1回目の人生 ①
アリアンヌ視点の話です。
それから、月日は流れた。
アリアンヌが十一歳、兄が十七歳となり、学園での最終学年を迎える少し前のことだった。
その日もアリアンヌは皇女宮で兄が訪ねてくるのを待っていた。生まれてこの方、アリアンヌは皇女宮から外へ出たことがない。父である皇帝に疎まれている自分が、皇女宮の外へ出て、皇帝と会ってしまえばどうなるか分からないからだ。そのことを兄によく言い聞かせられていたし、物事が理解できるようになれば、それが最善であることも分かっている。だからアリアンヌは皇女宮から出歩かないことにしていた。
そんな兄とは、彼が学園へ通うようになってからは会える時間も少なくなった。それでも兄は、時間を見つけては皇女宮を訪れてくれていた。
今日も兄が来てくれる。
そう思いながら待っていると、やがて扉が開いた。
「アリア、今日の調子はどうだい?」
「お兄様! 今日は大丈夫です」
兄の姿を見つけ、アリアンヌは嬉しそうに微笑んだ。
「今日は少し話したいことがあるんだ」
「……?」
いつもとは少し違う兄の様子に、アリアンヌは首を傾げる。
兄はアリアンヌの向かいに腰を下ろすと、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「実は、皇帝陛下から命じられて、聖女の世話をすることになったんだ」
「……聖女?」
アリアンヌは目を瞬く。
――聖女。
その言葉に覚えがないわけではない。
けれど、どうして兄がそんな話をするのだろう。
「うん。聖女が見つかったんだ」
「……え?」
アリアンヌは思わず兄を見つめた。
聖女が見つかった。
けれど――。
「……お兄様?」
「何だい?」
「聖女は……、わたくしではないのですか?」
アリアンヌがそう尋ねると、兄は一瞬だけ目を伏せた。
「そうだよ」
「……?」
「本物の聖女はアリアだ」
「では……?」
「あちらは偽物だ」
あまりにもあっさりと言われて、アリアンヌは言葉を失った。
――偽物。
では、なぜ兄はその偽物の聖女の世話をするのだろう。
アリアンヌが黙っていると、兄は静かに続けた。
「アリアのことを、知られるわけにはいかないからね」
「……はい」
「もし、アリアが本物の聖女だと知られてしまったら、教会にアリアを引き渡さなければならなくなるかもしれない」
その言葉に、アリアンヌの胸がきゅっと締めつけられた。
兄と離される。幼い頃から、それだけは絶対に嫌だった。
「だから、このまま偽物には聖女でいてもらおうと思っている」
「…………」
アリアンヌは兄の顔を見つめる。頭の中では、疑問がいくつも浮かんでいた。
どうして偽物の聖女がいるのだろう。
どうして、兄がその人の世話をしなくてはいけないのだろう。
そして、どうして兄は、そんなことを知っているのだろう。
そう、疑問は尽きなかった。
けれど、兄がそうしなければならないと言うのなら、きっとアリアンヌには分からない理由があるに違いない。そう思うことにした。
だから。
「……分かりました」
アリアンヌは素直に頷いた。
「お兄様がそうお考えなら、わたくしは何も言いません」
「ありがとう、アリア」
兄が微笑む。
その顔を見て、アリアンヌも微笑んだ。
◇
兄が最終学年に上がってから、以前にも増して会える時間が少なくなった。
最終学年なのだから仕方がない。そう自分に言い聞かせて、我慢しなければと思う。けれど、寂しいものは寂しかった。
それでもアリアンヌは、兄に言われた通り皇女宮から出ることなく日々を過ごしていた。兄が来てくれるのを楽しみにしながら、今日もいつもと変わらない一日を過ごす。
けれど、いつからか。
そんな日々が少しずつ変わっていった。
「お兄様……?」
訪れた兄の顔を見て、アリアンヌは心配そうに眉を寄せた。
「何だい?」
「……お疲れではありませんか?」
以前よりも、兄が疲れているように見える。
自分に会いに来てくれるのは嬉しい。けれど、無理をさせているのではないかと思うと、素直に喜べなかった。
「大丈夫だよ」
兄はそう言って笑う。
けれど、その笑顔にもどこか疲れが滲んでいる。アリアンヌは、それ以上何も言えなかった。
だからこそ、兄が学園を休んでまで皇女宮に来るようになったことには驚いた。
「お兄様、今日は学園は……?」
「休んだよ」
「……どうしてですか?」
アリアンヌの問いかけに、兄は少しだけ遠い目をした。
「……少し、疲れてしまってね」
「お身体の具合が悪いのですか?」
「身体は大丈夫だよ。ただ……」
兄は小さく息を吐いた。
「あまりにも、聖女に話が通じなくてね」
兄の言葉に、アリアンヌは目を瞬く。
「話が……、通じない?」
「うん」
兄は疲れ切った顔で頷いた。
「何を言っても、自分の都合のいいように受け取るんだ。何度説明しても、聞く耳を持たないし……」
「…………」
アリアンヌは黙って兄を見つめた。
兄をここまで疲れさせる。いったい、どれほど話が通じない人なのだろう。そう思うと、なんだか腹が立ってきた。自分の大切な兄を困らせて、疲れさせるなんて。
けれど、その一方で。
――ある意味、すごい人なのかもしれません……。
あの兄が、学園を休むほど疲弊している。それほどまでに話が通じないというのなら、それはそれで一体どんな人なのだろうと、少しだけ興味が湧いてしまった。
「……大変でしたね、お兄様」
「うん。本当にね」
兄が苦笑する。そんな兄の姿を見ながら、アリアンヌは胸の奥で小さく喜んでいた。偽りの聖女には腹が立つ。けれど、そのおかげで、兄がこうして自分の傍にいてくれる時間が増えた。
それだけは、少し嬉しかった。
しばらくは、そんなふうに兄が自分を気にかけてくれる日々が続いた。
学園へ登校しても、アリアンヌが体調を崩したと聞けば、兄は途中で帰ってきてしまう。
「お兄様、わたくしは大丈夫ですから。学園へ戻ってください」
そう告げても、兄は楽しそうに笑うだけだった。
「大丈夫だよ。アリアが体調を崩したことを、帰宅する言い訳にできるからね」
「でも……」
さすがに、それでは兄に申し訳ない。そう思って何度も言ったけれど、兄は気にする様子もなかった。もちろん、兄には皇太子としての公務もある。皇城へ戻ってきたからといって、ずっとアリアンヌの傍にいてくれるわけではない。
それでも、以前よりも兄と一緒に過ごせる時間が増えた。少しだけ、そのことを喜んでしまった。
けれど、そんな日々も長くは続かなかった。
いつからか、兄は再び忙しそうにするようになった。
学園から帰ってきても公務に追われ、以前のように長くアリアンヌの傍にいてくれることも少なくなっていた。また兄と過ごせる時間が減ってしまった。寂しいと思いながらも、アリアンヌは何も言わずに兄を見送ることしか出来ないでいた。
それから。
兄の様子が少しずつ変わっていった。難しい顔をしていることが増えた。時には今まで見たことがないほど怖い表情をしていることもある。
そんな兄と目が合うと、兄はハッとしたように表情を戻す。
「……すまない、アリア」
「お気になさらないでください」
そう言って微笑めば、兄はどこかすまなそうに笑い、アリアンヌの頭を優しく撫でてくれる。
何か悩んでいるのだろうか。
そう思ったけれど、アリアンヌには何も聞けなかった。
やがて兄が卒業する日も近づいてきた。
重くなりがちな空気を変えるように、アリアンヌは話題を変える。
「そういえば、お兄様。そろそろ卒業が近くなってきましたね」
「そうだね」
「卒業パーティーでは、どんなお召し物を着るか、もうお決めになったのですか?」
「……いや」
「まあ」
アリアンヌは楽しそうに笑う。
「ロザリアお義姉さまとお互いの差し色をいれるのでしょうか? それとも、お揃いのお色かしら?」
兄とロザリア。
二人が並んでいる姿を想像すると、なんだか楽しみだった。
けれど、兄は困ったように笑う。
「卒業パーティーはね、欠席する予定なんだ」
「……え?」
思いもよらない答えに、アリアンヌは目を瞬いた。
「そうなのですか?」
「うん」
「それは……、残念ですね」
そう答えながら、アリアンヌの胸の奥には言いようのない不安が広がっていく。
卒業パーティーを欠席するなんて、ただ事ではない。それなのに兄は欠席すると言う。その言葉を聞いた瞬間、アリアンヌの胸の中には、嫌な予感が渦巻いていた。
アリアンヌの前でさえ、兄は難しい表情をするようになった。張り詰めた雰囲気。何かに悩んでいるような様子。
それが、ここ最近ではずっと続いていた。今までにない兄の様子に、不安に思いながらもアリアンヌは見ていることしかできなかった。
そうして迎えた、兄の卒業式の日。
アリアンヌは嫌な予感を抱えたまま兄を見送った。
「お兄様、少し早いですが、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう、アリア」
兄はいつものように微笑んでくれる。
卒業パーティーを欠席するほど忙しい兄が、今日、この日に自分のところへまた来てくれるとは思えない。だから今日はもう、兄には会えないだろう。そう思っていたから、兄がこの日、再び顔を見せに来てくれなかったのは仕方がないことだと理解していた。
けれど、兄は卒業してから二週間、アリアンヌのもとを訪ねてくることはなかった。
今までどれほど忙しい日でも、皇城にいるときは一日に一度は必ず顔を見せてくれていた。それなのに、兄が来ない。代わりとでも言うように、毎朝花が届けられるようになった。綺麗ではあるけれど、アリアンヌが欲しいのは兄との時間である。
けれど、それよりも。
寂しさや悲しさよりも先に、アリアンヌの中では不安に思う気持ちのほうが強くなっていた。
――お兄様に、何かあったのではないでしょうか。
そんな不安を抱えたまま、淡々と日々が過ぎていった。




