幼少期 ①
アレクシス視点の話です。
アレクシス・ルミナリアは、神聖ルミナリア帝国の皇太子として生まれた。
父は皇帝。皇后である母ナフェリエは、その父が誰よりも深く愛する女性だった。
生まれたばかりのアレクシスを抱いた母は、嬉しそうに笑っていたという。
母は優しい人だった。まだ幼いアレクシスが転んで泣けば、すぐに駆け寄って抱き起こしてくれた。何かを失敗しても叱るのではなく、どうすれば上手くできるのかを教えてくれる。そんな母のことを、アレクシスは大好きだった。
皇帝という立場にある父はアレクシスに対して決して甘くはなかった。礼儀作法を間違えれば注意され、皇族らしくない振る舞いをすれば叱責された。まだ教わっていないことでも容赦なく叱るような、そんな父だった。皇太子として相応しくあれと、幼い頃から厳しく言われて育ってきた。
けれどそんな父が時折、表情を緩めることがあった。
「お前は、ナフェリエによく似ているな」
そう言って、父が嬉しそうに笑うのだ。
その言葉を聞くたびにアレクシスも嬉しくなった。母に似ている。それは父にとっても、アレクシスにとっても、喜ばしいことだった。
皇太子としての教育が始まったのは物心がつく頃には始まっていた。
読み書きや歴史、帝国の制度。教師から教えられたことは一度聞けば覚えることができた。
「では、昨日教えたところを復習しましょう」
そう言われて答えれば、教師はいつも目を丸くする。
「……素晴らしいです。よく覚えていらっしゃいましたね」
「ありがとうございます」
褒められれば、アレクシスは素直に礼を言う。けれど内心では少し不思議だった。教えてもらったことを覚える。それだけのことなのに、どうしてそんなに褒められるのだろう、と。
武術も同じだった。身体は特別丈夫なわけではない。むしろ同年代の子供と比べれば基礎体力はないほうだ。走ればすぐに息が上がるし、長時間の鍛錬を続ければ疲れてしまう。それでも一度教えられた動きはすぐにできるようになった。
「殿下、今の動きをもう一度お願いします」
教師に言われるまま、先ほど教えられた型を繰り返す。
「お見事です」
褒められてアレクシスは首を傾げる。これも先ほど教えてもらった通りにやっただけなのに。そう不思議に思ったけれど、アレクシスは頷くだけに留めておく。
教師たちは口々にアレクシスを褒めた。
神童だ。
これほど優秀な皇太子は滅多にいない。それに、これほど膨大な魔力量を持つ方も今まで見たことがない。
将来は偉大な皇帝になるだろう。
そんな言葉を何度も聞いた。けれどアレクシスは自分が特別に優れているとは思っていなかった。教えられれば覚える。見せられればできる。教わったのだから、できるのは当たり前ではないのか。そう思っていた。それが普通なのだと思っていたから、周囲が自分を「神童」と呼ぶことも、幼いアレクシスはそれほど興味を持たなかった。
そんなことより、母が自分を見て笑ってくれる。父が自分を見ると、時折、母を見るような目で笑ってくれる。
「本当に、ナフェリエに似ている」
そう言って笑う父の顔を見るたびに、アレクシスも笑った。滅多に笑いかけてくれない父が、自分の顔を見て笑顔を見せてくれる。そのことが嬉しかった。その瞬間が、好きだったから。
自分が皇太子として生まれたことも。
母が優しい人であることも。
父が母を深く愛していることも。
幼いアレクシスにとっては、それが当たり前の日々だった。
◇
そんな日々を過ごしていたある日、母から嬉しい知らせを聞いた。
「アレク。あなたは兄になるのよ」
「兄?」
意味が分からず、アレクシスは首を傾げる。
「ええ。わたくしのお腹の中に、赤ちゃんがいるの」
そう言って、母は自分のお腹を優しく撫でる。そこに自分の弟か妹がいるらしい。
「弟かな。妹かな」
「どちらでしょうね」
母は楽しそうに笑う。その笑みを見てアレクシスも嬉しくなった。弟なら一緒に遊べるだろうか。妹なら何をして遊んであげれば喜んでくれるだろうか。まだ見ぬ弟か妹のことを考えるだけで、なんとなく心が弾んだ。
けれど、母の身体はあまり丈夫ではない。お腹が大きくなるにつれて、ベッドで休んでいる時間が増えていった。
そんな母は出産の日が近づくにつれて、アレクシスに何度も同じことを言うようになる。
「アレク」
「はい」
「妹を守ってあげてね」
「妹?」
「ええ。きっと、あなたの妹になるわ」
母はそう言って優しく笑う。
「お兄さんですもの。妹を、守ってあげてね」
どうして母がそんなことを言うのか、幼いアレクシスにはよく分からなかった。けれど、妹が生まれたら自分は兄になる。それなら妹を守るのは当たり前のことなのだろう。
だから、アレクシスは素直に頷いた。
「分かりました」
「ええ。お願いね」
母が笑う。
そして、この日から。
「妹を、守ってあげてね」
母はよくこの言葉を口にするようになった。
「分かりました。でも母上、どうかしたのですか?」
頻繁に言われるようになったその言葉に、どうしてだろうと首を傾げてしまう。母は少しだけ困ったように、それでも優しく笑った。
「あなたはお兄さんになるでしょう?」
「はい」
「だから、妹を守ってあげて」
母の手が、アレクシスの頭を撫でる。
「あなたなら、きっと大丈夫」
結局、理由は教えてくれなかった。それに、どうしてそこまで言うのかアレクシスには分からない。けれど母が大切そうに何度も言うのなら。
――それは、きっと大切なことなのだろう。
そう思った。
だから。
「……分かりました。僕が妹を守ります」
「約束してくれる?」
「はい。約束します」
迷いなく答えると、母はほっとしたように微笑む。どこか悲し気な笑顔だった。
「ありがとう、アレク」
それは母との約束だった。だから、守る。妹が生まれたら自分が守る。それだけは、幼いアレクシスの中で決して揺らがないこととして刻まれた。
そして、月日が過ぎ。
母が言っていた通り、妹が生まれた。けれどその代わりに、母が死んだ。あまりにも突然のことで、母の死を知ったときアレクシスは何が起きたのか理解できなかった。
つい先日まで母は笑っていた。自分のお腹を撫でながら、もうすぐ妹が生まれると話していたのに。
それなのに、もう、母はいない。
「殿下のお母上は、元々お身体があまり丈夫ではありませんでしたから……。今回のご出産は、お身体にとってかなりのご負担だったのでしょう」
医師がそう話しているのが聞こえる。アレクシスは何も言えず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。母の身体が弱かったことは知っていた。けれどそれが母の死に繋がるほどのことだったなんて知らなかった。
そして、――父が、泣いていた。
あれほど厳しく、滅多に感情を露わさない父が。母の亡骸の傍で声を上げて泣いている。そんな父を見たのは初めてだった。
けれど。
「お前のせいだ!!」
突然、父が叫ぶ。
驚いて父を見れば、その視線の先にいたのは生まれたばかりの妹だった。
「お前がナフェリエを殺したのだ!」
アレクシスは息を呑む。
父が取り乱している。怒鳴って、泣いて、まるで何かに縋るように生まれたばかりの妹を責めている。
初めて見る父の姿に、アレクシスはただ呆然とすることしかできなかった。
――母上が、死んでしまったから。
きっと父は動揺しているだけなのだ。そうであって欲しい。そう、思いたかった。
アレクシスは父から視線を逸らし、部屋の隅へと目を向ける。そこには小さな寝台が置かれていて、その中で生まれたばかりの妹が眠っていた。
父が医師たちに宥められ、部屋を出ていく姿を確認する。そうして、小さな寝台に近付いた。
恐る恐る、そっと中を覗き込む。ふわふわとした金色の産毛。閉じていた瞼がゆっくりと開けば、そこから覗いたのは自分と同じ青い瞳だった。
妹は何も知らない顔でアレクシスを見つめている。父が言った言葉が頭の中に蘇った。
『お前がナフェリエを殺したのだ!』
そう、父は叫んでいた。
けれどアレクシスは、この小さな妹が母を殺したとは思えなかった。ただ、何も知らずに生まれてきた。
それだけの、小さな赤子なのに。
「……妹」
そっと手を伸ばす。
触れてもいいのだろうか。そんなことを考えながら指先を近づけると、小さな手が動いた。そして、きゅっ、とアレクシスの指を妹の小さな手が握る。
「…………!」
驚いて目を見開く。
妹はきょとんとした顔で自分を見上げている。やがて、その顔がふわりと綻ぶ。にぱっと、嬉しそうに妹が笑う。
「……かわいい」
思わず声が漏れた。
こんなにも小さな手で、自分の指を握っている。こんなにも無邪気に笑っている。
そっと妹を抱き上げた。壊してしまわないように、恐る恐る。そして腕の中に収まった小さな身体を、今度はしっかりと抱きしめた。
母が死んでしまったことは悲しい。母にもう会えないことが、寂しい。けれど、自分には母との約束がある。
――妹を守ってあげてね。
そう言って、母は笑っていた。
「……大丈夫だよ」
腕の中の妹に、アレクシスは小さく呟く。
「僕が、いるから」
涙が頬を伝っていく。
それでも、腕を緩めなかった。
「僕が、守るから」
母との約束。母が自分に託した願い。
それだけは、絶対に守る。だから泣きながらアレクシスは誓った。
――絶対に、僕が守るから。
アレクシス、六歳のときの事だった。




