幼少期 ②
アレクシス視点の話です。
妹にはアリアンヌという名前が付けられた。
名前が決まるまでには少し時間がかかった。父がなかなか名前を決めなかったからだ。
アレクシスは母が生きていた頃のことを思い出す。母のお腹が大きくなってから、どんな名前がいいだろうと話をしたことがある。弟だったらどんな名前がいいだろう。妹だったらどんな名前がいいだろう。いくつか候補を挙げて、その中から母と一緒に考えていた。そのときに出ていた名前の一つがアリアンヌだった。
だから父に進言した。
「妹の名前ですが……、アリアンヌはどうでしょうか。母上が、もしも女の子が生まれたら、と考えていた名です」
父の表情が一瞬だけ歪む。悲しそうな顔だった。
けれどそれもほんの一瞬で、すぐに眉間に皺を寄せてしまう。
「……ナフェリエが選んだ名なら、それで構わん」
父が頷いたことで、やっと妹の名前が決まる。こうして妹はアリアンヌと名付けられた。アレクシスにとっては母と一緒に選んだ名前である。だから妹がアリアンヌという名前を持っていることが嬉しかった。
けれど、喜んでばかりもいられない。
妹は身体が弱かったのだ。母に似たのだろうか。小さな身体で眠っている妹を見ていると、どうしても心配になってしまう。父が皇女宮に医師をつけてくれたが、アレクシスはその医師をどうにも信用できなかった。何となく、妹を任せて大丈夫なのだろうかと思ってしまうのだ。
だから自分でも医療について書かれた本を読むようにした。けれど、難しい。なんとなく書いてあることを理解することはできても、それだけで妹を診られるわけではない。ならば詳しい人に聞けばいい。そう考えて、アレクシスは皇太子宮の専属医に尋ねることにした。
「この薬は、アリアンヌが飲んでも大丈夫ですか?」
皇女宮で処方された薬を見せる。
医師は薬を確認し、しばらく考えたあとで頷いた。
「問題ないでしょう」
「本当に?」
「はい。少なくとも、こちらに記載されている量であれば危険なものではありません」
「そうですか」
アレクシスはほっとした。これなら大丈夫らしい。
それからも、時々アリアンヌの様子を医師に相談するようになった。どんな症状なら気をつけたほうがいいのか。どんな薬なら問題がないのか。自分で判断できないことは、医師に聞けばいい。
そうやってアレクシスは少しずつ妹の身体のことを知っていった。
そんなある日のことだった。
いつものように医師のもとを訪れたアレクシスは、ふと足を止める。医師の様子がいつもと違う。元気がないような気がしたのだ。
「……どうしたのですか?」
アレクシスが尋ねると、医師は顔を上げる。
「殿下……」
「何かあったのですか?」
少しの沈黙のあと、医師は重い口を開く。
「子供が……、重い病にかかってしまったのです」
「……治せないのですか?」
「……私の力では」
医師は悔しそうに唇を噛む。
「治療法がないわけではありません。ですが、今の私には……、あの子を助けることができないのです」
その言葉を聞いて、アレクシスは黙り込む。
医師でも治せない病気。それはどんな病なのだろう。その病について詳しく尋ねる。
どんな症状が出るのか。どのような治療をするのか。必要な薬は何か。医師が答えられることは、すべて聞いた。どうやら薬そのものは存在するようだが、希少なうえにかなり高額らしい。一度服用すれば済むものでもなく、何度も飲み続ける必要がある。皇族の専属医という立場にある人間でさえ、容易には手を出せない薬のようだった。
「……そうなのですね。分かりました。ありがとうございます」
そう言って、その日は医師のもとを離れる。
アレクシスの頭の中には、先ほど聞いた病気のことが残っていた。いつも妹のことを尋ねても、嫌な顔ひとつせずに相手をしてくれる。そのことをアレクシスはありがたく思っていた。だから、何か自分にも返せるものがあればいいのだけれど。
そう思っても、まだ六歳の自分にできることは少ない。ならば、いつか自分にできることがあったらその時は力を貸そう。そう、心に決める。
その後も、アレクシスは皇太子としての教育を受けながら日々を過ごしていた。
教えられたことを次々と吸収していくアレクシスに、教師たちは驚き、周囲からもその才を高く評価されるようになっていく。
やがてその成果を確かめるよう、地方の視察に赴くことが決まった。父から地方へ視察に行くよう命じられたのだ。けれどアレクシスには一つ心配なことがあった。しばらく妹に会えなくなる。身体の弱い妹を残して、自分だけが遠くへ行ってしまって大丈夫なのだろうか。そう思ったけれど、父から命じられた以上、行かないわけにはいかない。それに、皇太子として地方の様子を知ることも自分の役目なのだろう。そう、自分に言い聞かせていた。
出発の日まで、アレクシスは視察先となる地方について学んでいく。その土地の産業や特産品、抱えている問題。さらにその周辺にある領地についてもできる限り頭に入れていく。
そしてその合間を縫って、できるだけ妹のもとへ顔を出した。
「アリア、僕は少し遠くへ行ってくるからね」
「……あう?」
まだ幼いアリアンヌには、言葉の意味もよく分からないだろう。それでもアレクシスの姿を見つければ、嬉しそうに笑ってくれる。
「すぐに帰ってくるから」
そう言って、小さな妹の頭を撫でた。お土産を買ってくるからねと告げて、妹の宮を後にする。何も起こらないようにと、祈ることしかできなかった。
そうして、アレクシスは出発の日を迎えた。
護衛にはウォルターズ騎士団長が付くことになる。まだ六歳の皇太子を連れて帝都の外へ出るのだから、当然といえば当然だった。さらに視察を補佐する文官たちも同行する。
これまでにも帝都の中を視察することはあったけれど、帝都の外へ出るのは初めてだった。
準備を終え、馬車へ乗り込む。窓の外には見慣れた帝都の街並みが広がっていた。これから自分の知らない場所へ行く。少しだけ緊張した。けれどそれ以上に、どんな場所なのだろうという興味のほうが強かった。
「では、出発いたします」
そう告げられ、馬車がゆっくりと動き始める。
アレクシスは窓の外を眺めながら、初めて見る帝都の外の景色に胸を躍らせた。
そして訪れたのは、アシュフォード伯爵領だった。領都に到着すると、アシュフォード伯爵家の当主であるアーネスト・アシュフォード伯爵が出迎えた。
「ようこそお越しくださいました、皇太子殿下。アシュフォード伯爵家当主、アーネスト・アシュフォードにございます」
「出迎えご苦労です。こちらこそ、よろしくお願いします」
顔を上げたアーネストは、穏やかな雰囲気の人物だった。けれど、どこか疲れているように見える。目の下には薄く隈があり、笑顔を浮かべてはいるものの、その表情には余裕がない。アレクシスはすぐにその理由を思い出す。アシュフォード領はここ数年、天候による被害が続いていたはずだ。
まず冷害が起きた。その影響で穀物の収穫量が落ちたところへ、今度は大雨が続いた。ただでさえ少ない収穫量はさらに打撃を受け、領民の生活にも影響が出ている。視察に行くと決まったときにアシュフォード領について学び、報告書でそのことを聞いていた。
けれど実際に目にすると、その深刻さがよく分かった。
視察に向かった畑には、傷んだ作物が残っている。雨を吸いすぎた土はぬかるみ、ところどころに水が溜まっていた。収穫できるものもあるが、例年と比べれば明らかに少ないらしい。
「……これは、厳しいですね」
「ええ……。冷害のあとに大雨が続きましたから。農民たちもできる限り手を尽くしてはいるのですが……」
思わずといった感じで、アレクシスの口から言葉が漏れてしまう。アレクシスの隣にいたアーネストはその言葉に頷く。その声には、悔しさが滲んでいた。
アレクシスは畑を見渡す。収穫が少ないと納める税はもちろん、食料が足りなくなる。それだけではない。雨が多く、土地も湿っている。作物が傷み、人々の食生活も悪くなる。衛生環境も悪化するだろう。さらに、続く大雨の影響で流された家もあるらしく、今は一時的に教会や兵舎で暮らしている領民も多いという。
そうなれば――。
「……疫病が流行るかもしれませんね」
「疫病、ですか?」
「はい。食べ物が少なくなれば、人の身体も弱ります。それに、この雨で水も汚れているところがあるでしょう?」
アレクシスは視察に来る前に学んだことを思い返す。病気が流行る条件はいくつかある。栄養状態が悪くなること、衛生状態が悪くなること、人が密集すること。今のアシュフォード領には、そのいくつかが重なりつつある。
「このまま何もしなければ、病気が広がる可能性があると思います」
「……確かに、その通りかもしれません」
アーネストはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐く。その表情は、疲労の色がさらに濃くなったように見えた。
アレクシスは改めて領地を見渡す。ここに住む人たちは、この先もここで暮らしていかなければならない。ならば、自分にできることは何だろう。妹を守ると決めたときと同じように、できることがあるのならやらなければならない。アレクシスはそんなことを考えながら、アシュフォード領の視察を続けた。
視察を終えたあと、アレクシスはアシュフォード伯爵と改めて話をする。
「今回の被害については、帝国としてもできる限りの支援を行うよう、父上に進言します」
「殿下……」
アーネストは驚いたようにアレクシスを見つめた。
「……よろしいのですか?」
「この領地の状況は、帝国にも関わることですから」
実際に領地を見て、アレクシスはそう考えていた。農業地帯のこの領がいつまでもこの状態でいると、いずれ帝国全体に食糧不足が広まる恐れがある。それを皇帝に報告すれば、きっと必要な支援は出してもらえるだろう。
けれど、帝都からここまで支援を届けるには時間がかかる。そのことを考えていると、ふと身につけていたものに目が留まった。
「帝国からの支援には、手続きなどで時間がかかるでしょう。それまで、これを使ってください」
そう言って、アレクシスは自分の胸元に留めていたブローチを外す。大粒の青い宝石が嵌め込まれた、皇太子が身につけるに相応しい品だ。それをアーネストへ差し出す。
「殿下、これは殿下のお品です。私どもが頂くわけには……」
「でも、今これが必要でしょう?」
差し出されたブローチを見て、アーネストが慌てて首を振る。それを見たアレクシスは不思議そうに首を傾げた。
そして当然のことのように続きを口にしたアレクシスに、アーネストは言葉を失った。
「帝国から支援が届くまでに必要なものがあるのなら、それに使えばいいと思います」
「しかし……」
「皇太子である僕が持っているより、今は領民のために使ったほうが役に立つでしょう?」
アーネストはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、殿下。この御恩は、必ずお返しいたします」
「気にしないでください。皇族としての務めですから」
そう答えたところで、ふとアレクシスは思い出した。
「そういえば、リュネア草を使った薬は、この辺りで作られていると聞いたことがあります。まだありますか?」
「リュネア草の薬、ですか?」
アーネストは驚いた顔をする。それから思案するように視線を外し、数秒後、何か思い当たったのか、再びアレクシスの目を見て頷いた。
「ええ、ございます。大雨の影響で、領内の橋がいくつも流されてしまいまして。売りに行くことができなかったのです。そのため、今年は在庫がかなり余っております」
「それなら、その薬を買いましょう」
「え?」
「僕が買います。全部……、は多いでしょうか?」
「いえ、在庫の量にもよりますが……」
「では、買えるだけ買いましょう」
アレクシスはそう言って、先ほどとは別の装飾品を取り出す。
「これで足りますか?」
「殿下、これは……」
アーネストは装飾品を見て、ぎょっとした。
「リュネア草の薬を買うためのお金です」
「いえ! これほどのお品でしたら、薬を買うにはあまりにも多すぎます!」
「そうですか」
アレクシスは少し考える。
そして。
「では、薬の代金を引いた残りは領民のために使ってください」
「しかし……」
「これは僕個人で買うものです。帝国への借りを作るわけではありません。ですから、このことで国に何かを返す必要もありません」
アレクシスは、まっすぐにアーネストを見た。アーネストはただ呆然とアレクシスを見つめていた。六歳の皇太子が、あまりにも当然のことのように告げる。そのことに驚きを隠せなかった。
「……承知いたしました」
アーネストはしばらく何も言えずにいた。しかし、やがて深々と頭を下げる。
「殿下のご厚意、決して無駄にはいたしません」
こうして、アレクシスはアシュフォード領でリュネア草の薬を買い上げた。
アレクシスがアシュフォード領に滞在したのは五日間。大人にとってはわずか五日間と思うかもしれない。けれど、まだ六歳のアレクシスにとっては随分と長く感じられる視察だった。
そして視察を終えて帝都へ戻ると、まず向かったのは皇太子宮だ。
「先生、これを」
「殿下、お帰りなさいませ。しかし、これは……?」
「アシュフォード領で買ってきました」
薬を受け取った専属医は、驚いたように目を見開く。
「殿下、これは……」
薬の名を確認し、その価値を知る医師の顔が変わる。
「まさか、リュネア草の薬を……?」
「必要だったので買いました」
「これほどの量を……?」
「はい。先生の子供に、使えるのでしょう?」
その言葉に医師は息を呑む。
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、殿下」
その声は、震えていた。
「本当に……、ありがとうございます」
「気にしないでください。治るといいですね」
「はい……。大丈夫だと思います。きっと、……治ります」
医師との会話を終えた後は、明日の父への謁見に備え視察した報告書を作成する。
その後、アレクシスは妹のもとへ急いで向かった。
眠っている妹の顔を眺めているだけで、不思議と身体に溜まっていた疲れが軽くなっていくような気がする。
「……やっぱり、アリアはかわいい」
小さな手をそっと握りながら、アレクシスは嬉しそうに笑う。
少し熱が出たこともあったようだが、大きく体調を崩すことはなかったようだ。そのことに安心しながら、時間が許す限り妹の寝顔を眺めていた。




