第12章 知らなかった
渚はLINEの画面を見た。既読がついている。返信はない。七日目だった。
一月の半ば。汐浦は冬の底にいた。教室の窓から見える海は暗い灰色で、風は刃のように冷たい。空が低くて、町全体が蓋をされたように沈んでいる。千草の席が空いている。一週間、ずっと。
渚は毎日LINEを送っていた。「大丈夫?」「今日も休み?」「何かあったら言ってね」。返事は来ない。既読はつく。読んではいる。でも返してこない。
千草がこんなに長く休むのは初めてだった。風邪ならとっくに治っているはずの日数。インフルエンザでもなさそうだ。学校で先生に訊いたら「体調不良で休んでいる」とだけ言われた。
あの日のことが、頭の隅に引っかかっている。冬公演の後。段ボール箱を落とした千草の手。震えていた。千草は笑っていた。「大丈夫」と言っていた。渚はそれを信じた。信じたかった。考えないようにした。
千草の家に行こう、と渚は決めた。
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放課後。渚は千草の家を訪ねた。千草の家には何度も来たことがある。玄関のインターホンを押すと、千草の母親が出てきた。
「渚ちゃん。来てくれたの」
母親の顔には疲労が見えた。目の下に隈がある。声は平静を保っていたが、どこか張り詰めている。
「千草に会いに来ました。大丈夫ですか?」
「……千草、部屋から出てこないの。ごめんね。上がって、声かけてみてくれる?」
渚は靴を脱いで上がった。階段を上る。暖房の乾いた空気と、柔軟剤のかすかな甘さ。何度も来ている家の匂い。なのに今日は、それが胸の奥に重く沁みた。二階の千草の部屋。ドアの前に立つ。
ドアは閉まっている。中からは何の音もしない。廊下の明かりがドアの木目を照らしている。ドアの下の隙間から、部屋の暗さが滲み出ていた。カーテンを閉めているのだろう。
渚はドアをノックした。
「千草。渚だよ。開けて」
返事がない。
渚はドアノブに手をかけた。金属が冷たい。鍵はかかっていない。でも勝手に開けることが渚にはできなかった。千草の沈黙を壊すことが怖かった。
「千草、うちいるよ」
沈黙。
「……何があったか知らないけど、千草はいつも元気だし、大丈夫だって」
言いながら、自分の声が震えていることに気づいた。
ドアの向こうから、声がした。
小さな声。かすれた声。千草の声だとわからないほど弱い声。
「……大丈夫じゃない」
渚の足から力が抜けた。壁に手をついた。
千草の口から「大丈夫じゃない」を聞いたことがなかった。一度も。どんな時でも千草は「大丈夫」と笑っていた。怪我をしても、テストが悪くても、忙しくても。いつだって千草は「大丈夫!」と笑って、渚を安心させてくれた。
その千草が、「大丈夫じゃない」と言った。
「千草……」
「ごめん。今は、会えない」
「なんで」
「笑えないから」
渚は何か言おうとした。でも言葉が出なかった。
「笑えないから、会えない。笑えないあたしを見せたくない。渚に。誰にも」
千草の声が震えていた。ドアの向こうで、千草が泣いているのか、泣いていないのか、わからなかった。
「笑えなくても」
渚は言いかけた。笑えなくても大丈夫だよ。笑えなくても千草は千草だよ。そう言いたかった。
千草が遮った。
「笑えないあたしに、価値なんかないよ」
渚の視界が滲んだ。まばたきをしたら、涙が落ちた。
廊下に立ったまま、ドアの前で、渚は泣いた。声を殺して。手で口を覆って。涙が指の隙間から落ちて、廊下の床に小さな染みを作った。
「笑えないあたしに価値なんかない」。千草はずっとそう思っていたのか。笑うことが自分の価値だと。笑えなくなったら何も残らないと。笑顔は千草の武器で、千草の鎧で、千草の存在証明だったのか。
渚はずっとそばにいた。小学校の時からの親友。誰よりも長く、誰よりも近くに。千草の笑顔を一番たくさん見てきた。千草が笑っているのを見て、安心していた。千草が笑っているから大丈夫だと思っていた。
毎日「大丈夫?」と送り続けた。「大丈夫?」と訊くことが、渚にできる精一杯だった。でも千草が一番苦しんでいたのは、「大丈夫」と答え続けることだったのかもしれない。
ずっとそばにいたのに。何も知らなかった。
渚は泣きながら階段を下りた。千草の母親が玄関で待っていた。渚の泣き顔を見て、母親は何も言わなかった。ただ「ありがとうね、来てくれて」と言った。
渚は「すみません」と頭を下げた。何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。
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放課後。教室で鞄を片付けていると、渚が来た。目が赤い。泣いた後の顔。鼻の頭も赤くなっている。
帆波は渚の顔を見て、手を止めた。
「岬さん」
「……柊さん」
「ちょっと話がある。付き合って」
渚の声は震えていたが、強い意志があった。帆波は頷いた。
二人は中庭のベンチに座った。一月の中庭は誰もいない。花壇は冬枯れで、乾いた土だけが広がっている。風が冷たい。ベンチの金属が太腿の裏から体温を奪っていく。息が白い。
渚は膝の上で手を握りしめながら話した。千草の家に行ったこと。ドアの向こうから聞いた声。「大丈夫じゃない」。「笑えないから会えない」。「笑えないあたしに価値なんかない」。
話しながら渚の声は何度も途切れた。帆波は黙って聞いていた。
「岬さん、千草のこと……何か知ってる?」
渚がまっすぐ帆波を見た。赤い目。涙の跡が頬に残っている。
帆波は少し黙った。知っている。水族館で泣いていた千草。イルカに語りかけていた千草。笑顔を作り直す千草。全部知っている。
「彼女は、ずっと無理をしていたんだと思う」
帆波は言葉を選んだ。慎重に。渚を傷つけないように、でも嘘はつかないように。
「でも、千草はいつも笑って」
「笑っていたから、誰も気づかなかった」
帆波の声は静かだった。
「笑顔が上手すぎた。完璧すぎた。みんなが安心するくらい上手に笑っていたから、誰も裏を見なかった」
渚の唇が震えた。
「柊さんが悪いんじゃない」
帆波はそう言った。
「千草が隠すのが上手すぎた。笑顔で全部包んでしまう。近くにいればいるほど、その笑顔を信じる。それは優しさだよ。千草を信じていたことは」
「……うち、親友なのに」
渚の声が震える。
「親友だから、信じた。千草の笑顔を額面通りに受け取った。それは千草が望んだことでもあるんだよ。千草は笑顔で人を安心させたかった。それが千草のやり方だった」
渚は両手で顔を覆った。肩が震えている。声が漏れる。息が白い。
帆波はその隣に座ったまま、何もしなかった。渚が泣くのを、ただ隣で聞いていた。渚が落ち着くまで、何も言わなかった。風が中庭を横切って、冬枯れの花壇の土を乾いた音で鳴らした。
渚がようやく顔を上げた。目の縁が赤い。鼻をすする。
「岬さんは……いつから知ってたの?」
「十月」
「十月って……転校してきてすぐ?」
「偶然、見た。水族館で」
渚は目を見開いた。それから、何かを理解したような顔をした。
「……千草が最近、岬さんといる時だけちょっと違ったの。笑い方が柔らかいっていうか。うちの前では見せない顔をしてるなって思ってた」
渚の指が、スカートの膝の布をきゅっと摘まんだ。目が一度逸れて、戻ってきた。
「ちょっと嫉妬してた」
「……」
「でも、そういうことだったんだね。千草は、岬さんの前では笑わなくていいって思ってたんだ」
渚は鼻をすすった。
「うちの前では笑わなきゃいけないって思ってたんだよね。うちが、千草に笑顔を求めてたから」
「柊さん」
「違うの。怒ってるんじゃない。うちが、もっとちゃんと見てればよかったって思ってるの」
渚は立ち上がった。目を拭う。深呼吸をする。冷たい空気を吸い込んで、白い息を吐く。
「うちにできることある?」
「今は……時間がいると思う。千草自身が整理する時間」
「そう。……岬さんは、どうするの?」
帆波は答えなかった。すぐには。
渚は帆波の顔を見て、何かを読み取ったようだった。小さく頷いて「わかった」とだけ言って、去っていった。
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帆波は一人、中庭のベンチに座っていた。
渚と話しながら、ずっと考えていたことがある。
自分は「知っている側」にいた。十月から。千草の涙を見た。笑顔の裏を知った。水族館で隣に座った。砂浜を歩いた。千草が少しずつ素の顔を見せてくれた。
それを、嬉しいと思っていた。千草が自分にだけ見せる顔があることが。
でも結局、何もしなかった。
観察して、理解して、寄り添ったつもりで。「隣にいるだけでいい」と思っていた。千草が自分のペースで鎧を脱ぐのを、静かに待っていればいいと。
待っていた結果が、これだ。千草は笑えなくなって、部屋に閉じこもって、誰にも会えなくなった。
帆波は自分の手を見た。膝の上に置いた手。何も掴んでいない手。
観察すること。踏み込まないこと。一人でいても平気なこと。それらは帆波の美徳だと思っていた。でも今は、臆病の別名だったのかもしれないと思う。
深く関わることが怖かった。誰かの痛みに触れて、自分も傷つくことが。転校を繰り返してきた帆波は、人と深く関わらないことで自分を守ってきた。一人でいても平気。傷つかない距離。安全な場所。
でも千草は、その距離の外側で、一人で泣いていた。
帆波は立ち上がった。ベンチの冷たさが太腿の裏から離れる。
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夜。帆波は自室で、スマホを手にしていた。
渚からLINEが来た。「千草、まだ学校に来ない。どうしたらいいかわからない」。
帆波は返信を打った。
「私が行く」
送信してから、スマホを置いた。窓の外を見た。夜の海は見えない。でも波の音は聞こえる。遠く、低く、繰り返す音。水槽のポンプの音に似ている。
帆波は明日、千草の家に行く。
何を言うかは決まっていない。でも行く。手を伸ばす。観察者のまま終わらせない。
千草は助けを求めない。笑顔で全部隠す。だから、こっちから行かなきゃいけない。待っていたらだめだ。
帆波はベッドに座って、目を閉じた。手のひらが熱かった。握りしめた拳の中で、汗が滲んでいた。




