幼少期 ③
アレクシス視点の話です。
アレクシスは七歳になった。
その日もいつものように妹の様子を見に皇女宮へ向かっていた。
けれど部屋へ入ったアレクシスは足を止める。
「お前がナフェリエを殺したのだ!」
父が妹を罵っていた。寝台に横たわる、まだ何も分からないほど小さな妹に向かって。
まただ、と思う。胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「父上」
アレクシスが声をかけると、父が振り返る。その顔には怒りが浮かんでいたけれど、アレクシスを見るとその表情がわずかに変わった。怒りが消えていき、そして、奇妙な沈黙が落ちた。
父は何も言わず、アレクシスの顔を見つめている。まるで、アレクシスではない誰かを見ているようだった。その視線が怖くて、アレクシスはそれ以上父を怒らせないよう、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「母上を亡くして悲しいのは分かります。僕も……、悲しいです。けれど、僕にとってこの子は可愛い妹です」
アレクシスは妹の寝ている寝台を背にし、父と妹の間に立つ。
父は何も言わない。何も言わず、じっとアレクシスの顔を見つめていた。
「だから……、お願いします。妹を責めないでください」
沈黙が落ちる。
そして、長い沈黙のあと、父がぽつりと呟く。
「……そうか」
それだけだった。けれど父は、アレクシスから目を逸らさない。父はそのまま、また黙り込んでアレクシスを見つめていた。アレクシスもそれ以上は何も言わなかった。
しばらくして、父から思いもよらない話をされた。
「……お前の婚約が決まった」
「婚約、ですか?」
突然の話に、アレクシスは目を瞬く。
なぜ今、その話をするのだろう。不思議に思ったけれど、父が話しているのだからとアレクシスは父の目を見て黙って話を聞いていた。
父が婚約相手を告げる。婚約者はヴァレンティア公爵令嬢らしい。
「余としては、別の家の令嬢を考えていたが……」
父の話によれば、ヴァレンティア公爵から強い申し入れがあったらしい。皇帝としては、皇族との繋がりを持つ相手として他家の令嬢を考えていた。けれどヴァレンティア公爵家を避けなければならない理由もない。ならば公爵からの申し入れを受けても問題はないだろう。そう判断して婚約が決まったらしい。
「臣下とはいえ、筆頭公爵家の娘だ。失礼のないようにしろ」
「はい」
アレクシスは素直に頷く。すると、また父の視線を感じた。じっと見られている。けれどその目はアレクシスを見ているようで、アレクシスを見ていない。どこか遠くを見ているような。まるで、そこに別の誰かがいるかのような、そんな感じの目をしていた。
「父上……?」
父が近づいてきて、アレクシスは反射的に身を固くした。
父の手が伸びる。
そして、その指先が頬に触れた。
「…………!」
驚きに目を見開く。父が自分に触れたのは初めてだった。けれど嬉しいとは思わない。むしろ、ぞくりとした。
父は何も告げず、ただアレクシスの頬をゆっくりと撫でている。その目は、ひどく優しかった。いつもの父からは想像もできないほどに。
その優しい目が、自分ではない誰かに向けられているように思えた。
「…………」
父がかすかに何かを呟く。呟いたのは、……母の名前だった。
それを聞いて、身体が強張る。父の目には、自分が映っている。それなのに、その声は、その目は、まるでそこにいない母へ向けられているようだった。
やがて父自身も、自分が何をしているのか気づいたのだろう。はっとしたように目を見開いて、アレクシスから手を離した。
「…………」
父は何も言わなかった。ただ一度、アレクシスの顔を見て、それから踵を返す。アレクシスはその背中を呆然と見つめていた。
父が出ていき、扉が閉まる。
部屋に静寂が戻った。
それでも、アレクシスはしばらく動けなかった。初めて、父に触れられた。それなのに、どうしてだろう。
なんだか、とても気持ちが悪かった。
◇
それからしばらくして。
婚約者となる令嬢との顔合わせの日がやってきた。
侍従に案内された部屋で、アレクシスはヴァレンティア公爵家の到着を待っていた。
やがて扉が開く。
「ヴァレンティア公爵家がご到着いたしました」
入ってきたのは両親と思しき男女と一人の少女だった。
大人たちが礼を取る傍らで、少女だけが動かない。赤い髪、紫色の少し釣り上がった瞳。可愛らしい顔立ちをした令嬢だった。
けれど、なぜかアレクシスを見て固まっている。
「……ロザリア・ヴァレンティア公爵令嬢ですね?」
「は、はいっ!」
アレクシスが声をかけると、少女ははっと我に返ったように慌てて背筋を伸ばす。
「ヴァレンティア公爵家の長女、ロザリアと申します。お目にかかれて光栄に存じます」
「初めまして、ロザリア嬢。僕は神聖ルミナリア帝国皇太子、アレクシス・ルミナリアです。貴女にお会いできるのを楽しみにしておりました」
そう言って、アレクシスは微笑んだ。
きちんと躾を受けているのだろう。緊張している様子はあるものの、言葉遣いも立ち居振る舞いも丁寧だ。少なくとも、アレクシスがロザリアに悪感情を抱く理由はなかった。
その日は挨拶を交わしたあと、庭園を案内した。ロザリアは最初こそ緊張していたものの、庭園の花を見ているうちに少しずつ表情を和らげていく。アレクシスもそんな彼女の様子を眺めながら、これから少しずつ交流を深めていけばいいのだろうと思った。
こうして、二人の婚約者としての交流が始まった。
それから、半年後。
アレクシスとロザリアは順調に交流を重ねていた。
ロザリアはアレクシスのことを「皇太子殿下」と呼んでいる。アレクシスが名前を呼ぶ許しを与えていなかったからだ。けれどこの半年間、ロザリアの様子を見てきた限り、皇族の婚約者となったことを鼻にかけるような様子は見られなかった。それならば、もう少し親しく接しても良いのではないか。そう考えたアレクシスは、ロザリアに自分の名前を呼ぶ許しを与えることにした。
「僕たちは婚約者なのですから、もう少し気楽に話してもいいのではありませんか?」
「え……?」
ロザリアが目を瞬かせる。
「それに、いつまでも『皇太子殿下』と呼ばれるのは、少し寂しいです」
「……寂しい?」
「はい。ロザリア嬢は、僕の婚約者でしょう?」
そう言って、少しだけ笑う。
「ですから、僕のことはアレクシスと呼んでください」
「……アレクシス様、と」
「はい」
「お呼びしても、よろしいのですか?」
「もちろんです」
アレクシスが頷くと、ロザリアの頬がみるみる赤くなっていく。
「……アレクシス様」
「はい」
返事をすると、なぜかロザリアの顔がさらに赤くなった。そのことを不思議に思いながらも尋ねる。
「僕も、貴女のことをロザリアと呼んでも構いませんか?」
「は、はいっ! もちろんですっ」
「ありがとう、ロザリア」
「…………っ」
少しくだけた口調で改めてその名を呼ぶ。ロザリアはまた顔を赤くした。どうしてそんなに顔が赤くなるのだろう。アレクシスにはよく分からない。けれど名前で呼び合えるようになったことで、以前よりも少し距離が縮まったように感じた。
ならば、もう少し近づいてみよう。ロザリアがどんな反応をするのか。何を喜び、何を嫌がるのか。婚約者として、これから長く付き合っていく相手なのだから。アレクシスはそんなことを考えながらロザリアを見つめていた。
それから、ロザリアと婚約して一年が経った。
この一年間、ロザリアと交流を重ねてきた。
礼儀正しく、真面目で、何より人に対して誠実な少女だった。これならば妹に会わせても大丈夫なのではないか。そう思ったアレクシスは、ある日、ロザリアに妹に会ってもらえないだろうかと尋ねてみる。ロザリアは少し驚いたように目を瞬いたものの、すぐに頷いてくれた。
そうして、二人で皇女宮へと向かう。
妹の部屋へ入ると、アレクシスに気づいた妹がぱっと顔を輝かせた。
「おにいしゃま!」
「アリア」
嬉しそうに笑う妹を抱き上げる。
そのままロザリアにも見えるように向き直った。
「アリア。今日は僕の婚約者を連れてきたんだよ」
そう告げると、妹はしばらくロザリアをじっと見つめていた。
そして。
「こんやくちゃ……?」
ロザリアとアレクシスの顔を見比べ、不思議そうに告げる。
その様子に、アレクシスは優しく微笑みながら説明した。
「そうだよ。将来、僕のお嫁さんになる人なんだ。アリアにとっては、義姉になる人だね」
アレクシスの言葉に、ロザリアは柔らかな笑みを浮かべている。そんなロザリアを見て、アリアンヌは小さく首を傾げた。
「……おねえしゃま?」
「はい。ロザリアと申します」
ロザリアが笑顔で妹に返事をする。
アリアンヌはパチパチと大きな目を瞬いていた。
「ろじゃりあ……」
「そうですわ」
「……ろじゃりあ、おねえしゃま?」
「ええ」
ロザリアが微笑むと、妹も嬉しそうに笑う。
妹へと話しかけるロザリアを、アレクシスは黙って見つめていた。ロザリアは嬉しそうに笑っている。その表情に嘘は見られない。少なくとも、妹に悪感情を抱いていないことだけは確かだろう。
しばらくその様子を見ていると、視線に気づいたのかロザリアが顔を上げた。
「何かございましたか?」
「何でもないよ」
そう答えて、アレクシスは微笑む。この様子を見る限り、ロザリアなら妹の側にいても大丈夫かもしれない。そんなことを考えた。
それから、あまり長居をすれば妹の身体に障るからということで皇女宮を後にする。皇女宮を出て、しばらく歩いたところでアレクシスはロザリアに声をかけた。
「ロザリアさえよければ、たまにでいい。アリアンヌの話し相手になってくれないかな?」
アレクシスの言葉に、ロザリアが目を瞬かせる。
身体が弱いだけではなく、妹の姿を見るだけですぐに声を荒げる父のことを考えると、妹を皇女宮の外へ連れ出すことはできない。だからこそ狭い皇女宮の中でしか暮らせない妹が不憫で、少しでも話し相手になってくれないだろうかと思ったのだ。
「これは命令ではなくお願いだから、もちろん、断ってくれてもいい。実際、ロザリアは皇太子妃の教育もあって忙しいだろうから」
もちろん、無理強いするつもりはないことは告げておく。
そうしたら、ロザリアは首を横に振って笑みを浮かべた。
「断る理由などございませんわ。わたくしでよろしければ、ぜひ」
「ありがとう」
ロザリアが頷いてくれて、少しほっとした。ただでさえ皇太子妃となるための教育で忙しいのだ。それなのに妹の話し相手になってほしいなど、無理を言ってしまったかもしれない。そう考えたけれど、ロザリアは嫌な顔一つせず笑顔で頷いてくれた。そのことがとても嬉しかった。
ロザリアが自分の婚約者で良かった。そう感謝した。




