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魔性の勇者  作者: エディ
第二章
21/23

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『ようやく、あなたに出会えた』

 その声は階の上の玉座からした。

 俺は今まさに魔王へ向けて斬りつけようとしていた剣を止めた。

 この声は、聞いたことがある。

 ミツカが滅びた時、フリューバーと対峙した時、ローヴァンナイトで魔王の振りをしていた魔族と戦った時、そしてついさっきも。

 常に、俺が死の間際にたたされた時に、この声を聞いてきた。

 声のした方を向けば、そこには玉座があり、そこに坐するクレスティアの姿があった。

 ――違う、彼女の声ではない。

 俺は、声の主を探そうとした。

『いいえ、私よ』

 そんな俺に、クレスティアの唇が動いて告げた。

 普段の彼女とは違う声色をしていた。それは闇の中で聞く、あの声だった。

「お前が、あの声の正体だったのか」

「ええ、私は今まであなたをずっと待ち続けていた」

 クレスティアの声が再び普段の声色に戻っていた。だが、先ほどの声を聞いて、俺は彼女から視線を外すことができなくなってしまった。剣を振り降ろそうとしていた魔王の存在すら、もはや気にならなくなるほど。

 俺の動揺を見過ごすことなく、魔王が俺の剣の射程から飛び去った。

「何を驚いているのか知らないが、后に気を取られて我に止めを刺し損ねたな」

 魔王がニヤリと笑う。

 片腕を切り落とされて額には冷や汗の粒を浮かべているが、それでも笑いを浮かべる。危機一髪を脱した魔王は、驚く俺の姿を気にするでなく、クレスティアに語りかけた。

「しかし、后よ。我が傷を受けたせいで、術中から抜け出したか。今一度、お前の心を私の虜に…」

 そこで、魔王の顔が凍りついた。

 玉座に座ったままのクレスティアが、魔王へ視線を向ける。すでに、その瞳には魔王に操られた目ではなく、彼女が常に称えている穏やかな光があった。その底には計り知れない強さを伴って。

 その彼女の姿をまじまじと見て、魔王が動揺した。

「なぜだ、今までお前の心を我は覗き続けていたのに、なぜ覗くことができない。なぜ、心が我が術中に落ちぬのだ!」

 動揺する魔王に、クレスティアはうっすらと笑った。

「ナイトメア、あなたが私の心を覗き、≪マインド≫の魔法を使って、私を操っていたことは知っている。でも、私は初めからあなたの術中にはなかった」

「どういう、ことだ?」

「私は、操られていたのではなく、今まで操られていたふりをしていたの」

 クレスティアの言葉に、魔王が愕然とした。

「なにをふざけたことを言うでない。人間ごときに、魔王たる我の術を防げるはずがない。だいいち、私は今までお前の心を見続けていたのだぞ。人間の女には不相応なほどの巨大な野心を、この大陸の覇者足らんとする強烈な野望を、そしてお前のユウナスに対する想いすらも」

 ユウナス。その言葉を口にした時、クレスティアの眉が微かに歪んだ。しかし、それもほんの一瞬のことだった。

「私は、操られたふりをして、今までお前を操ってきた」

 クレスティアは嫣然と笑い。玉座から立ちあがった。

「あり得ぬ、人間ごときに、そのようなことができるはずがない。人間ごときに…」

 うなされるように、人間ごときにと繰り返し続ける魔王。しかし、そんな魔王の様子をクレスティアは気にも留めない。玉座の置かれている階を歩いて降り、彼女はいつの間にか魔王の前にまで歩いてきていた。

「ナイトメア、そしてクラウ。私は今まで≪人間のふり≫をしていた。≪この大陸の覇者を望む女のふり≫をし続けてきた。でも、違うの」

 そこで、クレスティアの手が魔王の残された右腕に触れた。

 魔王の右腕が黒い灰となる。灰はそのまま魔王が右手に持っていた大剣にまで広がり、魔王の右腕の付け根から、大剣までの全てを灰と化した。そして、消え去る。

「グオオオォォォォ」

 右腕が跡形もなく消え去った直後、魔王の右腕の付け根からどす黒い血が噴き出した。そこから発生する痛みに、魔王が絶叫を上げる。

この目の前で見せられた力を俺は知っている。今さっき、魔王の左腕を消し去った俺の力と、全く同じ力だ。

 人間では絶対にありえない、魔性の力。

 驚く俺に、クレスティアが視線を向けていた。

「どうして、その力を…」

 俺の声はかすれていた。

 そんな俺の前で、クレスティアはまるで関係のなさそうなことを話し始めた。その口から紡がれるのは、まるで現実感がなく夢のような話。

「私は今までに世界が始まり、そして滅びるほどの長い時を生き続けてきた。夜空に広がる星の数ほどの、こことは異なる世界をめぐり続け、探していたものがある。私は、かつて自分が人間だと思っていたが、実はそうではなかった。≪人間≫ではなく、そして≪魔族≫でもなかった。ただ触れるだけで、その存在を跡形もなく消し去る力。…この力は、≪皇≫と呼ばれるものだけが持っているわ。そして、私は≪皇≫と呼ばれる存在。でもね、この存在を探し続けてきた中で、私は三回しか出会うことができなかった。初めてであった彼。そして、二番目に出会った相手は私が消し去ってしまった。そして三人目に出会ったのがあなたよ、クラウ」

 俺の名前を、クレスティアが呼んだ。

 だが、彼女の話す言葉が、まるで理解できない。

 異なる世界に、世界が始まって終わるほどの時間。

 この女は、何を言ってるのだ。

 そう思う。

 だが、その一方で、クレスティアが口にした、≪触れるだけで、その存在を跡形もなく消し去る力≫という言葉に、ビクリとした。

 それは俺が持っている力だった。そして、目の前で今クレスティアがたった今見せた力。

「あなたは、私が三番目に出会えた同族よ」

 そう言い、クレスティアはニコリと笑った。

 その笑みは、いつもの超然とした彼女の穏やかな笑みとは違った。もっと自然で、まるで少女のようにあどけなく、純真な笑顔。

「私は、今まであなたを探し続けていた」


「≪皇≫…だと」

 だが笑顔のクレスティアの傍で、両腕を失った魔王が呻きながら言った。

「冗談を口にするではない。あれは、我ら魔族にとっても、ただの伝説の過ぎない話。ただの与太話だ。后よ、そなたが≪皇≫であるはずなどなかろう。≪皇≫とは、かつて我ら魔族の中で、魔王すら超越した≪最強の魔族≫と呼ばれた者を、消し去った存在。それが我の目の前にいるはずなどない!」

「その≪最強の魔族≫を消したのが、私よ。ナイトメア」

 魔王に、クレスティアは何ほどのこともないように言った。

「あり得ぬ、そんなばかなことが」

「あなたが、信じなくてもかまわない。でも、あなたたち魔族の役目はもう終わった」

 そこで、クレスティアの手が再び魔王に触れようとした。しかし、魔王はその手を避けて、後ろへと飛ぶ。

「認めぬ、認めぬぞ。そのような与太話を。そして我は魔王ナイトメア。お前たちごとき存在になど、殺される器ではないわ!」

 魔王が言い放つと、その体から黒い闇が全身へと広がった。

 闇は魔王の体を覆い尽くし、その後巨大化していく。人の姿をしながら、闇が大きく大きく大きく、玉座の間の天井にまで届くほどに急激に拡大していった。

「クハハハ、我が本来の姿の前で、お前たちは塵と消え去るがよい!」

 巨大化した人型の闇が咆哮した。

 これが、魔王の本来の姿なのだろう。

 ビリビリと玉座の間全体が振動している。巨大な魔力の力が、この部屋全体を、いや部屋はおろか、この城全体の全てを振動させている。今まで退治していた魔王とは、存在も力もまるで異なる次元の存在と化していた。

「お前たちのごとき、我が力の前で…」

 魔王は俺とクレスティアを睥睨しながら言った。だが、その言葉が終わるよりも早くクレスティアが一言放つ。

「さようなら、ナイトメア」

 クレスティアの手は魔王に触れていなかった。だが、魔王の力によって生まれていた振動が突如消え去る。そればかりか魔王の巨大な闇の体が、より黒い色へと変化していく。魔王は声一つ上げなかった。その中で、黒い色へと変化していった魔王の体が、音もなく消え去っていった。

 戦い、ではなかった。

 俺の力も、今までに触れてきたものを灰と化し消し去ってきた。だがしかし、目の前で見せられたそれは、俺が今までに使った力とは、まるで次元が違った。

 魔王の姿は、あまりにもあっけなく消え去ってしまう。

 その体を消し去った張本人は、僅かばかり瞳を儚く悲しませていた。

「私たちの力は触れたものを消し去る。でもね、この力は何かを生み出すことはできない。そして、力を使い続けるうちに、どのようなものに触れても何も感じることがなくなってしまう。何に触れても、何も感じない。温かさも、冷たさも、痛みも、堅さも、柔らかさも。そんな中で、私があなたを探し続けてきたのは、同じ力の相手であれば、触れることができるから」

 僅かな悲しみを見せていたクレスティアが、再び俺に視線を向けていた。

「でも、なぜ私が今まで魔王に操られたふりをしていたのか分かる?」

 クレスティアの言葉に、俺は不気味なものを感じた。たった今魔王を消し去ったこの女に、俺は心の中で言いようもない不安を覚える。しかし、それを俺は可能な限り表面には出さないように努めた。

「私はミツカの街であなたに出会った」

「やっぱり、あの時の声はあんただったんだな」

「ええ、そう」

「ならば、ミツカを消し去ったのは…」

 もしかすれば、それはクレスティアなのではないか。街ひとつを丸ごと消し去ってしまうような巨大な力。ミツカの街で見た、あの酷く冷たい孤独な闇の空間の事を思い出しながら俺は問う。

 たった今、クレスティアは魔王などというとんでもない存在を、いとも簡単に消し去ってしまったのだ。彼女であれば、街一つを消し去ることとてできるはず。

 だが、クレスティアは頭を横に振った。

「あの時、町を消したのは、私ではなくあなたよ。あの時、あなたは兵士に斬られ人間として瀕死の状態だった。そのせいで力は暴走していた。もしも私があなたの暴れる力を止めていなければ、街どころかこの大陸、いえ、この世界すら消し去っていた」

 街を消したのは、やっぱり俺なのか。苦いものを感じる。俺が、ミツカの街を消し去ってしまった。その罪悪から逃れたかった。その、一片の望みから、あれはクレスティアがしたことなのではないかと思いたかった。

 だが、話は逆で、クレスティアが俺を助けたと言っている。

「どうして俺を助けた?」

「だって、あなたは私の同族ですもの。当然でしょう」

「それに、世界を消すだって?」

「あなたは、まだ何も知らないのね。私たち≪皇≫の力は触れたものを消し去る。その気になれば、この世界に触れて、消し去ることもできる」

「!」

 なんてとんでもないことをこの女は口にしている。世界を消すなんて、そんなバカなことができるはずがない。

「私は望む望まぬに関わらず、今までにいくつもの世界を消してきた」

「それはあんたの力だからだろう。確かに俺の力もあんたと同じなのかもしれない。今まで魔将軍たちと対峙してきて、あの力を見せられてはそう思うしかない。でも俺の力は、あんたほど強くはない」

「いずれ、あなたの力も強くなっていくわ。ミツカの街の時だって、正気を失っていたあなたならば、自分の命と引き換えにこの世界を消し去るくらいはできたでしょう」

 クレスティアから語られる言葉に、俺は頭を振った。この女はでたらめを言ってるのだ。俺をからかおうとして、こんな絵空事のような話をしている。

 そう思いたかったが、目の前にいるクレスティアの目は、驚くほどに落ちついていた。嘘をついているようには見えなかった。

 見えないが、だからと言ってとても信じられる話でもない。あまりにも気宇壮大な話だ。

 そんな俺の混乱をクレスティアも感じ取っているのだろう。

「いずれ、分かる時がくるわ。私が保障する」

「いやな、保障だな」

 俺は苦い表情になった。どうして、この女はここまで落ちついていられるのだろうかと思う。こんな触れただけで何もかもを消せるような力。そんな力を持っていると言うのに。

 だが、そこで新たな疑問がわいてくる。

「でも、触れるだけで消せるはずなのに、なんで普段、俺やあんたがいろいろなものに触れても、何も起きないんだ?」

「それはね。私たちは普段人の皮を被っているから――いえ、それは語弊があるわね」

 そこで少し考えるように沈黙するクレスティア。

「普段の私たちは≪手袋≫をしていると思えばいいわ。手袋越しであれば、どのようなものに触れても消し去ることはない。でも、その手袋を脱いでしまえば、私たちの力が発現する」

 そこで証明するかのように、クレスティアは足で石でできた玉座の間の床を叩いた。コンコンと堅い音が返ってくるが、再度彼女の足が触れた時、石の一部が黒い灰となり、消え去った。消えた範囲はわずかだったので、そこから下の階まで貫通してはなかった。だが、石の床に窪みができる。

触れると消え去る力を見せられて、ゾッとする。

 ――いや、俺も、その力を宿しているわけだが。

「でもさっきも言ったけど、この力を使い続けるうちに、どのようなものに触れても何も感じることがなくなってしまう。触れるものを問答無用で消し去ってしまうのだからね。だから私は、長い間触れられる存在を探し続けていた。クラウ、あなたに触れてもいいかしら?」

「…ああ」

 クレスティアが、俺に向けて歩いてきた。

「本当に、いいわね」

 もう一度訪ねる彼女に、俺は頷いた。

 クレスティアの手が、俺の手に触れた。その瞬間、そこから氷のような冷たさが伝わってきた。

「つっ」

 咄嗟に引っこめようとした俺の手を、しかしクレスティアが強くつかんだ。

「グウッ」

 手に強烈な痛みが走る。俺が思わずうめき声を漏らすと、クレスティアは俺の手を解放した。だが、握られていた俺の手には、黒い痣が浮かびあがり、痛みがいまだに引かない。

「残念ね。今のあなたはあまりにも小さい。いえ、私の力が強すぎる。少し強く触れただけでこうなる」

 クレスティアはうつむいていた。しかしその後に言葉が続く。

「私は、あなたに早く強くなってもらいたかった。私が触れても無事なくらいに、強く。だから私は魔族を、そして魔王をあなたにけしかけるようにした」

「なに!」

 クレスティアが決定的な言葉を発した瞬間だった。

 ――ガシャン

 玉座の間の奥で、鎖が地面にたたきつけられる音がした。音がした方を見ると、天井からアリサを捕えていた鎖が切れていた。鎖が切れたことで、アリサが地面に倒れる。だが、鎖の切れ端には、黒い灰が僅かに残っていた。

 俺の傍にいるクレスティアが、ここから離れた場所にある鎖に触れるなどできないはずだ。なのに、なぜ。

「私たちにとって姿形は、自在に変えることができる。体はもちろん、目に見えない部分まで」

 俺は、目の前にいるクレスティアに抱いていた不安が大きくなっていくのを感じた。

 左手に持つ相棒の魔剣を、思わず強く握り締める。

「クラウ。あなたには早く強くなってほしい。だから、私と少し戦って欲しい」

「嫌だと言ったら?」

「あなたの大切な妹が消え去ることになる」

 クレスティアの宣戦布告だった。


 俺は理性で考えるよりも早く、左手に持つ相棒を一閃させていた。

 黒い刃が、クレスティアの体を容赦なく捉え、その体に激突する。だが、相棒は体に文字通り衝突しただけだ。

あらゆる魔法を無力化する≪魔王殺しの魔剣≫と呼ばれる剣が、クレスティアの肌に当たったまま、肉体を切り裂くこともなく、その場に留まっている。

 俺がさらに力を加えても、クレスティアの肌に触れたままピクリとも動かない。

「その剣は、意味をなさない。私は≪魔族≫でないし、魔力を持っていない。それに望むならば、その剣を消し去ることも…」

 クレスティアの言葉に嫌なものを感じ、俺は咄嗟に相棒をクレスティアの体から引き離した。

「その剣は、あなたにとってとても大切なものなのね。賢明な判断だわ」

 クレスティアが微笑した直後、時の流れが急激に鈍くなっていく。

 ――≪時間殺しの法≫

 魔王がそう呼んでいた力だ。

 時が止まり、その中で俺とクレスティアだけが動く。

 クレスティアが急激に俺に近づいてくる。だが、剣で迎え撃つことはできない。俺は後ろに飛んでクレスティアから離れようとした。

「私はもっと早く動ける」

 後ろに飛んだ時、背後からクレスティアの声がした。

「なに!」

 俺が驚くよりもはやく、背後に現れたクレスティアの手が、俺の左手を掴んだ。

 再び時が加速し、動き始める。

「グウッ」

 左手から全身に痛みが駆けあがってくる。左手の力が緩んだ瞬間、クレスティアは何を思ってか、俺の手から相棒の魔剣を奪い取った。

 剣は消えることがなく、クレスティアの手に握られる。

「この剣は、命を奪い取る剣。あなたの人としての力を削りきれば、あなたの力はもっと強く覚醒できる」

 俺が反応するより早く、クレスティアが奪い取った剣が、後ろから俺の体を貫いた。

 俺は声も出せずに、俺は前のめりに倒れる。俺の視界には映らない中、クレスティアは俺の体――正確には心臓――を貫いた魔剣の腹をツッと触った。

「さあ、≪魔王殺しの魔剣≫。クラウの人間としての命を全て吸い出してしまいなさい」

 まるで、魔剣に命じるようにクレスティアが言う。

 俺の意識は途切れることがなく、その声を聞いていた。心臓を一撃され、そこから温かな血が大量に流れ出す。そして、血が流れる以上に、魔剣を通して体に冷たい感覚が広がっていく。

 かつてフリューバーと対決した時に、魔剣に命を喰われていく感覚があった。あの時と全く同じ間隔。しかし、吸い出していく力は、あの時以上だった。

「安心なさい。あなたは死ぬわけではない。ただ、人の姿に隠れている≪皇≫の力を解放するだけ」

 俺の体の中で、もう一つの心臓が鼓動し続ける。今まで以上に強く、早く。脈打つ力が全身へ広がっていく。

 頃合いを見計らうかのように、俺に突き立てた剣をクレスティアが引き抜いた。そのまま、近くの床に力任せに突き立てる。

「さあ、クラウ、あなたを見せてちょうだい」

 甘い声でクレスティアは言う。俺の体をクレスティアがつかみ、そのまま立たされた。俺は体に力が入らなかった。意識がぼうっとしている。体の中から流れ出した、血と命が、自らの存在を希薄にしているかのようだった。なのに、意識は途切れることなく、周囲で起きている物事を正確に感じ取っている。

 足に力が入らず、自力では立っていられない。そんな俺をクレスティアが抱きしめて立たせた。

「大丈夫、少しずつ慣れていくわ」

 耳元でクレスティアが囁きかける。

 ――寒い。

 クレスティアに触れられると、そこからとてつもなく寒い感覚が侵入してくる。

「あなたはとても温かいわね」

 俺を抱くクレスティアは、俺とは対照的な事を感じているらしい。

「どうして、あんたは、そんなに、寒いんだ」

 俺はかすれる声で尋ねた。

「私が、あまりに長く生きてきたせいかもしれない」

 そう囁いたクレスティアは、続けて毒を吹きこむ。

「頑張らないと、あなたの妹は…」

 ――クッ、この女は、魔族と同じだ。俺で遊んでいる!

 耳元でささやかれたクレスティアの言葉に、俺の中で消えかかりそうだった闘志に再び火がついた。

 この女をなんとしても、アリサから引き離さなければ。

 俺を抱きしめていたクレスティアが、俺の傍から離れた。

 俺は支えを失ってよろけたが、必死に足を踏ん張って立つ。だが、俺の触れている地面が黒い灰となり、消えていく。一歩、また一歩と歩いた。そのたびに、触れる床が灰となっていく。

 床が貫通してしまうほど大きくはないが、踏み出すと同時に石造りの床が、少しずつ消えていく。

 目の前にいるクレスティアに、無様な体当たりをした。

 ――ドン

 と、体がぶつかった。

「グッ」

 クレスティアの体にぶつかったたが、俺は再び冷たい感触にさらされる。

 とてつもなく、冷たい。それに、底知れぬ孤独があるように思えた。≪皇≫とは、力をふるい続けていくことで、どのようなものに触れても何も感じなくなっていく。そんなことをクレスティアは言っていた。そして、再び触れたいとも。

 ならば、彼女から感じるこの孤独は、触れるという言葉と関係しているのか。

 ぼんやりと考える俺の傍から、クレスティアは再び後ろに飛んで離れた。

 膝に力が入らず、俺はその場で倒れる。何とか右手を突き出して、受け身を取る。だが、付きだした右手の先にある床が、灰へと変わっていく。俺は、すぐさま立ちあがる。

 酷い感覚だった。頭はぼんやりして、全身に凄まじい倦怠感がある。息苦しさを感じて、空気を求めて大きく息をした。

 なのに、体の仲が空気で満たされる感覚がしない。

 空気を感じないのだ。

 あまりにも、おかしい。普段ありふれている世界を包んでいく空気の感覚がしない。それに、温かさも寒さも感じない。言い知れぬ冷たさを感じたのは、不本意ではあるが、クレスティアの体に触れた時だけだった。

それ以外は本当に何も感じない。

 何なんだ、この何も感じない世界は。まるで、生きているのか死んでいるのかもわからない。

 そこで、俺は目の前にいたクレスティアの顔が、僅かに悲しげになるのを見た。

「これが、私たち≪皇≫の世界。世界から何も感じることができないでしょう」

 そう言い、クレスティアは俺から離れていく。

「待て、どこへ行く!」

「あなたの、妹の所へ」

 この女は、本気だ。というより、アリサの命を何とも思っていない。このまま、クレスティアをアリサの元へ行かせては、ただ一人残った最後の戦友――大切な妹――まで、失ってしまう。

 それだけは、絶対にさせてはならない。

 なんとしても、クレスティアを止めなければ。

 そう思った俺の目に、床に突き立てられた相棒の姿が映った。

 もう、考える必要などない。

 俺は、突き立てられた相棒の柄を左手で握った。何も感じない。だが、触れた相棒が、俺の力で消えることもなかった。

 ――相棒、お前なら答えてくれるよな。

 剣は、黒い刀身を鈍く輝かせる。

 不思議だった。この何も感じない感覚の中で、この剣から、力づけられるようだった。

 俺は微かに笑い。そして、剣を持ったまま、クレスティア目がけて走った。

 クレスティアの傍で、相棒を振るう。

「それは、無意味よ」

 クレスティアは、ため息交じりに言った。

 さっきも彼女の体に命中した相棒が、その肌を傷つけることはできなかった。だが、それでも俺は、この時相棒を理屈など無視して信じた。

 次の起こったのは、クレスティアの右肩へと振り降ろされた相棒が、そのまま彼女の体を切り裂き、右肩から胸を貫き、そして左の脇腹へと抜けていく光景だった。

「なぜ!」

 刃が体を貫いた瞬間、クレスティアの瞳が驚きで大きく見開かれていた。刃が通過した場所が、白い筋を残す。そこから、血が流れることはなかった。ただ、白い光の筋だけが、刃の傷跡のように残る。

 そしてクレスティアを貫いた刃は、そのまま彼女の背後に広がる謁見の間の壁を、床を、黒い灰へと染め上げていく。まるで力の余波が零れ出したかのように、灰が広がっていく。

 その先には、俺が護ろうとしていたアリサの姿もあった。

「アリサ!」

 俺は絶叫した。

 だが、黒い灰は拡大を続けていき、床に倒れていたアリサにも、容赦なく広がっていく。

 俺は手を伸ばし、アリサへと向けて駆けだした。傍でズルリとクレスティアが倒れる。だが、それにさえも俺は気づかなかった。クレスティアなど俺の中からは消え去り、握っていた相棒をかなぐり捨て、妹へ向かって走っていく。

 周囲の時が恐ろしく遅く動き始め、再び時が止まっていく。

 だが、黒い灰は、時が止まった中でも容赦なく広がり続ける。

「アリサー!」

 こんな、こんなバカなことがあっていいはずがない。俺が叫ぶ先で、アリサは黒い灰に飲み込まれた。そして、消え去る。

 ――そんな…

 俺は守るべき最後の戦友を、妹であるアリサまでも失った。


「そんな、アリサ、アリサ、アリサ…」

 俺は、妹が消え去った光景を目の当たりにして、ただ愕然とその名前を呼び続けた。だが、答えはなにも返ってこない。

「ウソだ。こんなことがあるはずがない」

 ローヴァンナイトで多くの戦友を失い、そして僅かに残った戦友たちを守ろうとしたが、それすらも果たすことができなかった。そして、最後に残ったアリサまでもが…

「私としたことが、とんだ失態だわ」

 そんな俺の後ろで、クレスティアの言葉がした。

「あんたが、アリサを…」

 俺は朦朧とする意識のことなど、もはや吹き飛んでいた。怒りが沸き上がり、床に倒れるクレスティアを見る。

「確かに、私のせいだわ。私は彼女まで消してしまうつもりはなかった」

「あんたが!」

「今更、私が何を言っても弁明にすらならない」

 俺は、クレスティアの倒れた胸倉を掴んで、その顔を睨みつけた。

 クレスティアの体には、相棒によって作られた白い傷口が今もある。そのせいなのか、クレスティアは体を動かすことができず、抵抗一つしない。

 だが、瞳には毅然とした光を宿していた。

「私が憎いのなら、好きにするといいわ。私はあなたに強くなって欲しいと、自分勝手に願った。ただ、そのために私はあなたの大切なものを奪ってしまった。あなたの妹だけでなく、私が魔族やユウナスをけしかけたことで、あなたの戦友たちを殺させたようなもの」

「…」

「でも、もう誰も帰ってはこない」

 俺は自分の中でこみ上げる怒りにまかせて、このまま何をしでかすか分からなくなっていた。だが、「誰も帰ってしこない」。クレスティアの一言に、俺の体から突然力が抜けた。

「もう、誰も帰ってこない…」

 その言葉は、ついこの前まで兵士として戦場で戦ってきた俺にとって、当り前の事実だった。なのに、今はその言葉が途方もなく重い。守りたいと思った全ての人を失い、もう誰も残されていない。

「あなたも知っているでしょう。死んだ者は誰ひとりとして帰ってこない。私たち≪皇≫の力は、消し去る力。でも、それを生きている者に使えば、殺す力になる。あなたは、それをミツカの街で初めて使った」

「クッ」

「私たちは、望む望まずに関わらず、この力で様々なものを消すことになるわ。それが、≪皇≫という存在だから」

「…」

「私の体はもうダメでしょうけど、あなたは強くなって。≪皇≫は人間でも、魔族でもない。でも、その力の故に、弱いままだと誰かが消しにくるでしょう。だから、強くなって」

 クレスティアの手が、俺の頬を触れた。

「強くなって」

 また、そう言う。

 ポタリ、ポタリ。

 俺の瞳から、いつの間にか涙がこぼれていた。仲間の全てを失い、だから流れている涙。

「温かいわね、あなたは。だから、私みたいにならないで欲しい」

 そう言い、クレスティアは視線を天井へと向けた。

 先ほどの攻撃の余波で、謁見の間の壁は大きく消え去っている。支えの柱まであの攻撃で消え去ってしまったのか、天上にひびが入り続けていく。

 ――ガラガラ

 と、音を立て始め、天井から巨大な塊が次々に落下し始めた。

 だが、それが俺とクレスティアへ降り注ぐ前に、巨大な欠片が灰となって消え去っていく。それどころか、天井の全てが灰と化し、その向こうに広がる空が見えた。暗い夜だった。その中に、輝く月と星々の姿がある。

 満点に輝くはずの星々だが、空の端にある星が何の前触れもなく色を失い消えた。暗い闇が、星空の端に現れ、星が次々に輝きを失って、空に闇が広がっていく。

「残念ね。あの一撃で私の力が零れ出してる。…この世界はもうじき消えてなくなる」

 クレスティアの言葉に合わせるかのように、夜空の星がさらに消え去っていく。輝く月も、その光を鈍くさせていき、色が失われていく。

「クラウ、世界は、ただ一つではなく、あの夜の星のように無限に存在している。もうじき、私のせいでこの世界は消えるけど、あなたは別の世界で生きて」

 そう口にしたクレスティアが、俺の目の前に手をかざした。

 次の瞬間、俺の意識は暗い闇の中に消えた。


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