1回目の人生 ②
アリアンヌ視点の話です。
ある日。
「お兄様……?」
ようやく皇女宮を訪れた兄を見て、アリアンヌは思わず声を上げた。
兄の顔色は悪く、ひどくやつれていた。その兄はアリアンヌの前に立つと、いつになく真剣な表情で自分を呼ぶ。
「アリア」
「はい」
「こちらへおいで」
促されるまま、アリアンヌはいつもの椅子ではなく、ソファへと腰を下ろす。
兄もまた、向かい側ではなく、アリアンヌの隣に座った。
「ヘレネ、リンデンのハーブティーを」
「かしこまりました」
兄がそう告げるのを聞きながら、アリアンヌは落ち着かない気持ちになっていた。兄が自分の隣に座る。そんなふうにしてくれたのは、本当に幼い頃だけだった。いつもなら兄はアリアンヌの向かい側に座っていた。それなのに今日はすぐ隣に座っている。それだけで、胸の奥にあった不安がさらに大きくなっていく。
やがてヘレネがリンデンのハーブティーを運んできた。
「お待たせいたしました」
「ああ。ありがとう、ヘレネ」
兄がヘレネに礼を告げる。ヘレネは目礼をしながらローテーブルにティーカップを置く。そして一礼すると、ヘレネは部屋を出ようとした。
「ヘレネ」
「はい」
「デイルを呼んできてくれ」
「かしこまりました」
ヘレネが頷く。
ほどなくしてデイルがやって来ると、兄は二人に向かって静かに告げた。
「二人とも、ここで一緒に話を聞いてほしい」
その言葉に、アリアンヌは息を呑んだ。
ヘレネとデイルも、ただならぬ様子の兄を見つめている。いつもなら、自分と兄の二人だけで話をしていた。それなのに、今日はヘレネとデイルを同席させる。
しかも、兄はアリアンヌの隣に座り、リンデンのハーブティーまで用意させた。
――何か、とても大変なことが起きたのだ。
アリアンヌにも、それだけは分かった。
「少し飲んでおくといい」
「はい……」
兄に促され、カップを手に取る。言われた通りに一口含む。ほんのりとした甘さと、草花を思わせる穏やかな風味が口の中に広がっていく。いつも飲んでいるお茶とは違う、どこか心を落ち着かせてくれるような味だった。
アリアンヌがカップをローテーブルに置いたのを確認すると、兄はそっとアリアンヌの手を握る。温かな手だった。その手に軽く力が込められる。
そして兄は、静かに口を開いた。
「アリア、よく聞いてほしい」
「……はい」
兄は一度だけ息を吐くと、アリアンヌをまっすぐに見て告げた。
「……ロザリアが、聖女暗殺未遂の容疑者として裁かれた」
息を呑んだのは、アリアンヌだけではなかった。
ヘレネも、デイルも。二人ともアリアンヌと同じように、驚きに目を見開いている。
「ロザリアは、死罪の判決を言い渡された」
「……そんな」
掠れた声が、アリアンヌの口から零れた。
アリアンヌにとって、ロザリアはいつも優しい、姉のような存在だった。そんなロザリアが、死罪を言い渡された。何かの間違いではないのですか。そう言いたかった。けれど、その言葉を口にすることはできなかった。それほどまでに、兄の表情は真剣だったからだ。
「それに伴い、私との婚約も解消となった」
「…………」
言葉が何も出てこない。
震えるアリアンヌの手を、兄はしっかりと、それでいて優しく握り締めている。その顔を見れば、兄がアリアンヌを気遣っていることが分かった。
けれど。
兄の表情には、まだ緊張が残っている。
――まだ、何かある。
そう思った。
これだけではない。
アリアンヌは、まだ他にも聞かなければならないことがあるのだ。
「……他にもある」
やはり。
兄は少しだけ言葉を詰まらせてから、心配そうにアリアンヌを見つめていた。
「だが……。アリア、日を改めるかい?」
アリアンヌは小さく首を横に振る。
きっと兄は忙しい。そんな中、わざわざ時間を作ってここへ来てくれたのだ。これ以上、兄を煩わせるわけにはいかない。
「大丈夫です……」
だから、震える声でそう答える。
兄はしばらくアリアンヌを見つめていた。心配そうな表情は変わらない。それでも、やがて、小さく頷いた。
「アリア。陛下は……、私の次の婚約者に、聖女を据えようとなさっている」
「え……」
何と言っていいのか分からなかった。
それは喜ばしいことなのか。それとも、よくないことなのか。アリアンヌには判断がつかない。
けれど、一つだけ分かることがあった。兄はそれをよくないことだと思っている。そのことだけは、アリアンヌにも分かった。
一体、それは何故なのか。
不安に思いながら兄を見つめていると、兄が口を開いた。けれど、そこから言葉が発せられることはなかった。
珍しく、兄が言い淀んでいる。あの、兄が……。
もしかしたらロザリアの件よりも、こちらの方が重大なのかもしれない。そんな考えがアリアンヌの脳裏に過ぎる。
「アリア。……アリアンヌ。気を確かにして、聞いて欲しい」
愛称ではなく、名前を呼ばれた。それだけで、胸の奥がざわめいた。
こくりと唾を飲み込む。その音が、やけに大きく聞こえた。兄が握ってくれている手に、力が込められる。痛いわけではない。けれど、今までなら、こんなふうに力を込めることすらなかった。
兄の唇が動く。
けれど、その視線は伏せられた。
「聖女は、皇太子妃の器ではない。私はそのうち、良くて廃嫡か、……始末されるだろう」
「……………」
――言葉が、出てこなかった。
何も言うことが、できなかった。
ただ、涙だけが静かに頬を伝っていく。
ヘレネとデイルも、真っ青な顔で首を横に振っていた。
やがて兄は顔を上げた。その表情は、ひどく辛そうだった。
「すまない、……アリア」
「……いや」
ようやく、声が出た。
「いやです……」
けれど、否定の言葉しか出てこない。
首を横に振って、嫌だと言うことしかできなかった。
「お兄様が、死ぬなんて……いや……」
涙が次から次へと涙が溢れてくる。
兄は何も言わなかった。
けれど、握った手だけは離さずにいてくれた。
「アリア。泣きながらでもいい。けれど、聞いてほしい」
兄が声を掛けてくる。けれど、もうこれ以上、聞きたくなかった。何を聞かされるのかが、怖かった。
子供のように、いやいやと首を横に振る。アリアンヌに甘い兄なら、こんな自分を見れば、もういいよと許してくれた。
けれど、今日の兄は違った。握ってくれていた手を離すと、今度はアリアンヌの頬にそっと両手を添える。そして、まっすぐにアリアンヌの目を見つめた。
「アリアンヌ。……お前は、逃げろ」
「……なにを」
何を言われているのか、理解できなかった。いや。……理解、したくなかった。
けれど、兄の言葉は続いていく。
「アーネスト・アシュフォード伯爵と、お前の婚約を整えた」
「…………」
「アシュフォード伯爵は三十代後半で、十二歳のお前とは年が離れていることも分かっている。けれど、アシュフォード伯なら、お前のことを守ってくれる」
それは、必死にアリアンヌを守ろうとして、兄が考えてくれたことなのだろう。自分が死んだあとも、アリアンヌが生きていけるようにと。
兄がいなくなれば、皇帝に憎まれているアリアンヌを守ってくれる者はいなくなる。だから、婚約という形で逃がしてくれようとしているのだろう。
けれど、アリアンヌが望んでいたものは、そんなことではない。
――アリアンヌが望んでいるのは、いつだって兄と一緒にいること。
ただ、それだけだったのに。
「……嫌です」
「アリア」
「嫌です!」
初めてだった。
こんなふうに、兄に声を荒らげたのは。
「お年を召していようが、わたくしと年が近かろうが、そんなことは問題ではございません。わたくしは、わたくしはっ……、お兄様のお側から、離れたくありません!」
それは、アリアンヌが初めて兄に逆らった言葉だった。しかし、兄はそれを許してはくれなかった。
「駄目だ、アリア。お前だけでも、逃げるんだ」
兄の声は静かだった。けれどその表情は、ひどく辛そうだった。それを見れば分かる。兄にとっても、苦渋の決断なのだということが。
兄を苦しめたくない。けれど、兄の側にいたい。
二つの相反する思いに挟まれながら、アリアンヌは小さく返事をした。
「……分かり、ました」
これ以上、兄を苦しめたくなくて。そう、応えるしかなかった。
けれどそれは、兄の願いを受け入れたわけではない。
「では、お兄様がご存命の限り……。わたくしを、遠くにやらないでください」
「……アリア」
「お願いです、お兄様。……どうか、少しでも長く、お側にいさせてください」
涙を浮かべながら懇願する。
兄はしばらく何も言わなかった。やがて、辛そうに視線を伏せる。
「……分かった。すまない、……アリアンヌ」
そう言って、兄はアリアンヌを抱きしめた。
兄の腕の中で、アリアンヌは涙を零す。
アリアンヌが願っていたのは、兄の側にいたい。そんな小さなことだけだったのに。
それなのに、儘ならない現実に、いつまでも涙は止まらなかった。
それからの日々は、どこか緊迫した空気が漂っていた。
兄はやはり、聖女と婚約したという。
その報告を聞かされた時、兄の頬はひどく腫れていた。
「お兄様、そのお顔……!」
驚くアリアンヌの傍らで、ヘレネが慌てて手当てを始める。
兄はそんなヘレネにされるがままになりながら、困ったように笑う。
「陛下から、少し叱責を受けてね」
その言葉を聞いた瞬間、アリアンヌの胸に怒りが湧く。
兄の麗しい顔になんてことをするのだろう。父に対する怒りは、抑えようとしても抑えられなかった。もっとも、アリアンヌがどれほど怒ったところで、何かが変わるわけではない。ただ、兄の腫れた頬を見つめることしかできなかった。
それから、兄と聖女が婚約してから間もなく、聖女は巡礼の旅に出されたらしい。
兄から聞いた話では、父は始めからそのつもりだったという。聖女を皇城に住まわせるつもりも、本当に兄と結婚させるつもりもなかった。ただ、この騒動を収めるために利用しただけで。
そして此度の騒動の当事者の一人として、聖女を巡礼の旅へ送り出した。利用された聖女が少し可哀想だと思わなくもないけれど、もとを正せば聖女が原因と聞く。ならば、それも仕方のないことなのだろう。
そのすぐ後に、父は後妻として一人の側妃を迎えたらしい。
そのことを兄から聞かされた時、兄の表情はひどく強張っていた。
それからというもの、兄はできる限りアリアンヌと一緒にいてくれるようになった。以前のように無邪気にはしゃぐことはできない。会話もあまり続かない。
それでも、アリアンヌは兄と一緒にいられるだけでよかった。それだけで、アリアンヌは幸せだった。
手を繋いで皇女宮の中庭を散歩したり、ガゼボで並んで昼寝をしたり。昔に戻ったようで、アリアンヌは嬉しかった。
今にして思えば、この頃の兄は、もう皇太子としての公務すらしていなかったのだろう。
……着々と、兄を排除する準備を、あの父は進めていたのだ。
そして、あくる日。
側妃が子供を産んだ。
――男児だった。
その報せを聞いたあと、兄から別れを告げられた。
「アリア。これから先、私は狙われる身となる。……ここに来ることは、もうないだろう」
「……お兄様」
涙が浮かんでくる。
けれど、もう「嫌です」と告げることは出来ない。自分も、もう十四歳になった。いつまでも子供のように我が儘を言うわけにはいかない。
それでも、兄に抱きつけば、兄はいつものように抱き返してくれた。これから先、もう兄と会えない。こんなふうに抱きしめてもらうことも、その温もりを感じることも、できなくなる。
それが悲しくて、寂しくて、仕方がなかった。
「アリア。アリアンヌ。私の可愛い妹。お前の幸いだけを、私は祈っているよ」
優しく告げられる言葉。優しく撫でてくれる手。
それらが失われてしまう。もう二度と、会うことができない。そう思うだけで、涙は止まらなかった。アリアンヌは、何も言うことが出来ずにいた。
やがて、兄がそっと抱擁を解く。部屋の扉へと向き直った兄は、ヘレネとデイルへ視線を向けた。
「ヘレネ、デイル。アリアンヌを頼む。……お前たちだけが、頼りなんだ」
そう言って、兄は二人に向かって、そっと頭を下げた。
皇族である兄が、頭を下げる。
「殿下、やめてください! そのように仰らずとも……っ」
慌てて止めるデイルに、ヘレネも必死に頷く。
「この忠誠は、殿下とアリアンヌ様のためにございます」
二人の言葉を聞いた兄は、しばらく黙っていた。
やがて、穏やかに笑う。
「ありがとう」
その笑みが、儚くて、とても綺麗だった。
兄が、もう一度アリアンヌの方へ向き直る。
そして。
「さようなら、アリア」
そう言って、兄はアリアンヌの頬に口づけを落とす。そのまま、兄は部屋を出ていった。
最後まで、アリアンヌは何も言うことができないでいた。ただ、涙を流しながら見送ることしかできなかった。
だって、声を出したらきっと言ってしまう。
――行かないで。わたくしの、側にいて。
そう言って、兄を困らせてしまうことが分かっていた。
だから、何も言えなかった。
泣き続けるアリアンヌに、ヘレネがそっと寄り添ってくれる。デイルも、何も言わず側にいてくれた。
それでも、アリアンヌの涙は止まらなかった。
それから、数日後。
――兄が亡くなった。
皇室からの発表では、病によるものと発表された。けれど、デイルが掴んできた情報によれば、兄は毒殺されたらしい。
そして皇女宮に一人の男性から面会の申し入れがあった。名は、アーネスト・アシュフォード伯爵。兄の話の中で、名前が上がった人物からだった。
実は側妃が男児を生んだ時点で、面会の申し入れはあったのだ。けれど、それを先延ばしにしたのはアリアンヌだった。しかし兄が亡くなったいま、会わなくてはならない。
「この度の婚姻は、あくまで皇女殿下をお守りするためのものです。皇女殿下は何もお気遣いなさらず、どうか心安らかにお過ごしください」
アシュフォード伯は、アリアンヌに挨拶をしたあとに兄に頼まれていると、そう告げた。形式上は婚姻を結ぶ。けれど、それは皇女宮にいるアリアンヌを外へ連れ出し、守るためのものだった。アシュフォード伯自身も、夫としてアリアンヌに何かを求めるつもりはないのだろう。兄が選んだ人だ。きっといい人に違いない。
けれど。
「ありがとうございます、伯爵」
アリアンヌは穏やかに微笑んだ。
「ですが、そのお申し出はお断りいたします」
「……え?」
驚いた声を上げたのは、アシュフォード伯だけではなかった。アリアンヌの後ろにいるデイルからも、驚いたような声が上がる。
けれど、ヘレネだけは違った。おそらく、こうなるのではないかと予想していたのだろう。
「皇女殿下。私は皇太子殿下から、殿下のことを託されております」
アシュフォード伯は、なおも言葉を重ねた。
「どうか、私に皇太子殿下への忠義を果たさせてください。皇女殿下を縛り付けるつもりは毛頭ございません。ただ、皇女殿下に穏やかにお過ごし頂きたいだけなのです」
デイルも必死に、アリアンヌを説得しようとする。
けれど、アリアンヌは決して頷かなかった。
「お気持ちは、とてもありがたく思います」
そう言って、アリアンヌは微笑む。
「けれど、わたくしはここに残ります」
「皇女殿下……」
「伯爵には迷惑をかけました。ですが、わたくしのために労を惜しむのではなく、どうかあなたの治める領民のために尽くしてください」
その言葉に、アシュフォード伯は口を閉ざす。
アリアンヌの表情を見れば分かる。もう、覚悟を決めているのだ。これ以上、何を言っても、その決意が変わることはない。そう悟ったのだろう。
それは、側で話を聞いていたデイルも同じだった。ヘレネは、ただ沈痛な面持ちでやり取りを見つめていた。
やがて、アシュフォード伯は深く頭を下げる。
「……承知いたしました、皇女殿下」
それ以上は何も言わず、臣下としての礼を取ると、アシュフォード伯は皇女宮を後にした。
その背中を見送ったあと、アリアンヌはヘレネとデイルへ向き直る。
「お二人も逃げてください」
「……殿下?」
「これから、この宮は平和ではなくなります」
アリアンヌは静かに告げた。
「ですから、どうかお二人は逃げてください」
ヘレネとデイルまで危険に晒すわけにはいけない。
兄がいなくなって、ヘレネとデイルまでいなくなる。そのことは、とても寂しい。しかし、命には代えられない。だから二人が無事でいてくれるなら、寂しさなんて我慢できる。アリアンヌはそう考えていた。
けれど。
「どこまでも、お供いたします。それが、アレクシス様との約束でもありますから」
迷いのない声で、デイルがそう告げる。
ヘレネもまた、覚悟を決めた目で頷いていた。
「……そうですか」
二人の言葉に、アリアンヌは悲し気に笑う。
嬉しいと思ってしまう自分を情けなく思いながら。それでも、最後の日まで二人と一緒にいられることが嬉しかった。
そして、それから三日後。
アリアンヌは兄と同じ毒を盛られ、この世を去った。
まだ十四歳の、秋の日の出来事だった。




