1回目からの回帰
アリアンヌ視点の話です。
アリアンヌはゆっくりと目を開けた。
「…………」
ぼんやりとした視界に映ったのは、見慣れた天井だった。
そのまましばらく天井を見つめていたが、やがてゆっくりと身体を起こす。
見慣れた寝台。見慣れた部屋。窓から差し込む朝の光も、壁に飾られた調度品も、何一つ変わっていない。
ここは、間違いなく自分の部屋だった。
けれど。
「…………?」
何かがおかしい。
どうしてだろう。
アリアンヌは首を傾げながら、もう一度、部屋の中を見回した。何も変わっていない。それなのに、妙な違和感がある。その理由を探すように視線を巡らせていた、その時だった。
ふと、自分の手が視界に入る。
「……え?」
思わず目を見開く。
目の前にあるのは、ひどく小さな手だった。細くて、柔らかな指。見慣れた自分の手ではない。
アリアンヌは慌てて両手を持ち上げ、自分の手を見つめる。
「……これは」
幼い子供のような、小さな手。
どうして。
どうして、こんなに小さいのだろう。困惑しながら手を握ったり開いたりする。何度確かめても、それは間違いなく自分の手だった。
それに、どことなく声も幼いような気がした。
そこでようやく、胸の奥に奇妙な感覚が込み上げてくる。
――何かを忘れている。
いや、忘れているのではない。
思い出せないだけだ。
「……わたくし」
自分は、いったい……。
それを考えようとしたその時、扉の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「アリアンヌ様。入室してもよろしいでしょうか」
「……はい。どうぞ」
返事をすると、ほどなくして扉が開く。
「おはようございます、アリアンヌ様」
「おはよう、ヘレネ」
いつもと変わらない、穏やかな笑顔。
けれど、アリアンヌの胸の内は穏やかではなかった。
「あの、ヘレネ」
「はい、何でしょうか」
「手鏡を持ってきてもらえますか?」
「かしこまりました」
ヘレネはすぐに部屋を出ると、ほどなくして手鏡を持って戻ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ありがとう」
受け取った手鏡を、恐る恐る覗き込む。
「…………」
そこに映っていたのは、幼い顔をした自分だった。
見慣れた顔。けれど、十四歳の自分とは明らかに違う。まだ幼さの残る頬。少しあどけない瞳。そして、昨日までとは違う、小さな身体。
「わたくし……」
鏡の中の自分を見つめながら、アリアンヌは呆然と呟いた。
やはり、おかしい。これは夢なのだろうか。
けれど、夢にしてはあまりにもはっきりとしている。
「ヘレネ」
「はい」
「……今は、何年の何月何日ですか?」
突然の問いにも、ヘレネは不思議そうな顔をしながら答えてくれた。
そして日付を聞いた瞬間、アリアンヌの心臓が大きく跳ねる。
自分が死んだ時より、三年前の日付だった。
「もうすぐアレクシス様は、学園の最終学年に上がられますね。月日が経つのは早いものです」
「……そうですね」
アリアンヌは、表面上は何でもないように微笑んだ。
けれど。
――そんなはずがない。
兄が最終学年に上がる。その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。それは、一度目の人生で兄が死へ向かい始めた頃と同じだった。
アリアンヌは手鏡を握り締める。幼い自分の顔が、鏡の中からこちらを見つめていた。
それから、何日かが過ぎた。
けれど、夢は一向に覚めなかった。
朝になれば目を覚まし、夜になれば眠る。何度眠って、何度目を覚ましても、アリアンヌの身体は十一歳のままだった。
もしかしたらこちらが現実で、十四歳まで生きたあの日々のほうが夢だったのではないか。ふと、そんな考えが頭を過ぎる。けれど、あれが夢だったとは思えない。
兄を失った悲しみ。もう二度と会えないという寂しさ。そして、兄が死んだと知らされた時に感じた、胸が引き裂かれるような絶望。
あの感情が、夢だったはずがない。あれほど鮮明な記憶を、ただの夢だと思うことはできなかった。
ならばこれは、いったい何なのだろう。
そう考えた時、アリアンヌの胸に一つの答えが浮かんだ。
――女神様が、慈悲をくださったのではないか。
一度目の人生で兄を失い、そして自分もその後を追うように命を落とした。
それでも、もう一度だけ。兄と生きる機会を女神様が与えてくださったのではないか。
そう思えば、この奇跡にも納得がいく。
「……女神様」
アリアンヌは胸の前で両手を組む。
そして、静かに目を閉じた。
自分にもう一度、生きる機会を与えてくださったこと。
兄と過ごせる時間を、もう一度与えてくださったこと。
そのすべてに感謝を込めて、祈りを捧げる。
祈りを終えたアリアンヌは、ゆっくりと目を開いた。
――お兄様を失いたくない。離れたくない。生きていて欲しい。
どうすれば兄を守れるのか。
どうすれば、あの未来を変えられるのか。
何も分からない。
けれど、何も分からないからこそ、探さなければならない。
「……お兄様を、失わない方法を探さなくては」
小さな手を、ぎゅっと握り締める。
アリアンヌは、そう心に決めた。




