第14章 潮騒
一月の終わり。午後。
帆波は千草の家の前に立っていた。吐く息が白い。手がかじかんでいる。マフラーに顔を埋めても、鼻の先が冷たい。
二階建ての一軒家。玄関に小さな鉢植えが並んでいる。冬枯れで葉は落ちているが、手入れはされている。千草の母親が世話をしているのだろう。
インターホンを押した。
少し間があって、ドアが開いた。千草の母親。前に渚が来た時と同じように疲れた顔をしていたが、帆波を見て少し驚いた。
「あの……岬です。千草の同級生で」
「岬さん。水族館の研究員の」
「はい。お母さんがお世話になっています。千草に、会いに来ました」
母親は帆波の顔をしばらく見つめて、何かを察したように、少しだけ表情を緩めた。
「来てくれたの……ありがとう。あの子、ずっと部屋から出てこなくて」
「上がっても、いいですか」
「もちろん。二階の奥の部屋」
帆波は靴を脱いで上がった。玄関の中は外より温かい。暖房の温もりと、生活の匂いがする。階段を上る。廊下の突き当たりに、ドアがある。ドアの前に立つ。
木のドア。閉まっている。ドアの表面に、小さなイルカのステッカーが貼ってある。角が少し剥がれかけている。ずっと前に貼ったものだろう。
帆波はドアをノックした。
返事がない。
もう一度。
返事がない。
帆波は口を開いた。
「千草」
名前で呼んだ。
沈黙。でもドアの向こうで、何かが動いた気配があった。布擦れの音。千草がいる。聞いている。
「……入るよ」
帆波はドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。
ドアを開ける。
カーテンの閉まった暗い部屋。外は昼過ぎのはずだけれど、部屋の中は夜のように暗い。カーテンの隙間から細い光が一筋だけ差し込んでいて、床の上に白い線を引いている。
空気が籠もっていた。温かいのではなく、動いていない空気。外の冬の冷気とは違う、体温と呼吸だけで満たされた重い空気。
ベッドの上に千草がいた。
布団を顎まで引き上げて、小さく丸まっている。髪が乱れている。パジャマのまま。顔は布団の端から少しだけ見えていて、目が赤い。頬がこけている。唇が乾いている。
帆波が知っている千草とは、まるで違っていた。学校で太陽のように笑っていた千草とも、水族館で静かに語りかけていた千草とも。今ここにいるのは、すべてを剥ぎ取られた千草だった。笑顔も、元気も、強さも。何もまとっていない。
千草が顔を上げた。帆波を見た。
最初にしたこと。笑おうとした。
口角を上げようとした。反射的に。条件反射的に。誰かが来たら笑う。それが千草の体に刻まれたプログラム。
でもできなかった。顔が歪んだ。笑顔にならない。笑おうとして失敗した顔が、苦痛の表情に似ていた。
「……来ないで」
千草の声はかすれていた。何日もまともに声を出していない人の声。
「今のあたし、笑えないから」
帆波は部屋の入り口に立ったまま、千草を見ていた。
「知ってる」
「笑えないあたしなんか、見たくないでしょ」
「見たい」
帆波はゆっくりと部屋に入った。ベッドの端に座った。マットレスが少しだけ沈む。千草との距離は、手を伸ばせば届くくらい。伸ばさなければ届かないくらい。
「私はずっと、あなたの笑顔を見てなかった」
「……え?」
「学校での笑顔は見てた。でも、見てたのはその奥。笑ってない時の目。震えてる手。作り直す前の顔」
千草の呼吸が浅くなった。布団を握る手に力が入っている。指先が白い。
「水族館で、イルカに話してる時のあなた。あれが私の知ってる千草」
千草の目に涙が浮かんだ。浮かんで、止まらなかった。
「……見て、たの?」
「十月。偶然。それからずっと」
「ずっと、知ってたの? あたしが泣いてるの。笑顔を作り直してるの。全部」
「全部じゃない。でも、あなたが笑顔の裏で苦しんでいることは、知ってた」
千草の目から涙がこぼれた。一粒、二粒。そして堰を切ったように。
「なんで、なんで言ってくれなかったの」
千草の声が震えた。声が割れて、かすれて、高くなったり低くなったりする。
「言ったら、あなたが水族館に来なくなると思った。あの場所を、あなたの唯一の逃げ場を、奪いたくなかった」
「……」
「でも、結局、あなたは来なくなった」
帆波の声も、わずかに震えていた。
「だから今度は私が来た」
千草が布団を握りしめる。指が白くなるほど。涙が頬を伝って、枕に落ちていく。
「あたし……笑ってないと、いる意味ないんだよ」
その言葉が、千草の口から溢れ出した。渚にドア越しに言ったのと同じ言葉。でも今度は、顔を見せて。帆波の目を見て。
「助けてあげられないし、場を明るくもできないし、何の役にも」
「千草」
帆波が千草の言葉を遮った。静かに。でも、はっきりと。
「私は、笑ってる千草に助けてもらったことはない。一度も」
千草が黙った。
「転校してきた時、あなたが案内してくれた。笑顔で。でも私が嬉しかったのは案内じゃない。水族館でイルカの話をしてくれた時。砂浜を歩いた時。閉館後に並んで座った時。あなたが笑ってない時に、あなたの声を聞いた」
帆波は千草を見つめていた。
「私があなたの隣にいたいと思ったのは、水族館で泣いてたあなたを見たからだよ」
千草の涙が止まらない。声が漏れる。押し殺そうとして、押し殺しきれない。
「笑ってない時のあなたが好きだった。笑ってない時のあなたも好きだった」
---
帆波の言葉が、千草の中を通り抜けていく。
「笑ってない時のあなたも好きだった」。
千草はその言葉を、体の奥で受け取った。肋骨の内側の、一番深いところで。
ずっと信じていたことが、揺らいだ。笑っていないと価値がない。笑えなくなったら必要とされない。笑顔が千草の存在証明で、笑顔がなくなったら千草は空っぽで。
帆波は言った。笑ってない時のあなたも好きだと。
笑顔のない千草を見て、それでも、好きだと。
千草の中で、何かが解けた。壊れるのではなく、解けた。
長い間凍っていたものが、溶け出していく。胸の奥から、腹の底から、喉の奥から。溶けたものが涙になって、声になって、体の外に出ていく。冷たかった水が、ゆっくりと温まっていくように。
千草は声を出して泣いた。
初めてだった。人の前で。隠さずに。顔を覆わずに。声を殺さずに。
醜い泣き声だった。しゃくり上げて、鼻をすすって、顔がぐちゃぐちゃになって。学校の千草なら絶対に見せない顔。水族館でも、こんなには泣かなかった。
帆波は千草の手を取った。
布団を握りしめていた千草の手を、そっとほどいて、自分の手で包んだ。帆波の手は冷たかった。外から来たばかりだから。千草の手は温かかった。布団の中にずっといたから。二つの温度が、掌の中で混ざり合う。
千草は帆波の手を握り返した。力が入る。爪が帆波の手の甲に食い込むくらい、強く。帆波は顔をしかめない。黙って、握らせている。
---
長い時間が過ぎた。
千草が泣き止むまで。部屋は暗いまま。カーテンの隙間の光が少しだけ角度を変えて、床の白い線が移動している。
千草の泣き声が小さくなっていく。しゃくり上げる間隔が長くなる。ひくひくと息を吸う音だけが残る。
帆波は千草の手を握ったまま、ベッドの端に座っている。何も言わない。千草が落ち着くのを、ただ待っている。
千草がようやく顔を上げた。泣いた後の顔。目が赤い。鼻も赤い。頬が涙で濡れていて、枕にも涙の跡がついている。髪が頬に張りついている。お世辞にもきれいとは言えない顔。
「……あたし、ブサイクな泣き顔してるでしょ」
かすれた声。でも、声が出た。自分から。
「うん」
帆波が答えた。即答だった。
「嘘でも否定してよ……」
「嘘はつかない」
千草が、泣きながら笑った。
泣き笑い。ぐちゃぐちゃの顔。涙と鼻水と、引きつった口元。笑顔の形なんか、どこにもない。完璧な弧なんか、一ミリも。口角は左右ばらばらで、目は腫れていて、鼻の頭が赤い。
でも。千草は笑っていた。組み立てたのではない。作ったのでもない。泣いている顔の上に、勝手に浮かんだ笑み。
帆波はその顔を見つめた。息を、吸った。吸ったまま、止まった。
「……今の顔が、一番好き」
千草がまた泣いた。でも今度の涙は、さっきとは違った。苦しくて泣いているのではなかった。
帆波の手が、千草の手の中で温かくなっていた。




