幼少期
アリアンヌ視点の話です。
物心がついた頃には、アリアンヌはすでに父から憎まれていた。
「お前さえ生まれてこなければ」
父である皇帝から向けられる言葉は、幼いアリアンヌにはあまりにも重かった。
何か失敗をすれば罵られ、何もしていなくても顔を見るだけで不快そうに眉を顰められる。身体が弱く、起き上がることもできずにベッドで寝ていれば、「役立たず」「駒にもできぬ、使えない奴め」などと罵られた。
なぜ自分がそんな扱いを受けるのか、幼いアリアンヌには分からなかった。
――わたしは、お父さまに嫌われてる。
それだけは、幼いながらにも分かっていた。
そんなアリアンヌをいつも庇ってくれたのが兄だった。
「父上、アリアンヌは悪くありません」
父に叱られるたびに、兄はアリアンヌの前に立ってくれた。
「アリアンヌが何かしたというのであれば、僕が代わりに謝ります」
まだ幼い兄の背中は決して大きくはなかった。それでも、アリアンヌには何よりも頼もしく見えた。
父が去った後には、必ず兄が傍にいてくれた。
「怖かった?」
そう尋ねて、泣きそうになっているアリアンヌの頭を優しく撫でてくれる。
「大丈夫だよ。僕がいるからね」
その言葉を聞くたびに、アリアンヌは安心した。
兄はいつもアリアンヌを気にかけてくれていた。身体の弱いアリアンヌが少しでも咳をすれば、すぐに侍女を呼んでくれる。食事を残せば、「具合が悪いの?」と心配してくれる。一人で寂しくしていれば、忙しいはずなのに時間を作って会いに来てくれた。
父に愛されることのなかったアリアンヌにとって、兄だけが自分を大切にしてくれる人だった。
だから、アリアンヌは兄が大好きだった。自分を守ってくれる兄が。いつも自分を見ていてくれる兄が。
アリアンヌにとって、兄は世界で一番大切な人だった。
ある日、いつものように父から罵られた後。
アリアンヌは自分の部屋に戻ると、ベッドの上で膝を抱えた。
――お父さまは、なんでわたしのことが嫌いなんだろう。
何度考えても分からない。けれど、分かっていることもあった。
父がいつも言っていた。
『お前がいなければ』
『お前を生んだせいで、妻は――』
その言葉を思い出すと、胸が苦しくなる。
膝に顔を埋めて泣いていると、兄が部屋を訪れてきた。
部屋の中に入って来る兄の姿を見て、アリアンヌは小さな声で呼びかける。
「……お兄さま」
「どうしたの、アリア?」
兄は心配そうな表情をして、アリアンヌのベッドに腰かける。
目元をそっとハンカチで拭ってくれる優しい手に、後から後から涙が零れていく。
「わたしのせいで、お母さまは死んじゃったの?」
「え……?」
尋ねた瞬間、兄の顔から笑みが消えた。
アリアンヌは俯いて、ぎゅっと自分の服を握る。
「お父さまが言ってたの……。わたしがいなければ、お母さまは死ななかったって……」
「違うよ」
兄はすぐに否定した。
けれど、アリアンヌには兄の言葉が信じられなかった。
――だって、じゃあ、なんでお父さまは、わたしのことを嫌ってるの?
俯いて涙を流すアリアンヌに向けて、兄が先ほどよりも強い声で告げる。
「アリアのせいじゃない」
「でも……」
「アリアは何も悪くない」
兄はそう言って、アリアンヌの小さな手を握った。
「アリアは、母上から生まれてきただけだよ」
「……生まれてきただけ?」
「うん」
兄は優しく頷いてくれる。
そして。
「生まれてきただけの子供に、罪なんてない」
その言葉を聞いて、アリアンヌはゆっくりと顔を上げた。
「……ほんとう?」
「本当だよ」
兄は迷うことなく答えた。
「父上があんなことを言うのは、父上の心が弱いからだよ」
「こころが……よわい?」
「うん。母上がいなくなったことが、悲しくて、辛くて……。その気持ちを、自分だけでは抱えきれないんだと思う」
兄は少しだけ悲しそうな顔をした。
「だから、アリアのせいにしてるだけなんだ」
「……わたしのせいじゃ、ない?」
「絶対に違うよ」
兄は力強く頷いてくれる。
「アリアは何も悪くない」
その言葉を聞いているうちに、アリアンヌの目に再び涙が溜まっていく。
「……お兄さま」
「なんだい?」
「わたし、悪くない?」
「うん。悪くないよ。絶対に、アリアは悪くない」
兄はアリアンヌの頭を優しく撫でた。
「だから、もうそんなこと考えなくていいからね」
「……うん」
「もし、同じように考えてしまうことがあったら、また僕に言うんだよ? そうしたら、その度にアリアは悪くないって、僕が言うから」
「うん……。うんっ」
アリアンヌは涙を拭って、小さく頷いた。
兄に抱きつけば、抱き返してくれる。その腕が、とても温かかった。
――お兄さまが、そう言ってくれるなら。
わたしは、きっと悪くない。
そう思うことが出来た。
◇
それから、月日が流れた、ある日のこと。
アリアンヌは自分の部屋で、兄と一緒におやつを食べていた。いつものように他愛のない話をしながら、穏やかな時間を過ごす。
けれど、突然。
「お兄さま……?」
目の前にいた兄が、口元を押さえた。次の瞬間、その手の隙間から赤いものが零れ落ちる。
「……え?」
兄の身体がぐらりと傾く。
「お兄さま!」
椅子から立ち上がる間もなく、兄は床へと倒れた。慌てて駆け寄り、倒れた兄の身体に縋りつく。
「お兄さま、どうしたのっ?」
返事がない。
いつもアリアンヌが呼びかけると、笑って返事をしてくれるのに。兄の顔は真っ青で、呼吸も苦しそうだった。
アリアンヌの胸が、ひどくざわめく。
「お兄さま……?」
何度呼びかけても、兄は目を開けない。
衣服を真っ赤に染め、次第に呼吸も小さくなっていく。
――どうして? なにが起こってるの?
どうしたらいいのか分からない。
このまま、兄が死んでしまったら。
そんな考えが頭を過った瞬間、涙が溢れた。
「いや……、お兄さま」
大好きな兄が死んでしまう。そんなの、嫌だった。
兄がいなくなったら、アリアンヌは一人になってしまう。父は自分を嫌っている。自分のことを大切にしてくれる人は、兄しかいない。
「お兄さま、死んじゃいや……」
震える手で兄の手を握る。
いつもだったら握り返してくれるのに、今は握り返してくれない。
「お願い……、死なないで……」
温かい手がなくなってしまうかもしれない。
そのことが、とても怖かった。
「わたしを、一人にしないで……」
涙が頬を伝い、ぽろぽろと落ちていく。
アリアンヌが泣けば、いつも心配そうに「どうしたの?」と聞いてくれる。
それなのに、兄は目を瞑ったまま、動くことも、声を掛けてくれることもない。
「いや……っ、置いて、いかないで……っ」
兄の手を自分の額に当て、祈るように強く願う。
一人にしないで。置いていかないで。
――お願い、死なないで。
そう願った、次の瞬間だった。
「……え?」
兄の手を握っていたアリアンヌの手が、突然、眩い光に包まれた。
何が起きたのか分からない。
ただ、温かな光が二人の身体を包み込んでいく。
「お兄さま……?」
光の中で、兄の身体が僅かに動いた。
やがて兄はゆっくりと目を開ける。
「……アリ、ア?」
「お兄さま!」
掠れた声だった。けれど、確かに兄が自分を呼んだ。
真っ青な顔をした兄が、驚いたようにアリアンヌを見つめている。
けれど、兄が目を覚ましたことが嬉しくて、アリアンヌは泣きながら兄に抱きついた。
「よかった……!」
兄が生きている。そのことが、とても嬉しかった。
けれど、アリアンヌの身体には異変が起きていた。急に身体が重くなり、手足の節々が痛む。
「……いたい」
どうしてこんなに苦しいのか、アリアンヌには分からない。
――なんだか、からだがいたい……。
それでも。
兄が目を覚ましてくれた。
それが嬉しくて、アリアンヌは自分の身体に起きていることなど気にも留めなかった。
それから。
安心して泣き出したアリアンヌがようやく泣き止み、落ち着きを取り戻した頃。
兄は先ほどまでとは違う顔をしていた。真っ青な顔で、ひどく怖い表情をしている。
「アリア」
「なあに、お兄さま?」
先ほどまで倒れていた兄が、自分を呼んでくれるのが嬉しくて。ニコニコしながら兄を見る。そうしたら、兄はしばらく何かを迷うように黙っていた。
やがて、アリアンヌの手を握ると真剣な表情で告げる。
「さっきのこと、……誰にも言っちゃ駄目だよ」
「さっきのこと?」
「アリアが使った力のこと」
兄の声は、いつになく強かった。
「絶対に、誰にも言っちゃ駄目だよ。分かった?」
「……う、うん」
「僕との約束だよ」
そう言って、兄は小指を差し出した。
アリアンヌは小さな小指を兄の指に絡める。
「うん、約束する」
「絶対だよ」
「うん。ぜったいに、誰にも言わない」
アリアンヌが返事をすると、兄が少しだけ安心したように息を吐く。アリアンヌには、兄がどうしてこんなに怖い顔をしているのか分からなかった。
けれど、大好きな兄が誰にも言わないでと言った。だから、アリアンヌは絶対に誰にも言わないようにしようと決めた。
この力のことは、誰にも言わない。
それは、大好きな兄との大切な約束だったから。
その後、アリアンヌは意識を失った。
兄が無事だったことに安堵したからでもある。けれど、本当の理由は別にあった。力を使ったことで、アリアンヌの身体がその負荷に耐えられなかったのだ。
それから一週間ほど、アリアンヌは高熱にうなされることになった。
そして、ようやく目を覚ましたアリアンヌは、兄が自分と同じように倒れたことを知らされた。今も面会謝絶となっていると聞き、兄に会いたいと願いながらも、アリアンヌは兄が早くよくなるようにと祈ることしか出来なかった。
そんなアリアンヌが、ようやく兄に会えたのはそれから二週間以上が経ってからのことだった。
久しぶりに会った兄は、以前と変わらぬ優しい笑顔を浮かべていた。そしてアリアンヌに、ヘレネ・トレヴィスという専属の侍女がつくことを告げる。栗色の髪に黒い瞳をした、優しそうな女の人だった。
これからは、兄かヘレネが用意したもの以外は、決して口にしてはいけない。絶対に、何があっても、この二人以外から受け取ったものは口にしてはいけないよ。
そう、あの時と同じように怖い顔で、兄はアリアンヌに言い聞かせた。
「分かった?」
「うん」
理由は分からない。けれど、兄が言うのなら。そう思って、アリアンヌは素直に頷く。
それからしばらくして、アリアンヌにはもう一人、兄が傍につけてくれた人がいた。
デイル・キュアリーという護衛騎士だった。
兄よりもずっと年上で、茶色の髪と茶色の瞳を持ち、頬にはそばかすがある。初めは少し怖い人なのかと思っていたけれど、話してみれば優しくて、いつもアリアンヌのことを気にかけてくれた。いつも危険がないようにと、傍で守ってくれている。
ヘレネと同じように、デイルもまた兄がアリアンヌのために選んでくれた人だった。アリアンヌはそんな二人のことも、一緒にいるうちに大切に思うようになっていった。
数年後。
アリアンヌが物事を理解できるようになった頃、兄からあの時の力について教えられた。
あの時、自分が使った力が聖女の力であること。
そして、自分が『聖女』なのだということ。
そのことを教えてくれた。
けれど、もしこのことが知られれば、教会に引き渡される可能性があること。そうなれば、兄と引き離されてしまうかもしれない。それだけではなく、アリアンヌの身体は聖女の力に耐えられず、力を使えば強い負荷がかかってしまうのだという。だから、絶対にこのことは隠し通されなければならない。兄からそう言い聞かされて、アリアンヌは頷いた。兄と引き離されるのは、絶対に嫌だったから。
――絶対に、誰にも言わない。隠し通そう。
ただでさえ、よく熱を出し、起き上がれないアリアンヌのことを兄は心配してくれている。これ以上、兄に心配をかけたくなかった。
だから、できるだけ力を使わないようにしよう。
アリアンヌは、そう心に誓った。




