2回目の人生 ④
アリアンヌ視点の話です。
それから、兄は少しずつ回復していった。
身体を起こせるようになり、食事も少しずつ取れるようになる。まだ以前のように動き回ることはできない。けれど、それでも生きている。
それだけで、アリアンヌには十分だった。
そして、兄の身体がある程度まで回復したところで、これからのことを話し合った。
兄は、このまま死んだ存在として生きていくという。
理由は二つあった。
一つは、アリアンヌが聖女であることを公表させないため。
そしてもう一つは、皇太子が生きていると知られれば、政治的な混乱を招くからだった。
死んだはずの皇太子が生きていたとなれば、帝国は処刑を偽ったのかと国際的な批判を受けることになるだろう。すでに皇太子と聖女の不貞という醜聞によって帝国の評判は落ちている。これ以上、国の名を傷つけたくない。
それは皇太子として、国を思う兄の判断だった。それに、生きていることが父に知られれば、父がそれを許さないだろうことも、兄は分かっていた。だからこそ、兄は死んだことにして生きていくことを選んだのだ。
そんな兄は一通の手紙を書いた。
宛先は、アーネスト・アシュフォード伯爵。それをデイルに託し、直接届けるように命じた。
「必ず、デイルの手から伯爵に渡してほしい」
そう言って兄が空間魔法から取り出し、デイルに手渡したのは一つの指輪だった。皇族の紋章が刻まれた、兄自身の指輪。
その指輪を受け取ったデイルは、それを自身の空間魔法の中へと収めると深く頭を下げた。
「命に代えても、命令を遂行いたします」
そう告げて、デイルは皇女宮を後にする。
そして数週間後。
アシュフォード伯からの返事を携え、デイルが戻ってきた。
こうして、アシュフォード伯の協力を得て、兄は新たな身分を手に入れた。
――アレン・グラント。
アシュフォード伯爵家の遠縁にあたる、没落しかけた子爵家の庶子。
そしてこれからは、アリアンヌの侍従として傍に仕えるという。
「本当に、お兄様がわたくしの傍にいてくださるのですか?」
「ああ。これからはずっと傍にいるよ」
そう言って笑う兄を見て、アリアンヌは嬉しくなった。もう二度と会えないと思っていた兄が、また自分の傍にいてくれるという。それだけで、胸がいっぱいになる。
けれど、アレンとして生きるためには、兄の姿も変えなければならなかった。
「髪を染めるのですか?」
「ああ。魔法具だけに頼るのは危険だからね」
「でも……」
アリアンヌは兄の美しい金色の髪を見つめた。
「魔法具があるではありませんか」
「もし、それが外れたら?」
「…………」
「その時に金色の髪が戻ってしまえば、すぐに怪しまれるだろう?」
そう言われてしまえば、反論できなかった。
兄の髪が茶色に染められていく。見慣れていた美しい金色が失われていくのを見て、アリアンヌは少しだけ寂しくなった。
瞳の色は、魔法具で明るい紺色に変えることにするらしい。さすがに瞳の色を変えるのは無理なので、これは仕方がないと兄は苦笑していた。もし魔法具が外れてしまっても、どこかに皇族の血が混じっているのだろう。それを隠すための魔法具だと説明すれば、深く探ってくる者はあまりいない。そう言われて、そんなものなのだろうかと首を傾げながら頷いた。
さらに、化粧で顔の印象も変えるという。そのために兄がヘレネから化粧を教わっている姿は、アリアンヌには少しばかり面白く見えた。
「……お兄様、随分と真剣ですね」
「アリア。笑うな」
「ふふっ」
眼鏡もかけることになった。ただし、それは魔法具ではなく、普通の眼鏡だ。魔法具に頼りすぎるのは危険だから。兄はしきりにそう言っていた。
そうして、少しずつ姿を変えていき。
――そこにいるのは、もう、皇太子アレクシスではなかった。
アレン・グラント。
それが、兄の新しい名前。名前も、姿形も変わってしまった。それでも、アリアンヌにとっては兄が自分の傍にいてくれる。
ただ、それだけで嬉しかった。
けれど。
以前よりもアリアンヌは体調を崩すことが増えていった。
聖女の力を使った身体への負荷は、少しずつアリアンヌを蝕んでいた。健康な身体であれば耐えられるはずの力も、元々身体の弱いアリアンヌには大きな負担となる。
体調を崩すたびに、兄は悲しそうな顔をした。そのことだけが、申し訳なく思った。
◇
それからの日々を、アリアンヌは穏やかに過ごすことができた。
もちろん、それが仮初めの平穏であることは分かっている。相変わらず、アリアンヌは度々体調を崩して寝込んでいた。そのたびにアレクシスが代わりに皇女宮のことを取り仕切り、今の情勢を把握し、必要なものまで手配してくれる。申し訳なく思ってそう告げれば、兄はいつものように笑う。
「任せてくれていいんだよ、アリア」
そう言われてしまえば、アリアンヌはつい兄に甘えてしまう。
そんな日々が、二年続いた。
そして、平穏は、突然終わりを告げた。
巡礼に出されていた聖女、リリアーナ・ベルナールが辺境の地で死亡したという報せが届いたのだ。そしてその亡骸を調べた結果、聖女は清らかな身体であったことが判明した。
つまり。
――兄の無実が、証明されたのだ。
アリアンヌにとっては、初めから分かっていたことだった。けれど、父にとっては違ったらしい。父はその事実を世界中へと公表し。
――そして、隣国アストリア王国へ宣戦布告した。
「……なんと愚かな」
その報せを聞いた兄は、ただ一言、そう呟いただけだった。
「戦争を避けることはできないのですか?」
アリアンヌが尋ねても、兄は静かに首を横に振る。
「今さら私が生きていたところで、陛下を止めることはできないだろう」
それどころか――。
「私が生きていること自体が、陛下への裏切りになる。宣戦布告までした今、アレクシス・ルミナリアが生きていると知られれば、秘密裏に抹殺されるだけだ」
「……お父様なら、やりかねませんね」
「ああ」
否定できなかった。
だからこそ、兄は表舞台に戻ることなく、戦争となっても出来る限り国民の生活を守るためにと動き始めた。考えられる限りの策を講じ、それをアーネスト・アシュフォード伯爵へと託す。兄が生きていることを知ったアシュフォード伯は、領地を代官に任せ、皇城へ文官として出仕するようになっていた。そのアシュフォード伯から宰相へと働きかけ、動いてもらっている。今や皇城は、慌ただしく緊張した空気に包まれていた。
そうして、隣国アストリア王国との戦争が始まった。
戦況は、帝国にとって厳しいものとなった。
そもそもの発端となった皇太子と聖女の不貞騒ぎ。当時、その責任を問われ、側近候補たちは処刑され、その一族もまた連座によって命を奪われていた。その中には、宰相、騎士団長、魔導士団長も含まれていた。
宰相補佐が新たな宰相となり、副騎士団長や副魔導士団長がそれぞれの団を率いることになったものの、二年という歳月では失われたものを埋めるには足りなかった。どこか一つだけならまだしも、一度に三つもの要職が失われ、それぞれの立て直しに追われることとなったのだ。主力となる騎士団と魔導士団は、いまだ再編の途上にある。
そんな状態で始めた戦争だ。
当然のように、帝国はアストリア王国に押されていた。
戦いが続く中、皇帝の実弟である大公までもが負傷し、皇都へと戻されることになる。治療を受けたものの、もはや戦線への復帰は叶わないほどの重傷だった。
それでも、皇帝は戦争をやめようとはしなかった。
そして、戦争が始まって二年。
――皇帝が、戦の最中に崩御した。
指揮官を失った帝国軍は混乱に陥る。その混乱を収め、帝国をこれ以上の犠牲から救うために動いたのは兄だった。兄の指示を密かに受けたアシュフォード伯が動き、それを宰相へと伝える。もちろん、兄の存在は秘密として、アシュフォード伯は真摯に宰相を説得し続けた。
そして、その結果、帝国はアストリア王国に敗北を認めた。
二年に及んだ戦争は、こうして終結したのである。
それから。
戦争が終わった後、アストリア王国からは、神聖ルミナリア帝国を属国にしようという案も出ていたらしい。けれどそれには各国から強い批判が寄せられた。その結果、属国化の話は立ち消えとなり、帝国が賠償金を支払う必要もなくなった。
――すべて、兄の策だった。
アシュフォード伯から宰相を通じて教会へ働きかけ、全世界の信者に向けて発信した。
アストリア王国は、初代勇者と聖女の子孫である神聖ルミナリア帝国の皇太子を罠に嵌め、殺したのだと。さらには、初代勇者と聖女が興した国であり、女神を信仰する者にとって聖地ともいえる神聖ルミナリア帝国の地を穢そうとしている。
そう、世界へ向けて発信したのだ。
神聖ルミナリア帝国の皇太子が処刑されていることもあり、この事実は女神を信仰する者たちにとって見過ごせることではなかった。
さらに兄は、戦争を仕掛けたのは帝国側であるという事実を覆すことはせず、そのうえで、帝国はすでに皇太子を失っていることを強調した。
無実の息子を殺してしまった父としての悲しみ。
息子を失った父としての怒り。
そして、最後まで息子の仇を討つために、後戻りできなくなってしまったのだと。
そう語られた皇帝の姿に、世界は同情を寄せた。
アリアンヌとしては。
――あの父が……?
と思わないでもなかった。もっと言うなら、兄は死んでいない。けれど、社会的には死んでいるので、死んでいると言っていいのかもしれない。……アリアンヌには、よく分からないが。けれど、政治とはそういうものなのだろう。
兄はそうやって教会と信者を、そして各国を味方につけた。結果として、帝国が属国となることも、莫大な賠償金を課されることもなくなった。あまりにも鮮やかな兄の手腕に、アリアンヌはただただ思う。
――やはり、お兄様はすごいです。
兄への尊敬が、また一つ増えただけだった。
それから、皇位を空位のままにしておくわけにはいかないため、次の皇帝を誰にするのか、話し合いが行われることになった。それを聞いた兄は、複雑そうな顔をしていた。自らの死を外交の切り札として使った以上、兄が皇位に就くことはできない。アリアンヌにもそれは分かっていた。
しかし、本当なら。
兄の頭上に、王冠が輝く姿を、ずっと夢見ていた。
二度目の人生でも、その夢が叶うことはない。それが、少しだけ寂しかった。
兄は大公である叔父に皇位に就いてもらうことを望んでいたようだ。しかし、叔父は戦争で負った傷が癒えておらず、未だ療養中である。今は帝都ではなく自身の大公領で療養中のため、皇帝を決めるための議会にも出席できていない。
そのため、皇位に就くことになったのはアリアンヌだった。
まさに、寝耳に水の話だった。
けれど、父に愛されることはなかったとはいえ、アリアンヌも皇族としての教育を受けてきた。皇族としての義務も、皇帝が担う責任も理解している。
だからこそ、アリアンヌは迷いながらも頷いた。
「……分かりました」
了承を告げたアリアンヌを、兄は辛そうな表情で見つめていた。
その日のうちに自分の宮へ戻ると、アリアンヌは兄に助力を求めた。
「お兄様。……わたくしを、助けてくださいますか?」
自分一人では、到底皇帝など務まらない。
そのことを誰よりもアリアンヌ自身が分かっていた。
「当たり前だろう」
兄はいつものように笑ってくれる。その言葉を聞いただけで、胸の奥が温かくなった。
お兄様がいてくださる。
それだけで、大丈夫だと思えた。
「……すみません、お兄様。きっと、頼りきりになってしまいます」
そう告げると、兄は目を丸くする。そして次の瞬間には、楽しそうに笑い出した。
「帝王教育を受けていないアリアが、何の助けもなく立派な皇帝になったら、それはそれで私の面目が立たないよ」
「それは……、そうですけど……」
クスクスと笑う兄に、アリアンヌは困ったように眉を下げる。その場にいたのは、兄と、ヘレネと、デイル。そしてアリアンヌ。いつもの四人だけだった。
小さな笑い声が、穏やかな部屋に響いていた。これから先、きっとこんなふうに笑うことはできないだろう。皇帝となれば、多くの人の目に晒される。兄の身を守るためにも、今までのように兄と近しい姿を人前で見せるわけにはいかない。
それでも、今だけはこの穏やかな時間を大切にしたかった。
こうして、アリアンヌは皇帝となった。十四歳の時のことだった。




