幼少期 ⑥
アレクシス視点の話です。
皇女宮の全権限を手に入れたアレクシスは、まず皇女宮の人員配置を見直した。これまで皇女宮に勤めていた侍女や侍従等は全員配置換え。別の場所に移動してもらうことにする。
当然、異を唱える者もいた。
「なぜ、私どもが配置換えに?」
そう尋ねられれば、アレクシスは静かに答えた。
「僕は皇太子です。けれど、その僕がこの皇女宮で暗殺されかけました」
それだけで、彼らの顔が強張る。実際にアレクシスは毒を盛られ、命を落としかけた。その後もしばらく床に伏せていた。そんな場所で、これまでと同じ人員を置き続ける理由などない。
けれどそれだけでは納得しない者もいた。そのため、アレクシスはもう一つの事実を突きつける。
「それに貴方たちが皇女である妹のことを、皇帝に愛されない憐れな子供だと嗤っていたことも知っています」
その言葉に空気が凍りつく。
「皇族侮辱罪で裁かれたいですか? それとも、能力不足による配置換えがいいですか? 僕はどちらでも構いません」
淡々と告げれば、彼らは一様に青ざめた。そしてそれ以上、異を唱える者はいなかった。
こうして皇女宮から人を入れ替え、代わりに皇太子宮から信頼のおける侍女や侍従を移した。新たに皇女宮へ仕えることになった者たちには、アレクシス自身が言い聞かせる。
「妹のことを一番に考えて、仕えてください」
それは命令だった。けれど同時に、願いでもあった。
その中でも、アレクシスが特に信頼している人物がいた。
「ヘレネ。君には、アリアンヌの専属侍女を頼みたい」
「……私が、皇女殿下のですか?」
驚いたように目を見開くヘレネに、アレクシスは頷く。ヘレネとは長い付き合いだ。
アレクシスが五歳、ヘレネが十四歳の頃。社会勉強の一環として、視察という名目で帝都を歩いていたアレクシスは貴族令嬢らしき少女を見かけた。けれど何かがおかしいと思ったのだ。顔色が悪く、ひどく痩せている。身につけているものも、その身分には到底相応しいとは思えない。しかし品のある所作は、貴族令嬢そのものだったのだ。
気になったアレクシスはそばにいた侍従に彼女について調べさせた。その結果、彼女は伯爵家の長女であり、母親を亡くした直後、父親が愛人を後妻として迎えていたことが分かった。そして、その後妻だけではなく、家族も使用人たちも前妻の娘である彼女を虐待していたのだ。
この報告を受け、アレクシスは彼女を放っておくことはできないと判断した。まずは少女にそれとなく使いを送り、これからどうしたいのかを尋ねた。保護が必要であれば自分が後ろ盾になることも伝える。やがて少女自身の口から、家から逃げたいという意思を聞き、それならばとアレクシスは彼女を保護することに決めた。
こうしてヘレネは一時的にではあるが、皇太子宮で保護され、そこで貴族令嬢として必要な教育を受けることになった。そして十五歳で学園へと入学し、十八歳で卒業。その後、ヘレネは自らの意思でアレクシスの臣下となることを選び、皇太子宮へ侍女として仕えるようになったのだ。
長い時間を共に過ごしてきたからこそ、アレクシスはヘレネを信頼していた。だからこそ、妹のことを任せたいと思ったのだ。
「お願いします。ヘレネ」
「……かしこまりました。誠心誠意お仕えさせていただきます」
そう一礼するヘレネに、アレクシスも小さく頷く。そして、アレクシスはヘレネに念を押した。
「それと、もう一つ。妹に食べ物や薬を渡す前には、必ず毒が入っていないか確認してください」
「はい」
「絶対にです。少しでも怪しいと思ったら、妹には渡さないでください」
「承知いたしました」
そのための教育は、皇太子宮で侍女をしていた頃からすでに受けさせていた。けれどそれだけでは足りない。今回のようなことが二度と起きないよう、アレクシスは皇女宮に毒物を調べるための専門の部屋も新たに設けることにした。
妹の口に入るものは、徹底して確認する。薬も、食事も、おやつも。自分ができる限りのことをして、妹を守る。それがアレクシスにとって当たり前のことになっていた。
けれどそれだけでは足りない。だから妹には護衛騎士をつけたほうがいいと考えた。そこで声をかけたのがデイルだった。
デイルについては、アレクシスが八歳の頃。鍛錬のため訓練場を訪れた際、傷だらけになっている若い騎士を見かけて声をかける。本人は自分の失敗だと答えたものの、アレクシスには嘘のように思えた。その後も彼の姿が気になったため、侍従に調べさせたところ彼はキュアリー子爵家の四男であり、庶子として認知されてはいるものの、正妻や兄弟たちから疎まれ、妨害を受けていることが分かった。
報告を受けたアレクシスは、本人が望むのであればその状況から抜け出す手助けをしようと考えた。そして本人に意思を確認したところ、家族との縁を切り、皇太子宮で働くことを望んでいると分かった。そのため、彼を迎え入れることにしたのである。
こうしてデイルは貴族籍を残したまま家族と縁を切り、皇太子宮の警備を務めることになったのだ。
「デイル。君にアリアンヌの護衛を任せたい」
そう告げると、デイルは驚いたように目を見開く。
「僕は、君なら安心して妹を任せられると思っている」
そう伝えれば、デイルはしばらく言葉を失ったあと、感激したように深く頭を下げた。
「この命に代えても、皇女殿下をお守りいたします」
「ありがとう」
アレクシスは素直に礼を告げる。そして妹とヘレネにデイルを紹介した。これで妹の側には自分が信頼する人間がいる。それでも、アレクシスは秘密をすべて明かすつもりはなかった。妹が聖女であることは、絶対に知られてはならない。
だからこそ、ヘレネとデイルが本当に信頼できる人間だと確信するまで数年の時間をかけた。
そして二人を心から信頼できると判断したとき、アレクシスは初めて妹の秘密を二人に明かす。
「アリアンヌは、聖女なんだ」
二人が驚く中、アレクシスは静かに続ける。
「もし何かあったときは、アリアを助けてほしい」
そして、何度も念を押す。
「このことは、絶対に誰にも知られてはいけない。そして、絶対に、その力を使わせないでほしい」
それだけは、繰り返し念入りに伝えた。
妹を守るためなら、自分が知っているすべてを信頼できる二人に託しておく。もし自分に何かあったとしても、この二人ならきっと妹を守ってくれる。そう信じていたからだ。
それから、人員配置を終えたあと、まだやることがあった。
アレクシスは皇太子宮の専属医に頼み、少しずつ毒への耐性をつけていきたいと相談したのである。
当然、十歳という幼いアレクシスの身体に負担がかかることを医師は懸念して首を横に振った。それでもアレクシスは必要なことだからと譲らない。必死に頼み込めば、医師も渋々ながら協力してくれることになった。
そうして少しずつではあるものの、アレクシスは毒への耐性を身につけていった。常に身体が怠くて重い。それでも、これは必要なことだからと受け入れた。妹を守るためなら、それくらいは耐えなければならないと思っていた。
そうしているうちに、いつの頃からか父は妹のもとへ訪れることがなくなった。
もう、父が皇女宮へ来たという知らせを聞いて、妹のもとへ駆けつけることはない。もう、妹が父に怒鳴られている姿を見ることもない。
そのことに、アレクシスは心の底から安堵した。
そして、あの日から。
父が自分に母の面影を重ねているのだと知った日から、アレクシスは父に向かって「父上」と呼べなくなっていた。本人のいないところでなら今まで通り呼ぶことができる。けれど父を目の前にして「父上」と呼ぼうとすると、どうしても声が出なかった。
父と呼ぶことを、身体が拒否しているのではないか。誰にも相談することはできなかったが、きっとそうなのだろと思っていた。だから、父のことを「陛下」と呼ぶようになった。突然呼び方を変えた自分のことを、父は訝しげに見ていたけれど。
「いつまでも子供ではいられませんから」
そう告げれば、父はそれ以上何も言わなかった。
だからそれ以降、アレクシスは父を「陛下」と呼んでいる。けれどその呼び方をするようになったアレクシスを見て、父は嬉しそうに笑う。
「そう呼んでいる姿を見ると、ナフェリエのようだな」
その言葉に思い出す。そういえば、母も父のことを「陛下」と呼んでいたことを。
そのことに気づいてからだった。父の視線が、以前にも増してまとわりつくようになったのは。
父の視線を感じるたびに、身体の奥から吐き気が込み上げてくる。頬や、耳や、しまいには唇にも父の指が触れてくるようになった。そのことに、拳を握って、ただ耐えることしか出来ないでいた。
父と顔を合わせたあとには、吐くことさえ増えていく。
……いつまで、こんな生活が続くのだろう。そう思うと、少し、泣きたくなった。
けれど、そんな日々も少しずつ変わっていく。
アレクシスが十三歳を過ぎた頃から、急激に背が伸び始めた。少年だった身体は、少しずつ大人のものへと変わっていく。それに伴うように、母に瓜二つだと言われていた顔立ちも、少しずつ変わっていったのだ。
そしていつしか、父が自分を見る目から、あの頃の熱が消えていった。冷めた皇帝としての目。それを自分にも向けられるようになる。
――父の狂気じみた愛情が薄れたことに安堵すればいいのか。それとも、妹を守るために利用できていたものが一つ失われたことを嘆けばいいのか。
アレクシスには、分からなかった。
ただ一つ、分かるのは。
……これからも、自分が妹を守らなければいけない。それだけだった。
少しずつ身体が大人へと近づいていくにつれて、父から向けられる視線も変わっていく。以前ほど母の面影を探すような目で見られることはなくなった。そのお陰もあり、父と顔を合わせても、あの頃のような嫌悪感を覚えることも減っていった。
そのことに安堵する一方で、ようやくアレクシスは自分自身のことを考える余裕を持てるようになった。
そして、ふと考える。
――ロザリアのことを、自分はどう思っているのだろう。
婚約者となってからもう何年も経つ。ロザリアは聡明で、優しく、何事にも真面目に向き合う女の子だった。幼い頃から交流を重ねてきたこともあり、彼女と過ごす時間を嫌だと思ったことは一度もない。
むしろロザリアといると穏やかな気持ちになれた。けれど、それが男女の間にある恋愛感情なのかと問われれば、アレクシスには分からない。
女性としてロザリアを見ているのか。彼女に恋をしているのか。そう問われても、どうにも実感が湧かない。それどころか、父を見てきたせいだろうか。
異性を愛するということそのものに、どこか嫌悪感を覚えるようになっていた。
愛する相手に執着し、その面影を別の誰かに重ねること。その相手を、自分の欲するままに見つめ、触れること。父の姿を思い出すたびに、胸の奥に嫌なものが広がる。
――あれが、男女の愛なのだろうか。
そう思うと、どうしても気持ちが悪いとしか思えなかった。だから、もしかしたら自分には異性を愛することができないのかもしれない。そう思った。
けれどロザリアといることは嫌ではない。彼女が笑っていると嬉しいと思う。困っていれば力になりたいと思う。自分の傍にいてくれることを、ありがたいと思う。そして何より、ロザリアが自分の家族になってくれることを嬉しいと思っていた。
――家族。
その言葉を思い浮かべれば、不思議と胸の奥が温かくなる。
妹のアリアンヌを愛している。母も愛していた。ヘレネやデイルのことも、大切に思っている。そこにある感情なら、アレクシスにも分かる。
守りたい。大切にしたい。幸せでいてほしい。それが、自分にとっての愛だった。
だからきっとロザリアに対しても同じなのだ。彼女は自分の家族になる人。だから大切にしたい。女性として愛するということは、まだよく分からない。女性として愛せるかも、正直なところ自信がない。
けれど。
――家族への愛なら、分かる。
それだけは、アレクシスにも分かる確かなことだった。




