幼少期 ⑤
アレクシス視点の話です。
次に目を覚ましたとき、アレクシスは皇太子宮の自室にあるベッドに寝かされていた。
辺りは暗い。窓の外も真っ暗だ。どうやらもう夜になっているらしい。身体にはまだ熱さや怠さが残っていたものの、痛みや痺れは消えている。おそらく解毒剤で処置されたのだろう。
アレクシスはゆっくりと身体を起こす。一人きりの静かな部屋。そこでようやく昼間の出来事を振り返る。
あの時、頭の中にとぎれとぎれの声がした。女性の声だった。この世のものとは思えない、どこか畏れを抱かせるような、不思議な声。きっと、あれはこの世界を創生したと伝えられている愛の女神なのだろう。なぜそう思うのかは分からない。けれど、なぜかそれが分かってしまったのだ。
理解をしたのではない。本能でそういうものだと悟った。
自分が、勇者の生まれ変わりであること。女神の加護を持つ者であること。
そして。
――僕が、女神の愛し子だった……。
そのことを理解した瞬間、もう一つのことにも気づいてしまった。
だからこそ、妹が。
――アリアンヌが、聖女になってしまった。
そのことを、誰に教えらたわけでもないけれど、感覚としてそういうものだと理解してしまった。
アレクシスは今まで教えられてきた神話を思い返す。この国に伝わる神話では、こう語られている。
『女性は、愛された証である聖なる力が発現した聖女でした』
そう伝わっていた。
聖女は女神に愛された証として、聖なる力を授かった。皆、そう思っている。アレクシスもそう思っていた。けれど違った。本当は違ったのだ。
正しくは。
『女性は勇者に愛された証として、聖なる力が発現した』
始まりは、勇者だったのだ。女神が勇者に加護を与え。そして、勇者が愛した女性に、女神が聖なる力を与えた。
女神がその女性を愛したからではない。勇者が愛した女性だったから。それだけの理由で、女神は彼女に力を与えたのだ。
そこまで理解して、アレクシスは愕然とした。
――僕のせいで、アリアが、聖女になってしまった。
あの、身体の弱い妹が。
その事実は、アレクシスにとって絶望そのものだった。
もし、父が妹のことを聖女だと知ったら。きっと妹は皇女宮から出されてしまう。厄介払いをするように教会へ渡されるに違いない。そうなれば身体の弱い妹が生きていけるとは思えなかった。
皇女宮よりも恵まれない環境。さらに自分たちの利権を広げることばかり考えている神官たちに、妹は利用されるかもしれない。そして国のために聖女として働けと命じるだろう父。
そんな場所で妹がどう扱われるかなど火を見るより明らかだ。良いように利用され、無理をさせられて。
そしてまだ幼いうちに――。
そこまで考えて、アレクシスは強く首を振る。そんな未来だけは、絶対に避けなければならない。
――アリアンヌに。愛する妹を、そんな目に合わせたくない。
妹を守る。それは昔から決めていたことだった。母との約束でもあった。
けれど今度は、それだけでは足りない。もっと。もっともっと、厳重に守らなければならない。妹が聖女だと知られてはいけない。絶対に、何としてでも隠し通さなくてはならない。
妹を守るためなら、自分にできることなら、どんなことでもしよう。そう、決意する。
そして、ふと別の考えが浮かぶ。
もし……。
もしも、他に聖女が現れたなら。
妹は、聖女ではないと思わせることができるのではないだろうか。そうすれば妹は隠れていられる。聖女として求められることもない。皇女宮で今までと同じように暮らしていける。
それなら、誰かが聖女になればいい。そう考えた。
けれど聖女になった者が妹の代わりに苦しむことになるかもしれない。そう考えると胸が痛む。ならば自分の良心が痛まないような女性ならどうだろう。偽りの聖女として利用することになっても、そのことで心を痛めずに済むような人なら。そんな人が聖女になればいい。
それが妹を守るための一番良い方法なのではないか。このときのアレクシスには、それが最善の方法に思えた。だから女神に祈った。自分の妹を守るために。
――どうか、妹の代わりになれる聖女を与えてください。
その女性が利用されても、自分の良心が痛まないような人でありますように。そう願った。
自分本位の願いだとは分かっている。けれど聖女という立場は、望む人からすれば喉から手が出るほどに欲しいものであることも確かだった。
だからアレクシスにも、聖女となる女性にも、これでよかったと思えるような。そんな人が選ばれるといい。そう、心の底からアレクシスは願った。
それはまだ幼いアレクシスなりに、真剣に考えた末の願いだった。
そしてこの願いが、のちに自分の首を絞めることになる。
それを、このときのアレクシスはまだ知らなかった。
◇
翌朝、目を覚ましたアレクシスは皇太子宮の専属医の診察を受けた。
熱が出ているものの、それ以外に目立った症状はない。毒はすでに抜けつつあり、あとは身体の免疫力と体力が回復すれば問題ないだろう。そう医師は告げた。
「しばらくは安静にしていてください。まだ身体が本調子ではありませんから」
そう言われても、気がかりなのは妹のことだった。
最後に見た妹は、真っ青な顔をして倒れていた。あのあと大丈夫だったのだろうか。すぐにでも会いに行きたい。けれど身体を起こそうとするだけでひどく怠く、熱のせいか頭も重い。今の自分では妹のもとへ行くことすらできない。それが何よりも悔しかった。自分が不甲斐なく思えて、アレクシスは小さく息を吐いた。
しばらくして、熱に浮かされるようにうつらうつらしていると部屋の扉が開く。
入ってきたのは父だった。滅多に皇太子宮を訪れることのない父を見て、アレクシスは起き上がろうとする。
けれど、それより先に。
「そのままでよい」
そう言われた。
父がここへ来るなど珍しい。一体何の用なのだろう。
ぼんやりと父を見上げていると、皇女宮で起きた皇太子暗殺未遂について、皇帝直属で調査を行うことになったことを告げられた。犯人が見つかるまでは、皇太子宮から出ないように。そう言われた。
妹のことを尋ねたかったけれど、聞くことはできない。父に妹のことを尋ねれば、また妹に厳しく当たるのではないか。そんな不安が胸をよぎったからだ。
熱でぼんやりとする頭のまま、父を見上げる。すると不意に父の手が伸びてきた。また、頬に触れられる。
そして。
「……そうして臥せっていると、本当にナフェリエに似ている」
小さく呟かれた言葉に、アレクシスは目を見開く。
頬を撫でていた手が、そのまま首筋へと下りてくる。ぞくりとして、吐き気が込み上げてきた。
――気持ちが悪い。
けれど、それを顔に出してはいけない。なぜだか、そう思った。
ただ、父が立ち去るのを待つ。
首を掴まれるような形で、父の掌が肌の上に置かれている。そのことが、どうしようもないほど気持ちが悪かった。
やがて、ようやく父は手を離して部屋を出て行く。
「安静にしていろ」
最後にそう告げた声は、心配しているようには聞こえなかった。
扉が閉まる。その音を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れた。重い身体を引きずるようにして起き上がる。
――気持ちが、悪い……。
けれど洗面室まで行くほどの体力はない。何とか洗面器の置かれているところまで辿り着くと、アレクシスは胃の中のものを吐き出す。吐き終えても、気持ち悪さは消えなかった。
頬も、首筋も。父に触れられたところが、いつまでも嫌な感触を残しているような気がした。触れられたところを洗いたい。どうにかしたかった。けれど自分一人ではどうすることもできない。アレクシスは傍らに置かれていた鈴へと手を伸ばし、力なく鳴らす。
ほどなくして、扉が開いた。
「殿下……!」
駆け込んできたのは侍女のヘレネだった。アレクシスの姿を見るなり、ヘレネの顔が真っ青になる。そしてすぐに医師を呼ぶよう他の侍女へ指示を出す。
けれど、それよりも先に。
「ヘレネ……」
縋るように彼女を見上げる。
「お願い、身体を、拭いて欲しい……。きもちが、悪いんだ……」
父に触れられたところが、どうしても気持ち悪かった。本当なら、身体を洗ってしまいたい。けれどそんな体力が残っていないことは自分でも分かっていた。だから、今はヘレネにそう頼むしかない。
「……かしこまりました」
ヘレネはそのことについて何も尋ねなかった。ただ、アレクシスの身体を優しく拭いてくれる。
その後、駆けつけた医師の診察を受けると、毒の影響と無理に身体を動かしたことが重なり、容体が悪化していることが分かった。安静にしていなければならない期間も予定より長くなってしまう。
妹に会えない。そのことが悲しかった。
◇
それからしばらくして、犯人が捕まったという知らせが届いた。
けれど聞かされた犯人の素性は、アレクシスが知る限りでは聞き覚えのない人物で。動機についても、どうにも釈然としない曖昧なものだった。
それでも犯人が捕まったのなら妹はもう大丈夫なのだろう。そう考えたアレクシスは、皇太子宮からの外出が許可されるなり、すぐさま皇女宮へ向かった。妹に会うのは実に二週間ぶりとなる。
部屋に入ったアレクシスの姿を見つけると、妹はぱっと顔を輝かせた。けれどすぐに泣きそうな顔になって駆け寄ってくる。
「お兄さま!」
「アリア、走ったらまた具合が悪くなってしまうよ」
そう言いながら、アレクシスは駆け寄ってきた妹を抱き上げる。
「来られなくて、ごめんね」
そう告げると、妹は小さく首を横に振った。
「お兄さまが、またきてくれただけで嬉しいです」
その言葉を聞いて、アレクシスは胸が痛くなる。まだ幼いのに、自分に会いたいと我が儘を言うことすらしない。会いたかったはずなのに。寂しかったはずなのに。それを口にすることさえ妹は我慢をしている。こんな小さな子に、我慢をさせていることが悲しかった。
妹としばらく過ごしたあと、アレクシスは皇太子宮へ戻っていく。そして改めて今回の事件について考える。
犯人は捕まった。けれど、どうにも腑に落ちないのだ。だからアレクシスはこの件を独自に調べてみることにした。
そうして調べてみたが、やはり不審な点は何一つ見つからない。証拠も、証言も、犯人へと繋がるものも。まるで最初から何も残されていなかったかのように、綺麗に消されている。
それなのに、犯人だけは見つかった。
――おかしい。
幼いながらも、そう思ってしまう。
これほどまでに痕跡を消しておきながら、犯人を特定できたことが異常に思える。まるで最初から犯人が分かっていたかのように犯人だけに狙いを定め、証拠を暴き、捕らえていた。あまりにも出来過ぎている状況に、ふと頭に浮かんだ人物がいる。
――父上……。
もしかしたら、と考えた。皇帝である父が、本当の犯人だとしたら。ならば、これほど完璧に見える調査を行うこともできるのではないか。そう思ってしまう。それだけ、一見すると完璧な調査だったのだ。
こんなことができるのは皇帝である父しかない。そうアレクシスが思ってしまうほど、犯人だけに狙いを済ませた、特定して行われた調査だった。
皇帝である父が黒幕だとしたら。そう考えると、次々と疑問が湧いてきた。
そもそも、あのプリンに違和感を覚えたのは自分だった。
妹のものと自分のものを入れ替えたのもアレクシスだ。もし、あのとき入れ替えていなかったら、毒入りのプリンを食べていたのは妹だった。
その事実に気付いた瞬間、アレクシスの背筋が冷たくなる。
――父が、妹を殺そうとした。
そう考えれば、すべての辻褄が合う気がした。
妹を憎んでいる父。何度も妹を罵倒する父。そして今回の毒殺未遂。考えれば考えるほど、疑念は確信へと近づいていく。
アレクシスの中で、ふつふつとした怒りが湧き上がる。父が妹を殺そうとしているのかもしれない。もし本当にそうなのだとしたら、それは決して許されることではない。それは、本来ならばあってはならない子殺しの罪だ。
――アリアンヌは、何も悪くない。
ただ、生まれてきただけの子供だ。
それなのに、その妹を殺そうとする父を許すことはできないと思った。実の娘を殺そうとする人間を、父親だからという理由だけで許す必要があるのだろうか。むしろ父親だからこそ、守るべき娘に刃を向けるのなら許してはいけないのではないか。そう思った。
けれど今のアレクシスには父をどうにかする力などない。皇帝である父に逆らうことも、妹を守るために父を排除することもできない。
ならば、自分はもっと強くならなければならない。もっと賢くならなければならない。いつか自分の力で妹を守れるように。
アレクシスは小さく息を吸う。
「……守らないと。絶対に」
アレクシスは小さく呟く。
その瞳は、今まで以上に強い覚悟が宿っていた。
◇
あれから、何度か父が皇太子宮を訪れるようになった。
「調子はどうだ」
そう尋ねられれば、アレクシスは素直に答える。
「もう大丈夫です」
そう告げた途端、父の顔が僅かに曇った。なぜそんな顔をするのだろう。疑問に思っていると、父はアレクシスの顔をじっと見つめたまま、小さく呟いた。
「……臥せっているときのほうが、ナフェリエによく似ていたな」
その言葉を聞いた瞬間、アレクシスは理解した。
父は自分を見ているのではない。自分の中に、母の面影を見ているのだと。母に似ているから、笑う。母に似ているから、触れる。あくまでも自分は、父にとって母の代わりでしかないのだ。そう悟ってしまう。
そしてそのことを知り、父に明確な嫌悪を持つ。気持ちが悪い。そう感じた気持ちは、これなのだろうと。
けれど。
――利用できるものがあるなら、利用しなければ。
そう考えた。そうしなければ妹を守ることができない。そのことをアレクシスは知っているからだ。
だから、母のように笑ってみせる。母の笑顔ならアレクシスもよく見ていた。幼い頃から、笑うたびに「皇后陛下にそっくりですね」と言われていた。
だから。
母に似ていると言われる顔で、父に微笑みかける。
そして、静かに告げた。
「父上。皇女宮の全権限を、僕にくださいませんか?」
「……皇女宮の?」
「はい」
自分が暗殺されかけたことで、皇女宮の警備にも不安を感じるようになったこと。自分も頻繁に足を運ぶ場所だからこそ、皇女宮の守りを固めたいこと。
そう説明する。決して妹のためだとは言わない。
――妹を守りたいから。
そんなことを言えば、父は決して頷かない。だから、あくまでも自分自身のためだと告げておく。
父は渋い顔をしていた。しばらくの間、アレクシスの顔をじっと見つめる。
しかし、やがて父が小さく息を吐く。
「……好きにせよ」
「ありがとうございます」
頷くアレクシスを見て、父はさらに続けた。
「ただし、医師だけは変えるな」
「はい」
それだけを告げると、父はアレクシスの頬を一度だけ撫でた。身体が強張る。けれど笑顔は崩さなかった。
そのまま父が部屋を出ていき、扉が閉まった。
その直後。
アレクシスは弾かれたように洗面室へ駆け込んだ。口元を押さえ、洗面台に胃の中のものを吐き出す。
気持ちが悪い。頬に触れられた感触が、いつまでも残っているようだった。
――自分から母に似せた笑みを浮かべた。父が母の面影を自分に重ねていると知り、それを利用した。
そうでもしなければ、妹を守ることができないから。
妹を守るために、そんなことまでしなければならないのか。そう思うけれど、自分には何の力もない。父に逆らうことはできない。父の許しがなければ、妹を守ることさえできない。そのことが悔しくて、惨めで。
あまりの無力さに、アレクシスは洗面台に縋ったまま、泣きたくなった。




