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水槽のアリア  作者: はるうた


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第15章 泣いてもいい

 二月。汐浦に、小さな春の気配が混じり始める。


 まだ寒い。風は冷たい。でも朝日の角度が少しだけ高くなって、海面に当たる光が冬の鈍さを脱ぎ始めている。


 千草は少しずつ日常に戻りつつあった。


---


 最初に学校に行った日のことを、千草は覚えている。


 朝、鏡の前に立った。久しぶりに制服を着た。顔色は悪い。痩せた。目の下の隈はまだ消えていない。


 笑顔を作ろうとした。作らなかった。


 帆波が来てから、千草の中で何かが変わっていた。笑顔を作ること自体をやめたわけではない。ただ、作らなくてもいい、という選択肢が生まれていた。口角を上げる前に、一度、自分に訊く。笑いたいか。笑いたくないなら、そのままでいい。


 教室に入った。


 暖房の温もりと、チョークの粉と、制服の繊維の匂いが混ざった空気が鼻を突いた。久しぶりの教室の匂いだった。椅子を引く音、話し声、靴底がリノリウムの床を擦る音。当たり前だった音が、どれも少しだけ遠く聞こえる。


 渚がいた。千草を見つけて、一瞬だけ固まった。それから駆け寄ってきた。


「千草」


 渚の目が潤んでいた。抱きつきたそうな顔をしていた。でも、踏みとどまった。千草の表情を見て、以前のように無邪気に飛びつくことをやめた。


「……おはよ、渚」


 千草の声は少しだけ低かった。以前ほどの弾みはなかった。でも、声は出た。


「おはよう。……おかえり」


「ただいま」


 千草は笑わなかった。でも泣きもしなかった。ただ、そこにいた。渚の前に。笑顔なしの千草として。


 渚は一瞬だけ不安そうな顔をした。それから笑った。目の縁がまだ赤いのに、口元だけ先に動いて、渚らしい笑顔を作った。


「席、空けといたよ。プリントもまとめてある」


「ありがと」


 教室の中は、千草の復帰に反応した。「千草、久しぶり!」「体調大丈夫?」。千草は「うん、もう大丈夫」と答えた。でもその「大丈夫」は以前の「大丈夫!」とは違っていた。感嘆符がなくなった。声のトーンが落ち着いていた。


 何人かの生徒が、千草の変化に気づいた顔をした。でも誰も何も言わなかった。


---


 授業が始まる。ノートを開く。ペンを持つ。黒板の文字を写す。手が覚えている動作を、体がこなしていく。


 千草は笑う回数が減った。でも消えたわけではない。渚が面白いことを言えば笑うし、汐音の穏やかな冗談にも口元が緩む。ただ、笑いたくない時に笑うことをやめた。


 疲れた時は「疲れた」と言うようになった。以前は絶対に言わなかった言葉。


 放課後。渚と演劇部の部室にいる。来年度の活動について話していた。窓から差し込む二月の西日が、台本のファイルの背表紙を琥珀色に染めている。


「千草、なんか変わったね」


 渚がふと言った。台本のファイルを整理しながら。


「……うん。ごめんね、今まで」


「謝んないでよ」


 渚が台本を置いて、千草を見た。


「うちこそ、気づけなくてごめん」


「渚が気づけなかったのは、あたしが隠すのうますぎたから。帆波に言われた」


「……岬さんに?」


「うん。あの子だけが、あたしの笑顔の裏を、最初から見てた」


 渚は複雑な顔をした。唇を少しだけ噛んで、目を伏せて。それから顔を上げた。笑った。少しだけ寂しそうな、でも温かい笑顔。


「千草の味方が増えたってことだね。うち、嬉しい」


 一拍。


「……ちょっと悔しいけど」


 千草は渚を見た。渚の声が少し震えていたことに気づいて、喉の奥がきゅっと詰まった。


「渚は、ずっとあたしの味方だったよ。あたしが笑ってる千草しか見せなかっただけで」


「うん。だから、これからは全部見せてよ。笑ってないのも、怒ってるのも、泣いてるのも。うち、全部の千草が好きだから」


 千草の目が熱くなった。まぶたの裏が滲んで、渚の顔の輪郭がぼやけた。でも泣かなかった。渚の前で泣く日は、きっとこれからある。今じゃなくていい。


「……うん」


---


 ある夕方。帆波が千草に言った。


「久しぶりに、行かない?」


 水族館。


 千草は一瞬だけ躊躇った。あの場所に戻ること。イルカの前に座ること。笑顔を外していた場所に、笑顔を外した自分として、戻ること。


「……行く」


---


 閉館後の汐浦水族館。


 照明が落とされた展示エリアを、二人で歩いた。非常灯のオレンジと、水槽の青。ポンプの低い振動と、ろ過装置の唸りが足裏から伝わってくる。エアレーションの泡が弾ける音が遠くから聞こえる。消毒液と海水が混ざった匂い。何も変わっていない。千草がいなかった二週間のあいだも、この場所はこのままだった。


 メインホール。イルカの大水槽。


 千草は水槽の前に立った。ソラが水面近くを泳いでいる。ナミが水底で旋回している。シオが硝子の近くを通り過ぎていく。


 千草は座った。いつもの場所。壁にもたれて、膝を立てて。タイルの冷たさが太腿の裏に沁みる。この冷たさを知っている。体が覚えている。


 帆波がその隣に座った。


 長い沈黙があった。水の音だけ。二人の呼吸だけ。


 千草が口を開いた。


「ねえ、知ってる? イルカって、水の中にいるから……泣いても、わからないんだよ。涙が水に溶けちゃうから」


「うん」


「あたし、ここで泣いてたのも、それと同じだった。水族館の中なら、誰にも見られない。涙が見えない場所を、ずっと探してた」


 千草の声は静かだった。イルカに向けていた声と、帆波に向ける声が、初めて重なっていた。


「でも、帆波は見つけた。水の中のあたしの涙を」


「見つけたんじゃない」


 帆波が言った。


「見えたの。あなたのことを見てたから」


 千草は帆波を見た。青い光の中の帆波の顔。穏やかで、静かで、でも目の奥に熱がある。水槽の光が帆波の瞳の中で揺れている。


「……あたしね、ずっと思ってた。笑えなくなったら終わりだって。笑えないあたしには価値がなくて、誰にも必要とされなくて、一人になるって」


「うん」


「でも、終わらなかった。帆波がいたから」


 帆波は何も言わなかった。千草の言葉を受け止めていた。


「帆波は、あたしが笑ってない時に来てくれた。笑えない時に手を握ってくれた。あたしが一番見せたくない顔を見て、それでも隣にいてくれた」


「……」


「帆波も思ってたんでしょ。一人でいても平気だって」


 帆波の呼吸が一瞬止まった。


「でも、あたしに会って、変わったんじゃない?」


 帆波は黙った。長い沈黙。水の音。イルカが泳ぐ音。


「……うん」


 帆波の声が、かすかに震えた。


「一人でいても平気だった。でも、あなたに会って、平気なだけじゃ足りないって知った」


 千草の目に涙が浮かんだ。今度は隠さない。


「……泣いてもいい?」


「いつでも」


 千草が泣いた。帆波の肩に顔を埋めて。声を殺さずに。嗚咽がホールに響いて、水の音に混ざっていった。帆波の制服の肩が涙で濡れていく。布越しに帆波の体温が伝わる。帆波は動かなかった。千草の体温を受け止めて、ただそこにいた。


 イルカが水槽の中をゆっくり泳いでいる。水の音だけが、二人を包んでいる。


---


> **— 水槽の前で —**

>

> ねえ、聞いて。

>

> わたし、泣いてもいいんだって。笑えなくても、助けられなくても、何の役にも立たなくても、ここにいていいんだって。

>

> あなたたちにずっと話してた。ひとりで。夜の水族館で、誰にも聞こえない声で。水の音に紛れて消えていく声で。わたしのアリア。独り歌。

>

> でも今日は、隣に温度がある。隣に、呼吸がある。

>

> だからこれは、最後の独り言。

>

> ……ありがとう。ずっと聞いてくれて。硝子の向こうから、ずっと。


---


 千草が顔を上げた。


 泣いた後の顔。目が赤い。鼻も赤い。頬が涙で光っている。お世辞にもきれいとは言えない。


 でも千草は笑った。自分から。誰のためでもなく。涙の跡がついたまま、目が赤いまま。組み立てなかった。口角を引き上げなかった。ただ、笑いたかった。それだけで、顔が動いた。


 帆波がその笑顔を見て、呼吸を止めた。目が揺れた。


「ありがと、帆波」


「何が?」


「あたしを見つけてくれて」


 帆波の目が、かすかに潤んだ。帆波が泣くのを、千草は初めて見た。涙がこぼれたわけではない。でも目の縁が赤くなって、まつ毛が濡れて、光を受けて揺れた。


「……こっちこそ」


 帆波の声がかすれた。


「見つけさせてくれて、ありがとう」


 水槽の青い光が、二人を照らしていた。ソラが水面に浮上して、呼吸音を立てた。プシュ。小さな音。それだけが、静寂を破った。


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