第11章 崩壊
笑え。
朝、目を開けたら、最初にそれを思う。口角を上げる。頬を引き上げる。声のトーンを整える。鏡を見る前に、笑顔を作っておく。鏡の中の自分が笑っていないのを見るのが、怖いから。
冬休みに入った。汐浦の町は静かになる。学校が止まり、通学路を歩く生徒がいなくなり、海沿いの道は風の音だけになる。十二月の海は鉛色で、波が低く唸っている。
千草は水族館のシフトを増やした。
冬休みは繁忙期だ。クリスマスイベント、年末年始の特別営業。人手が要る。千草はシフト希望を出す時、空欄をすべて埋めた。店長が「千草ちゃん、こんなに入って大丈夫?」と訊いた。千草は「大丈夫です! 冬休みは暇なので」と笑った。
暇なわけがなかった。期末テストの追い込みが残っている。演劇部の来年度の活動計画も出さなければならない。父への年末の訪問の日程も決めなければ。
でも、家にいたくなかった。
母と二人きりの家で、父の転勤の話をするのが怖かった。母はまだ知らないかもしれない。知っているかもしれない。父と連絡を取っているかもしれない。でも千草からは言い出せない。言い出したら、何かが動いてしまう。今のまま、何も変わらないふりをしていたい。
だから水族館にいる。朝から夕方まで。受付に立ち、清掃をし、イルカのプールの補助をし、閉館作業をする。体を動かしている間は考えなくて済む。
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年末。父の家に行く最後の週末。
電車に乗った。いつもの路線。車窓の向こうで、海が田んぼに変わり、トンネルを抜けて内陸の町に着く。駅から十五分歩いて、マンションに着く。
部屋のドアを開けた父は、スウェットの上にカーディガンを羽織っていた。前に来た時より、少し痩せた気がする。
「上がれ。ココア、淹れるか」
「うん」
リビングに入って、千草は足を止めた。
部屋の隅に段ボール箱が積まれていた。三つ。まだ組み立てただけで、何も入っていない。でもそこにあるだけで、意味は明白だった。
荷造りが始まっている。
千草はその段ボールから目を逸らしてソファに座った。父がココアを持ってきた。いつものマグカップ。千草が中学の時に父の日にプレゼントしたやつだ。湯気が立っている。ココアの甘い匂いが、この部屋の匂いに混ざる。
「転勤、四月からになった」
「……うん」
「向こうに着いたら連絡する。ビデオ通話できるようにしとくから」
「うん」
千草は笑った。笑顔で。
「お父さん、九州って暖かいんでしょ。いいじゃん。汐浦の冬は寒いよ」
父は千草を見た。少し長く。何かを言おうとして、言わなかった。代わりにココアを飲んだ。
千草もココアを飲んだ。甘い。いつもの味。この味を、次にここで飲めるのはいつだろう。マグカップの取っ手を握る指に、少しだけ力が入った。
夕方、千草は帰った。玄関で靴を履く時、ウサギ柄のスリッパが目に入った。いつもの場所に、いつも通り置いてある。千草はそれを見て、口を開いた。何か言おうとした。でも、言葉にならなかった。
「じゃあね、お父さん。体に気をつけて」
「お前もな」
ドアが閉まった。廊下に出て、エレベーターのボタンを押す。待っている間、千草は壁に額をつけた。コンクリートが冷たい。目を閉じた。
泣かなかった。泣く場所は、ここじゃない。
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年が明けた。
一月。学校が始まる。
千草は教室に入った。「あけおめー! うちもう冬休み飽きてたとこ!」。渚にハイタッチ。汐音に手を振る。みんなが笑う。千草も笑う。冬休みの間に溜まった話をして、お土産を配って、冬休みの宿題の答え合わせをして。いつもの千草。
数日が過ぎた。
ある日の三時間目。現代文。教師が千草を指名した。
「汐見、この段落を要約して」
千草は立ち上がった。教科書を見た。文字が並んでいる。目では見えている。でも意味が入ってこない。活字が紙の上で浮いて、ばらばらの記号にしか見えない。
頭が白い。
口を開こうとした。声が出ない。喉の奥に何かが詰まっている。
教室の視線が千草に集まっている。渚が隣の席から小さく「千草?」と呼んだ。千草は笑おうとした。口角を上げようとした。
上がらない。
顔の筋肉が言うことを聞かない。笑顔を組み立てようとして、パーツが噛み合わない。口角が痙攣するように震えて、形にならない。朝、鏡の前でできていたはずのことが、今、できない。
千草は教科書を机に置いた。
「すみません。ちょっと」
声がかすれていた。椅子を引く金属音が教室に響いた。千草は教室を出た。ドアを閉める手が震えていた。
廊下を早足で歩く。走りたい。でも走ると目立つ。早足で。トイレに入る。個室のドアを閉める。鍵をかける。
鏡。自分の顔。
笑おうとしている顔。笑えていない顔。口角が中途半端に引きつって、目は見開かれていて、額に汗が浮いている。
千草は両手で自分の頬を包んだ。手が冷たい。指で口角を押し上げた。指を離すと、口角は沈んだ。もう一度。押し上げて、離す。沈む。何度やっても同じだった。
体が、拒否している。
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午後。千草は早退した。
保健室で「少し体調が悪い」と伝え、担任に許可をもらって帰った。渚がLINEで「千草、大丈夫? 風邪?」と送ってきた。
千草はスマホを見た。「大丈夫」と打とうとした。
打てなかった。
「大丈夫」。たった三文字。いつもなら一秒で打てる言葉。でも今の千草には、大丈夫じゃないのに「大丈夫」と打つことが、もうできなかった。
親指が画面の上で止まっている。「だ」と打てば、予測変換が「大丈夫」を差し出してくる。タップしない。消す。もう一度「だ」と打って、消す。
結局、何も返さなかった。
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翌日。千草は学校を休んだ。
朝、目が覚めた。天井を見た。起き上がれなかった。
体が重い。鉛が詰まっているみたいに、四肢が布団に沈んでいる。呼吸が浅い。深く息を吸おうとしても、水面に上がれないみたいに、途中で止まる。動かそうと思えば動く。でも動く理由がない。学校に行って笑う理由がない。
外で雨が降っている。窓を打つ音が、布団の中まで届いてくる。低くて、途切れない音。
母が部屋をノックした。「千草、朝ごはんできてるよ」。千草は「……ちょっと体調悪い。今日休む」と答えた。声が枯れていた。
「熱ある?」
「ない。でも……休む」
母は少し心配そうだったが、「わかった。ゆっくりしなさい」と言って離れた。
その翌日も、千草は学校を休んだ。
渚からLINEが来る。「千草、大丈夫? 風邪長引いてる? うち心配だよ」。千草はそれを読んだ。読めている。頭は動く。でも返信ができない。
「大丈夫」と打とうとして、打てない。
「大丈夫じゃない」と打とうとして、それも打てない。
どちらの言葉も、千草の指から出てこなかった。声にしようとしても同じだった。喉の奥に何かが沈んでいて、音が水面まで上がってこない。
カーテンを閉めた部屋で、千草は布団に潜った。スマホの通知音を消した。画面は時々確認する。渚からの「大丈夫?」が増えていく。汐音からの「無理しないでね」。演劇部の後輩からの「千草先輩、お大事に」。
帆波からは、何も来ていなかった。
雨が降り続いている。一月の雨は冷たくて重い。窓硝子を伝う水の筋が、カーテンの隙間から薄く透けて見える。
水族館にも行かなくなった。イルカに会いに行く気力がない。シフトは体調不良で休みの連絡を入れた。店長が「ゆっくり休んでね」と言ってくれた。
千草は布団の中で膝を抱えた。暗い部屋。カーテンの隙間から差し込む光は、雨のせいで灰色に濁っている。
笑えない。
笑えない自分には、価値がない。
助けられない。頼りにされない。場を明るくできない。みんなの太陽でいられない。太陽じゃない千草に、何が残るんだろう。
何も、残らない。
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夜。布団の中。暗い部屋。
雨音がいつの間にか止んでいた。静かだ。
スマホの画面が光った。
帆波からのメッセージ。
「今日、水族館に行ったよ。イルカが元気だった」
それだけだった。
「大丈夫?」とは書いていない。「心配してる」とも書いていない。「学校に来て」とも書いていない。
ただ、イルカが元気だった、と。
千草がいなくても、イルカは泳いでいる。千草が水槽の前に来なくても、ソラとナミとシオは水の中を旋回し、水面に浮上して呼吸をし、口元のカーブを見せている。千草がいてもいなくても、イルカは変わらない。
それは悲しいことのはずだった。千草がいなくても世界は回る。千草が笑わなくても誰も困らない。
でも、帆波はそれを伝えてきた。イルカが元気だと。千草がいない水族館に行って、イルカを見て、千草のことを考えて、メッセージを送った。
千草はスマホを抱きしめた。
涙が出た。声のない涙。枕に顔を埋めて、体を丸めて、震えながら泣いた。帆波のメッセージの画面が暗くなっても、千草はスマホを離さなかった。
泣きながら思った。
あたしはもう笑えない。でも帆波は、笑ってないあたしにも、メッセージを送ってくれた。




