②
リリアーナ・ベルナールが生まれたのは、決して裕福とは言えない男爵家だった。
父親は男爵、母親は男爵家で働いていたメイド。つまり、リリアーナは男爵がメイドに手を出して生まれた子供だった。
当然、男爵夫人がそれを許すはずもない。生まれるまでは置いてやったのだから有難く思えと、夫人は母子を追い出した。そして男爵が僅かばかりの金貨を握らせてくれたのは、他の非道な貴族たちと比べればまだマシな扱いだったのだろう。
リリアーナたち母子は男爵家を追い出され、二人で慎ましい暮らしを送っていた。決して裕福ではなかったが、それでも母親はリリアーナに愛情を注ぎ、大切に育ててくれていた。
けれど、そんな暮らしも長くは続かなかった。
男爵家には、女児がなかなか生まれなかったのだ。
夫人との間に一人息子はいたが、政略結婚の駒として使える娘がいない。そんな折、男爵は自分の血を引く娘の存在を思い出した。そして男爵はリリアーナを引き取ることに決めたのだ。政略結婚に使うための道具として。
母親は、男爵から提示された金額を聞いて、あっさりとリリアーナを手放した。これ以上、自分が無理をして働く必要がなくなる上に、さらに娘は貴族として暮らせるのだ。そう思えば、決して悪い話ではない。リリアーナ自身も母親に捨てられるとは思わなかった。母親は何度も謝りながら、それでも最後には笑ってリリアーナを見送ってくれたから。
「元気でね、リリアーナ。どうか幸せになってね」
貴族として暮らせるようになれば、もうお金の心配も、食べ物の心配もしなくて済む。母親はそう思ったからこそ、笑顔でリリアーナを送り出したのだ。
しかし、リリアーナを待っていたのは幸せな貴族生活ではなかった。
男爵夫人は、夫の愛人だった女の娘であるリリアーナを歓迎しなかった。何かにつけて嫌味を言われ、失敗すれば叱責される。時には食事を抜かされることもあった。
そして何より酷かったのは兄だった。腹違いの妹であるリリアーナのことを目の敵にし、ことあるごとに嫌がらせをされた。隠れているところを見つけては笑われ、持ち物を壊され、躾けと称して叩かれることもあった。兄が仕出かした悪戯をリリアーナのせいにされたこともある。
父である男爵に夫人や兄からされている仕打ちを打ち明け、母の元に帰りたいと告げたこともあった。けれど返って来た言葉は。
「お前の代金はもう払っている。何を馬鹿なことを言っているんだ」
という、冷たい返事だった。
この時にリリアーナは、自分が何のために引き取られたのかを知ることとなる。政略結婚の駒として引き取られた。……ならば、その駒になれないような令嬢であれば、解放されるのではないか。母親のところへ帰れるのではないか。そう考えた。だからリリアーナは勉学に打ち込むことはせず、マナーを覚えることもせず、ひたすら何も出来ない娘として耐えることを選んだのだ。
しかし、ある日のことだった。
兄に呼び出されたリリアーナは、屋敷の庭にある池へと連れて行かれた。何をされるのか分からず、リリアーナは怯えながら後ずさる。
次の瞬間。
身体を強く押された。
目の前には意地悪く笑っている兄がいる。その兄を見たまま、リリアーナの身体は池へと落ちて行った。
水面が大きく揺れる。
冷たい水に身体が沈み、必死にもがく。しかし、小さな身体ではどうすることも出来ない。助けを呼ぶ声も、水の中では誰にも届かなかった。
そうして。
リリアーナ・ベルナールは、そこで命を落とした。
――けれど。
死んだはずの少女の身体に、別の魂が宿る。日本で生きていた女性の魂だった。
目を覚ました瞬間、彼女はひどく混乱した。
何が起こったのか分からない。見知らぬ部屋、見知らぬ天井。そして、見知らぬ人々。何より、自分の身体が明らかにおかしい。小さいのだ。手も、腕も、何もかもが。
「……え? なに、これ……」
呟いた自分の声を聞いて、さらに混乱する。自分の声じゃない、と。
どうして。なぜ。ここはどこなのか。自分は一体、どうしたのだろう。
そんな風に混乱したまま周囲の話を聞いているうちに、少しずつ状況が分かって来た。
自分は男爵家の娘。
母親は元メイドであり、男爵夫人には嫌われている。さらに腹違いの兄からも虐められているらしい。そして現在の状況は、池に落ちて昏睡していた。……らしい。
そこまで理解したところで、彼女はしばらく呆然とした。普通ならもっと取り乱してもおかしくなかった。
しかし。
彼女はあることに気が付いたのだ。
「これって、もしかして……」
彼女の胸が高鳴る。
まさか。いや、でも、と思う。
この状況は。
この状況は――。
「これって、転生ものじゃない!?」
彼女の声が弾む。目を輝かせ、思わず小さな手で拳を握り締めてしまう。
前世と言っていいのかは分からないが、日本で生きていたときの彼女は、乙女ゲームや恋愛小説が大好きだった。
前世は二十七歳の会社員。仕事は嫌いではなかったけれど、面倒なことはできるだけ人に押し付けて、失敗すれば言い訳したり他人のせいにした。上司に気に入られていたお陰で、自分が怒られることもない。世渡り上手だと自分では思っていた。
SNSやネットで他人の恋愛を眺めては、「どうしてこんな女が選ばれるの?」と腹を立て、あることないこと書き込んだ。仕事や友人関係で気に入らないことがあれば、相手に直接言うより先にSNSへ書き込み、時には相手が特定されるようなことまで晒していた。全部軽い悪戯みたいなものだった。きっと皆だってやってるに違いない。そう思ったから、罪悪感なんてなかった。
欲しいものがあれば我慢せず、給料の大半を趣味につぎ込んだ。特に好きだったのは、乙女ゲームと恋愛小説だ。仕事帰りに新作の乙女ゲームを買い、休日には乙女ゲームをしたり、恋愛小説を読み漁る。お気に入りの作品は何度も繰り返して楽しんだものである。
だから、物語の中のヒロインには少し憧れていた。
どんな困難に遭っても最後には幸せになり、素敵な男性から愛される。そんな彼女たちが、羨ましくて仕方なかった。
――いつか私も、そんな恋ができたらいいのに。
そう思いながら、毎日のように物語の世界へ逃げ込んでいた。
学園物。聖女。婚約破棄。悪役令嬢。魔王。勇者。そして異世界転生。
そんな物語を、それこそ数えきれないほど読んできた。乙女ゲームもプレイした。
だからこそ分かった。侍女に渡された手鏡の中の自分を見る。
そこに映っていたのは。
――ストロベリーブロンドの髪をボブカットにした、オレンジ色の瞳の美少女で。
これはもう、どう考えても。
「私、ヒロインじゃん!」
嬉し気な声でそう叫ぶ。
不幸な境遇。男爵家の庶子。虐げられていた少女。そこへ突然、前世の記憶が蘇る。
これからきっと素敵な王子様と出会って幸せになるに違い。まさによくある物語の始まりではないかと、胸をときめかせた。
けれど、一つだけ問題がある。
「……どの作品だろう?」
いくら記憶を辿ってみても、この物語に心当たりがない。前世ではかなりの数の乙女ゲームや恋愛小説を楽しんでいた。それこそ、似たような設定の作品を何本も遊び、何冊も読んだ。だからだろうか。この世界がどの作品の世界なのか分からなかった。
けれど、きっとそんなことは大した問題にはならないだろう。
なぜなら。
「私はヒロインだもんね!」
もう一度、同じ言葉を口にして笑う。
この世界がどんな物語なのかは分からない。けれどきっと、自分には幸せな未来が待っている。そう信じて疑わなかった。自分こそが、この物語の主人公なのだから、と。
こうして、彼女はリリアーナ・ベルナール男爵令嬢となった。
さらに数年後、聖女としての力が覚醒したことで、自分こそがヒロインなのだという思いは、より強くなるのであった。




