第13章 アリアが止まる
声が消えた場所には、水の音だけが残る。
一月の終わり。夜の汐浦水族館。帆波は母親のカードキーで通用口を開けた。今日は母に断って来ている。「水族館に少し用がある」とだけ言った。母は「気をつけてね」と言っただけで、何も訊かなかった。
展示エリアに入る。照明は落ちている。非常灯のオレンジと、水槽の青だけが空間を照らしている。水の揺らめきが天井に模様を描いている。ポンプの低い振動。ろ過装置の唸り。魚が泳ぐかすかな水音。消毒液と海水の混ざった匂いが、昼間より濃い。
帆波はメインホールに向かった。靴底がタイルを踏む音が反響する。自分の足音だけが響く空間。千草がいた時には、この反響を聞いていなかった。一人になって初めて、ここがこんなに広いことに気づく。
イルカの大水槽。千草がいつも座っていた場所。
帆波はその場所に立った。壁際。床のタイルが靴底から冷たさを伝えてくる。ここに千草は何度も座って、膝を抱えて、イルカに話しかけていた。笑顔を外して、涙を流して、そしてまた顔を作り直して。
壁際に、千草のスタッフ用の上着がかけてあった。青いジャンパー。バイト用の。千草が最後に出勤した日から、ここに残されたままなのだろう。誰も片付けていない。
帆波はその上着に触れた。冷たい。千草の体温はとっくに消えている。布の表面は乾いていて、千草の匂いも残っていなかった。二週間分の不在が、繊維の中に沈んでいる。
水槽の前に座った。千草と同じ姿勢で。背中を壁にもたせて、膝を立てて。タイルの冷たさが太腿の裏に沁みる。
硝子の向こうで、イルカが泳いでいる。ソラが水面近くをゆっくりと旋回している。ナミは水底に近い場所を滑るように移動している。シオが水槽の端から端まで横切っていく。
口元のカーブ。笑っているように見える。いつも通り。千草がいてもいなくても。
帆波はイルカに向かって、声を出した。
「……あの子が来なくなって、二週間」
自分の声が、水族館の空気に吸い込まれていく。反響がほとんどない。水の音に紛れて消える。千草の声もこうやって、ここに吸い込まれていったのだろう。
「あなたたちも寂しい?」
イルカは答えない。ソラが水面に浮上して、呼吸音を立てた。プシュ、という短い音。それだけ。
「あの子はずっと、ここであなたたちに話してた」
帆波の声は静かだった。でも、いつもの帆波の声よりも少しだけ揺れていた。自分の声が揺れていることに、帆波自身が驚いていた。
「笑わなくていい場所が、ここしかなかったから。学校でも家でも笑っていなきゃいけなくて、ここだけが鎧を脱げる場所だった」
帆波は膝を抱えた。千草がそうしていたように。
「私は、あの子の隣にいた。水族館で一緒に座って、海を歩いて、名前で呼び合うようになって。あの子が少しずつ素の顔を見せてくれるのが嬉しかった」
声が震えた。帆波は唇を噛んだ。歯が唇の内側に食い込む感覚。
「でも、手を伸ばさなかった。わかっていたのに。見えていたのに。あの子がどんどん追い詰められていくのが見えていたのに、隣にいるだけで十分だと思っていた」
涙は出なかった。でも、声が震えることは帆波にもある。今がそうだった。喉の奥が痛い。
「十分じゃなかった」
帆波は硝子を見つめた。透明な壁。向こう側の水。触れられない距離。潮が引くように、千草が遠のいていった。帆波はその岸辺に立ったまま、波が戻るのを待っていただけだった。
「私は観察するのが得意で、踏み込むのが苦手で。それを『一人が好き』って言い換えてた。でも違う。怖かっただけ。深く関わって、傷つくのが」
ナミが水槽の硝子の近くを通り過ぎた。帆波の手の位置と、ナミの体が一瞬だけ重なる。硝子一枚の距離。
「千草は、助けを求めない。笑顔で全部隠す。だから、こっちから行かなきゃいけないんだ。待ってたらだめなんだ」
帆波は立ち上がった。
水槽を見上げた。ソラが旋回している。口元のカーブ。笑顔。構造としての笑顔。
「明日、あの子のところに行く」
帆波はそう言った。イルカに。千草がそうしていたように。
「何を言えばいいかわからない。でも、行く」
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水族館を出た。
冬の夜。一月の終わりの空気は刺すように冷たい。星が見えている。雲がない夜は放射冷却で気温が下がる。帆波はマフラーに顔を埋めた。吐く息がマフラーの繊維の中で温かく湿る。
スマホを確認した。渚から返信が来ていた。昨夜送った「私が行く」への返事。
「……お願い。うちの言葉じゃ、届かなかった」
帆波は立ち止まった。渚の言葉が届かなかったのではない。千草が受け取れる状態じゃなかっただけだ。でも渚にそう説明しても、今の渚には届かないだろう。
もう一通。
「岬さんなら、届くかもしれない。千草が唯一、笑わなくていい相手だから」
帆波はスマホをポケットにしまった。
歩き出す。海沿いの道。波の音が近い。潮が満ちてくる時間だった。暗い水面が、さっきよりも少しだけ岸に近づいている。引いていた潮が、ゆっくりと戻り始めている。
手が冷たい。ポケットに入れても温まらない。でも、足は止まらなかった。
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家に帰った帆波は、自室のベッドに座った。
窓の外は暗い。カーテンを開けたままにしている。夜の空が見える。星がさっきより増えたような気がする。
帆波は手のひらを見た。さっき水族館の硝子に触れた手。千草がいつも触れていた硝子。指先に、あの冷たさがまだ残っている。
千草は硝子越しにイルカと話していた。透明な壁の向こうの相手に、声を届けていた。届いていたかどうかはわからない。イルカが千草の言葉を理解しているはずがない。でも千草にとっては、その行為自体が必要だった。
声に出すこと。誰かに向かって言葉を発すること。たとえ届かなくても。
千草のアリアが止まっている。水槽の前に誰もいない。
帆波は目を閉じた。
明日、千草のところに行く。
千草は帆波を拒むかもしれない。「来ないで」と言うかもしれない。「笑えないから会えない」と、渚に言ったように。
でも行く。拒まれても。
帆波は渚のように千草の笑顔を信じた側ではない。最初から笑顔の裏を知っていた。だから、笑顔がなくなった千草の前にも、立てるはずだ。
立たなければいけない。
帆波はベッドに横になった。目を閉じる。
眠れない夜。でも、怖さよりも別のものが胸の中にある。
千草に会いたい。笑っていない千草に。泣いている千草に。何の仮面もつけていない千草に。
その気持ちに名前をつけるなら。
帆波は目を開けた。天井を見つめた。
好き、なのだと思う。
帆波はその言葉を、声には出さなかった。でも、胸の中で一度だけ響かせた。静かに。確かに。水槽の中で一度だけ跳ねる水面の波紋のように。
明日。千草のところに行く。




