考えるのは一瞬だった。坂の上で渚が手を振っているのが見えたからだ。
「千草ー! おはよー!」
柊渚は階段の踊り場から身を乗り出すようにして叫んでいる。朝から全開だ。千草は駆け足で距離を詰め、渚の背中をぽんと叩いた。
「おはよ! 渚、日焼けしたね。海行った?」
「行った行った。汐音と。千草も誘ったのに、バイトだったじゃん」
「しょうがないじゃん、夏休みは繁忙期なんだから」
笑いながら昇降口をくぐる。上履きに足を入れると、こもった湿気がくるぶしに触れた。二学期が始まって三日目。校内はまだ夏休みの余韻が残っていて、日焼けした腕や、旅行先のお土産の袋があちこちに見える。千草は廊下を歩きながら、すれ違う人に片っ端から声をかけていく。
「おはよ!」「あ、髪切った? 似合うじゃん!」「宿題終わった? あたしギリギリだったー」
返ってくる笑顔。返ってくる言葉。千草が通ると、廊下の空気がほんの少し和らぐ。本人にその自覚はない。ただ、笑っている。いつも通り。
教室に入ると、汐音がすでに席についていた。窓際の席で文庫本を開いている。ページをめくる指先が丁寧で、顔を上げる動作もゆっくりしている。千草が「おはよ、汐音!」と声をかけると、汐音は栞を挟んでから「おはよう」と穏やかに返した。
「千草、日焼けしてないね。水族館の中にいたから?」
「そうそう、あたしは年中水槽の青い光で生きとるから。もはや深海魚」
渚が噴き出す。汐音も口元を緩めた。千草は腰に手を当てて胸を張る。
「深海魚千草、本日も元気に浮上しましたー」
教室に笑いが広がる。千草はそれを確認してから、自分の席に着く。鞄を下ろし、教科書を出す。その一連の動作の中で、ほんの一瞬——肩から力が抜ける。口元の張りが緩んで、目線が机の木目に落ちる。誰も見ていない角度で。
すぐに戻る。教科書を開く頃には、いつもの笑顔が、いつもの位置に。
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放課後の演劇部は、汐浦高校の旧校舎二階にある。
窓から海が見える小さな部室。壁には過去の公演のポスターが色褪せて貼られている。窓を開けると潮風が入ってきて、ポスターの端がかさりと揺れた。かつては十人以上いた部員は、今は五人。千草と渚を含めて、かろうじて「部」を名乗れるギリギリの人数だった。
「秋公演、どうする?」
渚がパイプ椅子に座りながら訊く。椅子の脚がタイルを擦って、きい、と小さく鳴った。千草は小道具棚の整理をしながら答えた。
「まず台本決めなきゃね。去年みたいに既存作品をやるか、オリジナルか」
「千草が書いてよ。うち、千草のオリジナル好きなんだよね。前のやつも良かったし」
「えー、あたし? 台本も演出も出演もやったら過労死するって」
「でも千草がやらないと誰がやるの」
その言葉に、千草の指先が止まった。棚の奥の埃がざらついた。
「——そうだね」
笑って、棚の整理を再開する。
「じゃあ、ちょっと考えてみるよ。来週までに案出す」
「さすが千草! 頼りになるー!」
渚がぱちぱちと拍手する。千草は大袈裟にお辞儀をして見せた。部室に笑い声が響く。窓の外では、海が西日を受けてオレンジ色に光っていた。
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午後六時。千草は制服の上にスタッフ用の青いTシャツを重ね、汐浦水族館の受付に立っている。
「いらっしゃいませー」
夏休みが終わって、客足は少し落ち着いた。それでも週末は家族連れが多い。平日の夕方は、地元のカップルがちらほら。千草は笑顔でチケットを切り、パンフレットを手渡す。レジの電子音と、紙のインクの匂い。閉館が近づくと館内の見回りと清掃に入る。
午後八時。閉館のアナウンスが流れる。
「本日の営業は終了いたしました。お忘れ物のないよう、お気をつけてお帰りください」
自分で録音した声が館内に響く。千草はそれを聞きながら、出口付近で最後の客を見送る。「ありがとうございましたー」。手を振る。笑顔。
スタッフが一人、また一人と帰っていく。飼育員の宮前さんが「千草ちゃん、あとの戸締りお願いね」と鍵を渡す。千草は「はい! お疲れさまでしたー」と元気に答えた。
足音が遠ざかる。裏口のドアが閉まる音。
静寂。
展示エリアの照明が落とされると、空気が変わる。昼間は子供の歓声と循環送風に紛れていたものが、ひとつずつ表に出てくる。ろ過装置の低い振動が、床からスニーカーの底に伝わる。海水と消毒液が混ざった匂いが、鼻の奥にひんやりと届く。非常灯と水槽の光だけが廊下に青い影を落として、天井を水の揺らめきがゆっくりと渡っていく。
昼間の賑わいが嘘のように、水族館はまったく別の場所になる。
千草はモップを片付け、最後の巡回を終える。そしていつものように、メインホールへ向かう。
大水槽。汐浦水族館で一番大きなイルカのプール。
硝子の壁の向こうに、暗い青の水が広がっている。照明は最低限に落とされているが、水底からの淡い光がイルカたちの体を照らしている。三頭のバンドウイルカ——ソラ、ナミ、シオ。千草が名前を覚えた順番だ。
千草は水槽の前の床に座る。タイルの冷たさが太腿の裏に触れる。膝を抱える。壁に背中を預ける。
笑顔が、消える。
口角の力が抜けて、頬が自分の重さで下がる。目の光が引いていく。ぴんと張っていた背中が丸くなって、体がひとまわり小さくなる。
脱いだのだ。一日かけて着ていたものを、ここでようやく。
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> **— 水槽の前で —**
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> ……今日も、疲れたな。
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> 水の音がする。硝子の向こうの、遠い水の音。ここに座ると、時間の速さが変わる気がする。昼間の騒がしさが遠ざかって、自分の呼吸の音だけが近くなる。
>
> 二学期が始まって三日目なのに、もうこんなに体が重い。夏休みの間は水族館のバイトだけだったから、学校と部活とバイトの三本立てに追いつけていない。
>
> 演劇部の秋公演、台本があたしの担当になった。渚は言った。「千草がやらないと誰がやるの」って。悪気はないの、わかってる。あたしがやるのが当たり前だと思ってるだけ。
>
> ……あたしだって、そう思ってる。あたしがやらなきゃ回らないから。あたしがやるの。それでいいの。
>
> ねえ、ソラ。あなたたちはいいよね。口の形がああだから、ずっと笑ってるみたいに見える。笑いたくなくても、怒ってても、疲れてても、ずっと同じ顔。誰にも心配されない。だって笑ってるから。
>
> ……あたしもそう。ずっと笑ってる。笑ってないと、みんなが不安になるから。「千草、今日元気ないね?」って言われるのが、一番怖い。元気じゃないって認めたら——そこから先が、わからないから。
>
> だから笑うの。疲れてても。苦しくても。
>
> ……わたしと一緒だね。
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千草はしばらくそうしている。五分か、十分か。時間の感覚が曖昧になる。水槽の中でソラがゆっくりと旋回する。水面に浮上して、息を吐く音がかすかに聞こえる。プシュ、と短く。
千草は硝子に手を当てる。冷たい。水の中の温度が伝わってくるようで、実際にはただ硝子が冷えているだけだ。向こう側とこちら側。透明なのに、触れられない。
ナミが水槽の底を横切る。千草の手の近くを通り過ぎるとき、一瞬だけ目が合ったような気がした。黒い瞳。何を考えているのかはわからない。でも、千草にはそれで十分だった。
立ち上がる。深呼吸をひとつ。
胸に空気を入れる。肩を引く。背筋を伸ばす。そして——口角を上げる。
笑顔を、組み立て直す。
ポケットからスマホを出す。渚からメッセージが来ている。
「明日も一緒に帰ろ〜! 千草のバイトがない日じゃんっ」
千草は親指でスタンプを選ぶ。満面の笑みのキャラクター。「もちろん! 明日ね!」と打つ。送信。
水槽に向き直る。ソラが水面近くに浮かんでいる。口元のカーブが、笑っているように見える。
「——また明日ね」
手を振る。青い光の中で、自分の影が硝子に映っている。笑顔の形をした影。
千草は振り返り、メインホールを出る。通用口から外に出ると、夜の潮風が頬を撫でた。九月の風はまだ温い。頭上に星が散っている。
遠くで波の音がする。満ちてきている。
千草は振り返らない。水族館の暗い窓を背にして、いつもの道を歩き出す。イヤホンを着け、何かの曲を流す。足取りは軽い。明日も笑うために、今は——ただ、歩く。
夜の海が、静かに満ちていく。




