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水槽のアリア  作者: はるうた


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第10章 なんでも屋

 段ボールの乾いた匂いがする。絵の具と、布と、木工用ボンドが混ざった匂い。演劇部の部室は、十二月の半ばになって、工房のような空気に変わっていた。


 冬公演の一週間前。


 壁に立てかけられた書き割り、テーブルの上に散らばった台本のコピー、床に広げられた衣装の布。四人で舞台を作るには、全員が何役もこなす必要がある。


 千草は部室の中を動き回っていた。


 朝から台本の最終修正をし、昼休みに照明の段取りを確認し、放課後は小道具の仕上げに入っている。背景の書き割りを描きながら、渚にセリフの間合いを指示し、一年生に音響の操作を教え、もう一人の二年生の衣装を直す。指先に絵の具がこびりついている。爪の間まで青い色が入り込んで、何度洗っても落ちない。


「千草、ここのセリフ、間が長すぎない?」


「もう一拍詰めて。渚の次のセリフにかぶせる感じで」


「音響、このタイミングでいいですか?」


「もう少し遅く。セリフの余韻を残してから」


「衣装の裾、もう少し短い方が動きやすいんだけど」


「わかった、あとで直す。先に二幕の立ち位置確認しよ」


 千草の頭の中には、舞台の全体像が入っている。脚本の構成、役者の動線、照明のタイミング、音響のきっかけ、小道具の配置。全部が千草の中で繋がっていて、千草が動かないとどこかが止まる。


 渚が千草の肩を叩いた。


「千草、全部やりすぎでしょ。うちにも分担させてよ」


「大丈夫、あたしがやった方が早いから」


 右手で書き割りの空を塗りながら、左手で台本のページをめくる。肩が凝っている。首の付け根が痛い。でも手を止めたら、止まった分だけ公演に穴が開く。


「それは知ってるけど、うち何もしてないみたいじゃん」


「そんなことないよ。渚は二幕の練習して。あたしが小道具終わらせるから」


 渚は何か言いたそうな顔をしたが、千草の笑顔に押し戻されて「……わかった」と引き下がった。


---


 冬公演当日。


 会場は体育館の一角に設けられた簡易ステージ。パイプ椅子が並べられ、観客はまばらだった。他の部活の友人、先生が数人、保護者がちらほら。大きな公演ではない。でも千草がここ数週間の睡眠と休日を削って作り上げた舞台だった。


 千草は舞台の袖で深呼吸をした。制服の上に衣装を重ねている。今日は出演もする。脚本・演出・出演・音響補助。一人四役。


 暗転した体育館にスポットライトが灯る。白い光が埃の粒子を浮かび上がらせて、空気の中に細い柱を作った。


 舞台は三十分の一幕もの。四人の高校生が文化祭の前日に教室で過ごす夜の話。千草が演じるのは、みんなをまとめるリーダー役。脚本を書いた千草自身が一番よく知っている役だ。


 千草は舞台の上で笑った。役として。キャラクターとして。台本がある分だけ、日常の笑顔より軽かった。いつ笑えばいいか、どのくらい笑えばいいか、全部決まっている。自分で判断しなくていい。声を張り、動き、相手のセリフを受けて返す。スポットライトの熱が額に溜まる。汗が首筋を伝うのを感じながら、セリフを飛ばさないように集中する。渚との掛け合いは息が合っていて、客席から笑いが起きた。


 三十分が過ぎた。暗転。拍手。


 拍手はまばらだったが、温かかった。渚が千草に抱きついた。


「やったー! 千草、すごかった! うち泣きそう!」


「あはは、ありがと。みんなも良かったよ」


 千草は笑った。渚の腕の中で、笑った。渚の肩に顎を乗せているから、千草の顔は渚からは見えない。


 渚が離れた瞬間、千草の顔から笑顔が落ちた。


 口角が下がる。頬の筋肉が緩む。まぶたが重くなる。糸を切られた操り人形のように、顔から力が抜けた。全部出し切って、中に何も残っていない。笑う燃料が尽きた機械。一秒にも満たない時間。


 口角を引き上げる。頬を持ち上げる。目を細める。こめかみが軋んだ。今朝から顔の筋肉を使い続けて、もう限界に近い。でも笑顔は形を取り戻す。精度が少し落ちている。左右の口角の高さが揃わない。でも渚は気づかない。


---


 片付け。


 千草は段ボール箱に小道具を詰めていた。書き割りを畳み、衣装をハンガーにかけ、音響機材をケースに戻す。渚と一年生は椅子の片付けに行っている。


 千草は小道具が入った段ボール箱を三つ積み上げて、部室に運ぼうとした。両腕で抱えて持ち上げる。重い。箱の角が腕の内側に食い込む。でもあと一往復で終わる。


 廊下を歩く。箱の向こうが見えない。足元の感覚だけで歩いている。タイルの冷たさが靴底から伝わってくる。部室のドアまであと数メートル。


 足がもつれた。


 箱が腕からずれる。千草は体勢を立て直そうとしたが、重心が崩れて、三つの箱が一度に床に落ちた。乾いた衝撃音が廊下に響いて、中身が散乱する。手作りの小道具、塗り直した花瓶、紙で作った星の飾り。廊下に転がっていく。


 千草はしゃがんで拾おうとした。手が震えて、拾えない。


 指先が震えている。腕全体が震えている。箱を持とうとするが、指に力が入らない。紙の星を掴もうとして、指が滑る。何度掴んでも、指の間からこぼれる。


「千草! 大丈夫?」


 渚が駆け寄ってきた。しゃがんで、散らばった小道具を集め始める。


「あはは、ごめんごめん、ドジった!」


 千草が笑う。声を出して笑う。でも笑顔を作る頬の筋肉と、小道具を拾おうとする手の筋肉が、同時に命令を受けてどちらも中途半端に震えている。


「一人で三箱も運ぶからだよ。うちに言ってくれれば手伝ったのに」


「だってあたしが」


 千草は言いかけて、止まった。「あたしがやらないと」。その言葉が、いつもなら自然に出る。でも今日は、喉の奥で引っかかって、そのまま沈んだ。


「大丈夫! ちょっと持ちすぎただけ」


 笑う。笑う。手は震えたまま。膝の上に置いた拳を、もう片方の手で覆い隠した。


---


 渚は千草の手を見ていた。


 震えている。小道具を拾おうとして、指が滑る。千草は笑っている。「大丈夫」と言っている。でも手が震えている。


 渚は千草の顔を見た。笑顔。いつもの笑顔。でも、目の下に隈がある。頬が少しこけている。最近痩せたような気がする。気のせいだろうか。


「千草、本当に大丈夫?」


「大丈夫だって! ちょっと疲れただけ。公演終わったし、打ち上げ行こ!」


 千草が立ち上がる。箱を拾い直す。今度は一つだけ。笑顔で渚を見る。渚は、千草が「大丈夫」と言うなら大丈夫なのだと思った。千草がそう言うから。いつもそう言うから。


 帰り道。渚は汐音と一緒になった。汐音は公演を見に来ていた。


「お疲れさま。良い舞台だったね」


「ありがと。千草がほとんど全部やったんだけどね」


「……ねえ、千草、最近ちょっと無理してない?」


 渚は足を止めた。


「え? 千草は大丈夫だよ。いつも元気じゃん」


 汐音は文庫本を鞄にしまいながら、少し間を置いた。


「……そうかな」


 渚は首を傾げたが、汐音がそれ以上言わなかったので、歩き始めた。


 千草は大丈夫。千草はいつも元気。千草はいつも笑ってる。


 渚はそう信じていた。信じていたかった。さっきの、震える手のことは、もう考えないようにした。


---


> **— 水槽の前で —**

>

> 手が、まだ震えてる。

>

> 公演、終わった。みんな喜んでた。拍手もあった。

>

> ……なんで泣きたいんだろう。

>

> 全部出し切って、空っぽだ。笑顔も、元気も。全部舞台に置いてきた。

>

> 手が震えた。箱を落とした。渚が「大丈夫?」って言った。あたしは「大丈夫」って笑った。

>

> 大丈夫じゃないのに。

>

> ……もう、何回目だろう。この独り言。


---


 水族館を出る千草。通用口のドアを閉めて、鍵をかける。外は十二月の夜で、吐く息が白い。首を縮めてポケットに手を入れた。指先の感覚がない。


 ふと顔を上げると、帆波が水族館の前に立っていた。


 マフラーを巻いて、手にコンビニの袋を下げている。街灯の光の中に、白い息が漂っている。


「え……帆波? なんでここに?」


「公演、見に行ったよ。良かった」


 千草は目を瞬いた。帆波が見に来ていたなんて知らなかった。客席にいただろうか。覚えていない。スポットライトが眩しくて、客席はよく見えなかった。


「あ、ありがと」


「汐見さん」


 千草の足が止まった。帆波はいつの間にか「千草」と呼ぶようになっていたのに、今日は「汐見さん」に戻っている。声のトーンも違う。いつもの帆波よりも、少しだけ低い。


「ん?」


「休んで」


 たった二文字。


 風が吹いた。千草の髪が揺れた。街灯の光が帆波の顔を照らしている。帆波の目はまっすぐ千草を見ていた。いつもの静かな目。でも今夜は、静かさの奥に熱がある。


「……大丈夫だよ?」


 千草は笑った。反射的に。頬がぎしりと鳴った。もう何十回目の笑顔だろう、今日だけで。


 帆波は何も言わなかった。ただ千草を見ている。千草の笑顔を見ている。その笑顔が本物ではないことを知っている目で。


 千草は目を逸らした。


 逸らさないと、顔が保てなかった。帆波のあの目にまっすぐ見られたら、笑顔の形が崩れる。今の千草は薄い氷のようなもので、少しの力で割れる。


「ありがと、帆波。あたし、大丈夫だから」


 声がかすれた。


 帆波はコンビニの袋を千草に差し出した。


「肉まん。帰り道に食べて」


 千草は袋を受け取った。温かかった。袋越しに肉まんの熱が手のひらに伝わってくる。冷え切った指先に、じんわりと感覚が戻ってきた。


「……ありがと」


 今度の「ありがと」は、笑顔なしで出た。声もいつもより低かった。飾りのない、素の声。


 帆波は小さく頷いて、「じゃあ」と言って歩き出した。千草は袋を両手で持ったまま、帆波の背中を見送った。


 肉まんが、温かい。手の震えが、少しだけ収まっていた。


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