幼少期 ④
アレクシス視点の話です。
それからも、アレクシスは皇太子として学び、鍛錬に励み、婚約者との交流を重ねていた。そんな変わらない日々を過ごしていく。
その中で、アレクシスは毎日欠かさず妹のもとを訪れた。ほんの少しの短い時間でも、アレクシスは必ず妹へ会いに行っている。妹のためだけではなく、アレクシス自身も妹に会いたかったから。妹の笑顔を見るだけで心が安らぐ。だからどんなに忙しくても会いに行っていた。
けれどそんな日々の中で、父が思い出したように皇女宮を訪れることがあった。そのため、皇女宮に勤める者たちには父が妹のもとを訪れた際には必ず自分へ知らせるように頼んでいた。
だからこの日も知らせを受けたアレクシスは、急いで妹のもとへ駆けつけたのだ。
そして、部屋へ入った瞬間。
「お前が! お前が、余のナフェリエを殺したのだ!!」
父の怒鳴り声が響いている。
そこには、二歳になった妹をすごい剣幕で怒鳴りつけている父の姿があった。
「お前さえいなければ、ナフェリエは――っ!」
妹は何を言われているのかも分かってはいないだろう。ただ、必死に泣き声を上げている。
「父上!」
気が付けば、アレクシスは父の手を引いていた。本来ならば、息子であろうと皇帝の身体に許可なく触れることは許されない。けれど、あのままでは父が妹に手を出すのではないか。妹がぶたれるのではないか。そう思った瞬間には、身体が勝手に動いていた。
「誰が勝手に余に触れて良いと許可を出した!」
父が怒りの形相でアレクシスを睨みつけ、掴まれた手を乱暴に振り払う。そして、そのまま手を振り上げた。
――殴られる。
そう思った。けれど、振り上げられた手はそのまま止まっていた。
父が驚いたような顔をしている。目の前にいるのがアレクシスだと気づいたのだろう。しばらく、父は手を上げたまま動かなかった。
やがてゆっくりとその手が下ろされる。けれどその手は完全下ろされることはなく、いつかのあの時と同じようにアレクシスの頬へと添えられた。
「……父上?」
戸惑いつつ呼びかけても、父は何も答えなかった。
ただ、頬を撫でている。その手が、気持ちが悪かった。
逃げたい。そう思うのに身体が動かない。
そのまま目元まで撫でられて、どうすればいいのか分からなかった。
ただ、父を見上げて反応を窺うことしか出来ずにいた。
「……なぜ、ここに来た」
やがて静かな声が落ちてきた。
「妹に会いに来たのです」
そう答える。
「……そうか」
父はそれだけを告げた。
じっと見つめられている。その視線が居心地悪くて仕方がない。それでも、これだけは告げなければならないと意を決して口を開く。
「あの、父上……。お願いです、あの子には、……アリアンヌのことは、放っておいて、あげてくれませんか……」
もう、可愛がってあげて欲しいとも、愛してあげて欲しいとも言うつもりはない。そんな段階はとっくに過ぎてしまっている。先ほどの父の姿を見ていれば、それくらいのことは分かった。ならば、せめてそっとしておいて欲しい。
アレクシスの言葉を聞くと、父は小さく息を吐く。そして、頬を撫でていた手をゆっくりと引いた。それから何も言わず、父は部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静かになった部屋に、妹の泣き声だけが響いていた。
「………………」
足から力が抜けて、思わずその場に座り込んだ。
なぜだか分からない。けれど心臓がどきどきしていた。頬も、目元も。父に撫でられたところが、ひどく気持ちが悪い。まるで虫が這っていたような気持ち悪さだった。
無意識に頬へ手を当てて、その感触を拭うように何度も擦った。それでも気持ち悪さは消えずにいた。
――アリアンヌが、泣いている。
すぐに抱き上げてあげたい。いつもならそうする。けれど今は、この手で妹に触れることすら何だか嫌だった。そんな自分が嫌になって、小さく息を吐く。
「ごめんね。ちょっと待っててね」
泣いている妹へそう告げる。
それから駆け足で部屋を出た。まずは、手と顔を洗いたい。この気持ち悪さを少しでも洗い流したかった。
◇
父が皇女宮を訪れることは、その後も度々あった。
そのたびに父は妹を罵倒する。そしてその知らせを受けたアレクシスが駆けつけ、何度も「やめてほしい」と訴えた。
そんなことを何度繰り返したか分からない。幸いなことに、アレクシスが必死になって止めているからか、今のところ妹が父に手を上げられたことはなかった。そのことだけは本当に良かったと思っている。
けれど、父に触れられることだけは何度繰り返しても慣れることはない。父はアレクシスの顔を見つめたまま、度々触れてきた。頬を撫で、顔の輪郭をなぞるように指を滑らせていく。そのたびに、身体の奥からぞわりとした嫌悪が湧き上がった。気持ちが悪くて仕方がない。それでも、妹を守るためなら我慢するしかなかった。
そんな日々を過ごしていた、ある日のことだった。
その日も、アレクシスは妹と一緒におやつを食べていた。
いつもと同じ部屋、同じ机、そして同じ侍女。侍女が配膳を済ませて部屋を出ていけば、妹と二人きりになる。これもいつものこと。
けれど、なぜだかやけに違和感がある。胸騒ぎがすると言った方が正しいのかもしれない。そんなアレクシスの気持ちなど知る由もなく、妹は楽しそうに話しかけてくる。その姿を微笑ましく思いながら、アレクシスはふと、妹の前に置かれたプリンへ目を向けた。そして、何となく。本当に、何となく、自分のものと妹のプリンを入れ替えた。
入れ替えられたプリンに気付くことなく、妹はプリンを食べる。美味しそうに食べる様子に、心のどこかでほっとする自分がいた。そして、楽しそうに話す妹の様子を見ながら、自分の前に置いたプリンを口へ運ぶ。
最初は、何も思わなかった。
ただ。
「…………?」
何だか、やけにカラメルソースが苦いなと思った。いつも食べているものとは、少し違う気がした。けれど、それだけだった。
そう思って、飲み込んだ。
――その数秒後。
「…………っ」
違和感は、決定的なものとなった。
喉の奥が焼けるように熱くて痛い。何が起きたのか分からなかった。咄嗟に口元を押さえると、指の隙間から赤いものが零れ落ちていく。
「……な、に……」
声が出ない。視界が大きく揺れた。
身体から力が抜け、椅子に座っていることすらできなくなる。そのまま、床へと転げ落ちた。
「お兄さま……?」
妹の驚いた声が聞こえる。
何か言わなければ。大丈夫だと、そう伝えてあげなければ。そう思うのに、声が出ない。
ただ、熱くて。
喉が痛くて、身体も痺れて、目が、頭が、ぐるぐると回って――。
「お兄さま……! お兄さま……!」
必死に自分を呼んでいるのだろう、妹の声がする。けれど、その声も少しずつ遠くなっていく。
――ああ、これは不味いことになった。
そう、この時になってようやく自覚する。焼け付く喉、動かない身体、霞む意識。このままいけば、自分は死ぬことになる。そう、悟ってしまう。
けれど、それは駄目だと思った。こんなところで、死ぬわけにはいかない。
――ぼくがここで死んだら、アリアは……。
そこまで考えて、強く思う。
死ねない。絶対に、死ねない、と。
それなのに、段々と意識が薄れていく。握られている手を、握り返してあげたい。大丈夫だと、声をかけてあげたい。けれど、指一本動かせない。声も出ない。
妹の顔が、見えなくなっていく。そのまま、何もできなくなっていく。置いて逝きたくないと、そう思うのに。
自分が死んだら、誰が妹を守るのだろう。独裁国家で、絶対的な権力を持つ父である皇帝から、妹を守ってくれる人などいるのだろうか。
――そんなものは、いない。
そう、断言できる。
今までアレクシス以外、アリアンヌを庇ってくれる人は誰もいなかった。それが何よりの証拠だった。だから、自分が倒れてはいけない。そう分かっている。
それなのに。
意識が、どんどん遠のいていく。妹の声も、妹の顔も、もう、ほとんど分からない。
――このままでは、愛する妹を一人にしてしまう。
そう思うと、とても、怖かった。
――誰か。
――誰でも、いいから。妹を、助けて。
そう、強く願った。
その瞬間。
≪ ――……こ……い…、妹……力を……… ≫
そう、頭の中に声が響いた。
何を告げているのかは分からない。けれどその声が響いた直後、温かな光がアレクシスを包み込む。それはまるで、身体の奥まで染み込んでくるような優しい光だった。
そして苦しかった呼吸が少しずつ楽になっていく。焼けるようだった喉の痛みが、ゆっくりと引いていった。痺れていた身体にも少しずつ感覚が戻ってくる。
何が起きているのか、アレクシスには分からない。気が付けば、苦しみが和らいでいた。
アレクシスが目を開けると、泣きじゃくった妹が自分に縋りついている。その顔色は酷く悪い。一体、何があったのだろう。そうと思ったところで、少し思い当たることがあった。
――聖女の力……。
そう思った。死に瀕した自分を救う治癒の魔法など、それくらいしか思い当たらない。けれど今はそれどころではなくて。泣いている妹を宥めなければならない。
そして、その力について。
――口止めを、しなければなかった。
あの光のことを、誰にも知られてはいけない。もしも知られてしまえば、妹の命にまで係わる問題になってしまう恐れがある。だから妹には、絶対にその力のことを誰にも話してはいけないと固く約束させた。
その直後、妹は意識を失ってしまう。真っ青な顔をして、身体もひどく冷たかった。
「……アリア!」
掠れた声で叫びながら、慌てて妹を抱き上げようとする。けれど自分の身体もまだ毒に蝕まれているのか、思うように動かない。それに、血で汚れた自分の手で、これ以上妹に触れるわけにもいかなかった。
仕方がないので、なんとか身体を動かし、テーブルの上に置かれていた呼び鈴へ手を伸ばす。指先が震える。それでもどうにかベルを掴み、力を振り絞ってベルを鳴らした。
やがて侍女たちが駆け込んできて、そこから先は当然のように大騒ぎになった。侍女たちの悲鳴、慌ただしく駆け回る人々。
ほどなくして医師が駆けつける。アレクシスはそれを見届けた。
――これでアリアは、ひとまず大丈夫なはず。
そう思った瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
そしてアレクシスの意識は、再び闇へと落ちていった。




