2回目の人生 ⑥
アレクシス視点の話です。
あるとき、ヘレネがそっと声をかけてきた。
「アリアンヌ様のご様子が、少しおかしいようです」
その言葉を聞き、アレクシスは他の文官たちに気付かれないよう執務室を抜け出した。急いでアリアンヌのもとへ向かう。
部屋に入ると、妹は泣きながら咳き込んでいた。顔は真っ赤で、まるで怒っているようにも見える。普段温厚で滅多に怒ることのないアリアンヌの、こんな様子を見るのは初めてのことだった。
「アリア、どうしたんだい?」
背中をさすりながら尋ねる。すると、妹の顔に一瞬、迷うような表情が浮かぶ。
言いたくないのなら言わなくてもいい。無理に聞きたいわけではないから。
このまま聞かずにいた方がいいのではないか。そう考えていると、妹が一通の封書を差し出してきた。
「……こちらを」
「これは……?」
困惑しながら受け取る。自分に渡したということは、中を読んでもいいのだろう。そう思って手紙を取り出す。そこに綴られていたのは、ロザリアからの手紙だった。
それは。
――アストリア王国の王太子妃として。そして、かつて帝国で生まれ育った者として、帝国の復興を可能な限り支援する。
要約すれば、そういった内容の手紙だった。
神聖ルミナリア帝国の皇帝として。そして、アレクシス・ルミナリアの妹として。腹が立っても仕方のない内容だと思う。
婚約者であった帝国の皇太子を罠にかけ、死に追いやった。その結果として戦争の発端を作った元凶が、まるで上から施しを与えるかのように帝国を支援すると言っている。
普段温厚で怒らないアリアンヌも、さすがにこれには腹を立てても無理はない。そう思える内容だった。
アレクシスは思わず妹の頭を撫でた。
「すまない。……読んで気持ちのいいものではなかっただろう」
「お兄様が謝る必要など、ありません」
すぐさま否定してくれる妹に、苦い思いを抱く。妹はそう言ってくれるが、申し訳ないという気持ちが消えることはない。
それにしても、と思う。
――ロザリアはこんな人間だっただろうか?
相手に何かを告げるときには、その言葉を聞いた相手がどう思うのか、相手の立場に立って考えるように。皇太子妃教育でも、そう教わってきたはずだ。
それなのに、よりにもよってアリアンヌにこんな手紙を送りつけきたことが信じられなかった。
「……この手紙はもらってもいいかい?」
「どうぞ、役立ててください」
妹の手元に、こんな手紙を置いておきたくない。そう思って尋ねると、アリアンヌは快く了承してくれた。
「ありがとう」
礼を告げ、手紙へと視線を落とす。
――それに、この手紙には使い道がある。
さて、どうしようか。
少しだけ考えて。
「……あちらから支援を申し出たんだ。むしり取れるところまで、むしり取ってやろう」
まあ、国民のために使うのが一番だろう。そうすることに決めた。それに、アリアンヌの心を乱した責任もとってもらわなくてはならない。アリアンヌを煩わせたのはロザリアなのだから。そう考えて、存分に利用させてもらうことにする。
その後、妹の様子がおかしいことに気づく。先ほどよりも熱が上がっている。
「ヘレネ。もう一度、医師に診てもらうように。熱が高くなっている」
「かしこまりました」
ヘレネに頼み、アレクシスはアリアンヌを見つめる。またそばを離れなければならない。それが申し訳なくてならなかった。けれどこの手紙を十分に活用するのは、早ければ早いほどいい。
だから。
「お休み、アリア」
早く良くなるように。
そう祈りながら、妹の部屋を後にした。
◇
あれから、アリアンヌはさらに寝込むことが増えてしまった。体調が悪い日がほとんで、一日をベッドで過ごすことが常になっている。
妹の負担にならないよう、できるだけ起きている時に顔を見に行き、眠っている間に執務を進める。そんな不規則な生活が続いていたが、妹のためならば、それを苦に思うこともなかった。
早く叔父に療養を終えて帝都へ戻ってきて欲しい。そう思ってはいるものの、あちらもかなりの重症だったこともあり、戻ってくるよう強く言うことはできないでいた。
そんな中、少し気になる噂が立つようになった。
今の皇帝はアシュフォード伯爵の傀儡になっている。アシュフォード伯爵が皇帝を操り、好き勝手に政治を動かしているのではないか。
そんな噂だった。中にはすでに皇帝は亡くなっており、アシュフォード伯爵がそれを隠して帝国を動かしているのだという、悪質なものまであるらしい。
本来ならばアシュフォード伯は家族と近隣の領地が穏やかに暮らせるのであれば、それだけでいい。そう考えている人だった。それなのに自分のためにわざわざ領地から帝都へ出て来てくれた。しかも、皇帝の執務室付きという重い役目まで背負わせてしまっている。
そんな人に、さらに悪評まで背負わせてしまったのだ。
「……すまない、アシュフォード伯」
噂を聞いて、アレクシスは思わずそう口にした。
「いえ、殿下。お気になさらないでください」
アシュフォード伯は慌てたように手を振る。
「私自身は、何も気にしておりません。それに、陛下の御身を案じてのことでもあるのでしょう」
そう言ってくれるものの、アシュフォード伯自身も、この流れがよくないことは分かっているのだろう。どうにか噂を打ち消そうと手を打ってはいる。けれど肝心の皇帝が、実際に人前へ姿を現すことがない。皇帝が健在であることを示すためにも、何らかの公務に出ていただく必要がある。だが、それをするだけの体力が、いまのアリアンヌにはもうないのだ。
皇帝が姿を現さないことが、かえって噂に信憑性を持たせてしまっていた。
「……どうしたものかな」
アレクシスは机の上に積まれた書類を眺めながら、小さく息を吐く。妹を守りたい。けれど、いまの状況が悪すぎる。
初代勇者と聖女の末裔である皇族が、皇帝という頂点に君臨することで、この国は統率を保ってきた。もし皇族ではない者がその頂点に立つことになれば、他国と同じように皇位を巡る継承問題や内乱を引き起こしてしまう可能性がある。しかし、今は戦後の復興を急がなければならない状況だ。そんな些細なことに構っている余裕はない。
そう思う一方で、貴族たちの考えも理解はできるのだ。皇族が頂点に立っているからこそ、彼らは皇帝に首を垂れ、従っている。
しかし、それが皇帝自身の意思ではないとしたら? 皇帝を傀儡にして、好き勝手に国を動かしている貴族がいるのだとしたら?
皇帝が姿を現さない今の状況では、そんな疑念を抱いてしまうのも無理はない。彼らの気持ちも、分かると言えば分かってしまうのだ。では、どうすればいいのか。一番いいのは、皇帝に姿を現してもらうことだろう。それが最も手っ取り早く、確実な方法であることくらいアレクシスにも分かっていた。
けれど。
――弱り切って、常に熱に浮かされている妹に、さらなる負担をかけたくない。
兄として、……止めたい気持ちの方が強かった。
噂を消すこともできないまま、日々、状況が悪くなっていく
そんな中で、アレクシスにとって最悪の事態が起きてしまった。
「議会に出ます」
妹が、そう言ったのだ。
「お兄様、二日後に議題に上がる政策について、教えていただけますか。できれば、質疑応答もある程度予想を立てていただけると助かります」
顔色を悪くしながら、それでもはっきりと告げる。妹のもとへ向かう途中、アシュフォード伯が強張った表情で自分に深く頭を下げていた。その意味を、今になって理解する。
おそらく、アシュフォード伯が妹に進言したのだろう。伯を責めるつもりはない。彼は彼で、あちこちから何か言われ続けて、もう限界だったのだろうと思うからだ。だからこそ、皇帝である妹自身に議会へ出てもらうしかないと考えたに違いない。
けれど、アレクシスとしては。
「そんな必要はない、アリア」
それだけは認めるわけにはいかなかった。やせ細った身体で議会へ出れば、それこそ命を削りに行くようなものだ。今の妹に、長時間の議論に耐えられるだけの体力があるとは思えない。だからこそ、止めったかった。
それなのに。
「いいえ。こればかりは譲れません」
妹は、真っ直ぐにアレクシスを見つめた。
「お兄様。お飾りとはいえ、皇帝はわたくしです。ならば、これ以上、臣下に好き勝手を言わせるのは、よくないのではないでしょうか」
その言葉に、アレクシスは何も返せなかった。
そこには上に立つ者として、皇族として。彼らに侮られないように、そして彼らを導ける存在でなくてはならない。そう教えてきた自分の言葉があった。妹の中に、しっかりととアレクシスの教えが根付いている。
――成長したのだ。心が、精神が。
かつては何もできず、ただ自分の背中を追いかけていた妹が。今は自分の立場を理解し、自分の意思で皇帝として立とうとしている。
それを、本来なら喜ばなければならない。嬉しく思わなければならない。兄として、それを誇りに思うべきなのだ。
けれどその成長が、結果として妹の命を縮めてしまうかもしれない。そう思うと、アレクシスは何も言えなかった。ただ、行き場のない感情を押し殺すように、強く拳を握り締める。その拳だけが、かすかに震えていた。
そして、結局。
「……分かった」
そう答えることしか、できなかった。
それから、二日後。
議会を終えた妹が、デイルに抱きかかえられて戻ってきた。顔色はひどく悪い。呼吸も早く、ヘレネの話によれば、呼吸音にもおかしな音が混じっていたという。
待機させていた、かつて自分の専属医だった医師にすぐさま妹を診てもらう。診察の結果、容体は思っていた以上に悪かった。このまま絶対安静を言い渡された。
――ああ、だから、止めさせたかったのに。
そう思ってしまう。けれど妹自身が皇帝として立つのだと告げたのだ。その意思を、自分が止めることはできないことも分かっていた。
「アレクシス様」
しばらくして、ヘレネが静かに口を開く。
「陛下は……、アリアンヌ様は、殿下に誇れる皇帝でありたいと。……そう、議員たちの前で仰っておりました」
「……そうか」
それ以上、何も言うことができなかった。
アレクシスは皆に退室を促す。
やがて部屋に残ったのは、眠るアリアンヌと自分だけになった。
「……馬鹿だな」
ぽつりと呟いた声は、自分でも分かるほど震えていた。
ベッドの傍らに腰を下ろし、妹の手を握る。小さな手は、とても熱かった。
「お前は、いつだって私にとって、誇れる妹であったのに……」
妹の指先を、自分の額へと当てる。そして、まるで懺悔をするように震える声で囁いた。
「……立派な皇帝になんて、ならなくてよかったのに」
褒めてやりたい。よく頑張ったと、誇らしく思っていると伝えてやりたい。けれど、今は素直に喜ぶことができなかった。
自分が教えたことを、妹は懸命に守ろうとしている。皇族として、皇帝として。自分に誇れる存在であろうとしている。それは、とても立派なことだと思う。
そう、思うのに――。
けれど、アレクシスが妹に望んでいたのは、そんなことではなかった。
――どうか、健やかに生きていてほしい。
昔から、ただそれだけを願ってきた。それだけでよかったのに。
立派な皇帝になど、ならなくてもいい。臣下に認められなくてもいい。誰かに誇れる存在にならなくてもいい。
――ただ、生きていてくれれば、それでいい。
それだけの、小さな願いだった。
それなのに、そんな小さな願いさえ、叶わない。
その現実が、ただ、辛かった。




