2回目の人生 ③
ロザリア視点の話です。
それからも、ロザリアとクロードは何度も言葉を交わした。
庭園で顔を合わせれば、自然と隣に座る。
気付けばロザリアにとってクロードと話す時間は、決して珍しいものではなくなっていた。
そして、ある日のことだった。
「ロザリア」
いつものように庭園のベンチに座っていると、不意にクロードが声を潜めた。
「何ですの?」
ロザリアが首を傾げると、クロードは周囲を一度見回す。誰もいないことを確認してから、どこか楽しげに、にやりと笑う。
「実はな」
「はい」
「俺がこの国へ来た理由は、学園へ通うためだけではない」
その言葉に瞬きをする。
「……と、おっしゃいますと?」
「婚約者を探すためでもある」
「まあ」
思わず、ロザリアは目を見開いた。
「婚約者を……?」
「ああ」
「ですが、クロード王太子殿下には、すでに婚約者がいらっしゃったのでは?」
そこまで口にしてから、はっとする。
「……失礼いたしました。サラザール様」
クロードは気にした様子もなく、僅かに肩を竦めた。
「別に構わん」
そして、先ほどまで浮かべていた笑みを消す。
「まだ、正式には発表されていない」
「……なにがですの?」
「俺の婚約者は、半年前に亡くなった」
ロザリアの表情が変わる。
「……まあ」
その言葉しか出てこなかった。
「病だった。長く患っていたわけではないが、急なことだった」
クロードの声は静かだった。けれど、クロードの沈んだ表情を見て、婚約者を失ったことを軽く考えているわけではないことが分かる。
「申し訳ございません。存じ上げず……」
「知らなくて当然だ。まだ公表していない」
「なぜですの?」
ロザリアが尋ねると、クロードは僅かに目を細めた。
「南部の動きがおかしい」
その一言で、ロザリアは察した。アストリア王国の南部。そこには、王家と対立する貴族たちがいる。以前から完全に友好的とは言えない勢力だと、ロザリアも知っていた。
「この状況で、王太子の婚約者が亡くなったと公表すればどうなると思う?」
「……政略的な動きが活発になりますわね」
「そうだ」
クロードは頷いた。
「誰を次の婚約者にするのか。その座を巡って、余計な争いが起きる」
「だから、まだ発表していらっしゃらないのですね」
「ああ」
「それで……、他国から?」
「今のアストリア王国の貴族の勢力を考えれば、その方が一番いい」
クロードはロザリアを見た。
「国内のどこかの家から妃を迎えれば、必ずどこかが不満を抱く」
南部、王家に近い貴族、中立の貴族。それぞれの勢力がある。その中の一つを選べば、他の勢力との均衡が崩れる。
「他国の令嬢を迎えれば、その争いから距離を置ける」
「……なるほど」
ロザリアは小さく頷いた。政治的な意味では、確かに理にかなっている。
そして、クロードがこの帝国へ留学している理由も、今になってようやく別の意味を持って見えた。
「だから、俺はここへ来た」
クロードの赤い瞳が、ロザリアを捉える。
「……なぜ、わたくしにそのお話を?」
「ああ」
口元に笑みを浮かべ、クロードは告げた。
「どうだ。お前、俺の婚約者にならないか?」
「…………え?」
思わず驚いたような声が漏れてしまう。そんなロザリアに、クロードは楽しそうに眉を上げる。
「そんなに驚くことか?」
「……驚きますわ」
呆然とクロードを見る。
婚約者。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。クロードの、婚約者。
「……なぜ、わたくしなのですか?」
ようやく、それだけを尋ねた。
「お前と話していて、悪くないと思った」
「まあ」
「政治の話も出来る。アストリアのことも理解しようとする」
クロードは指を折るように言葉を続ける。
「俺の意見に、ただ頷くだけでもない」
「それは……」
「それに」
一度言葉を切り、クロードは僅かに口元を緩めた。
「お前はこれまで皇太子妃となるための教育を受けてきた」
ロザリアは黙って彼を見る。
「王太子妃に必要な知識や礼儀作法は、すでに身に付いているだろう。外交についても理解している」
クロードはあっさりと告げた。
「一から王太子妃教育を施す手間が省ける」
「まあ」
あまりにも率直な言い方に、ロザリアは思わず眉を寄せた。
「随分と合理的なお考えですこと」
「王太子だからな」
悪びれる様子もない。
けれど。
「……だが、それだけじゃない」
その言葉に、ロザリアは瞬きをした。クロードは真っ直ぐにロザリアを見て。
そして一言、告げる。
「俺が、お前を気に入った」
ロザリアの呼吸が、一瞬だけ止まった。
「…………」
「何だ。その顔は」
「いえ……」
あまりにも率直に言われて、言葉が出てこない。
「ですが、サラザール様は、わたくしがアレクシス皇太子殿下の婚約者であることをご存じでしょう?」
「ああ」
「それでも、このようなお話を?」
「そうだな」
クロードは一度だけ視線を遠くへ向けた。
「だが、お前を奪うなら今が一番いい機会だ」
「……何ですって?」
「お前はアレクシス皇太子の婚約者だ」
クロードは再びロザリアへ視線を戻し、にやりと嗤う。
「だが、まだ婚姻していない」
赤い瞳が、楽しげに細められた。
「婚約など、壊れることもある」
「まあ」
「そしてお前をアストリアへ連れて行けば、帝国を崩すことも出来る」
クロードはどこか愉快そうに続けた。ロザリアの表情が僅かに強張る。クロードの言葉の意味を、ロザリアは理解してしまったのだ。
ヴァレンティア公爵家。帝国における筆頭公爵家だ。その娘が隣国の王太子の妃となる。それは帝国にとって決して小さな出来事ではない。
アレクシスとロザリア。将来、帝国を支えるはずだった二人の結び付きが失われる。皇太子妃として長年教育を受けてきた人間を隣国へ奪われる。それだけでも、帝国にとっては大きな損失となる。
そしてアストリア王国にとっては、帝国の内情を知る人間を王太子妃として迎え入れることが出来る。
――この方は。
ロザリアは、静かにクロードを見つめた。
最初から、そんな可能性まで考えていたのだ。
「……まあ」
思わず小さく息を吐く。
「わたくしを口説きながら、帝国の弱体化まで考えていらっしゃるのですね」
「王太子だからな」
クロードは、先ほどと同じ言葉を返した。その口元には隠す気のない笑みが浮かんでいる。
ロザリアはしばらくクロードを見つめていた。
――恐ろしい方ですわね。
けれど不思議と、そのことを嫌だとは思わなかった。
王太子なのだから自国の利益を考えるのは当然のことだ。その上で、「お前を気に入った」とロザリアに告げた。その言葉が、ロザリアの胸に残る。
「……すぐには、お返事出来ませんわ」
「別に、今すぐ答えろとは言っていない」
クロードはあっさりと告げる。
「考えておけ」
その言葉に、ロザリアは顔を上げた。
「お前にとっても、簡単な話ではないだろう」
「……そうですわね」
「俺は急がん」
クロードはベンチから立ち上がった。
そして。
「すぐに答えを出す必要はない。ゆっくり考えろ」
ロザリアを振り返り、クロードの赤い瞳が真っ直ぐにロザリアを見つめていた。
「ロザリア・ヴァレンティア」
ロザリア自身へ向けるように、クロードがその名前を呼ぶ。
「俺はお前を歓迎する。お前となら、共に歩んでいけると思っている」
そう言ってクロードはゆっくりと庭園を去っていく。
一人残されたロザリアは、しばらく動けなかった。
◇
クロードから婚約の話を持ち掛けられてから。
ロザリアは、何度もその言葉を思い返していた。
――俺の婚約者にならないか?
簡単に答えを出せる話ではない。
アストリア王国へ行く。それはつまり、この帝国を離れるということだ。生まれ育った国を、これまで自分が生きてきた場所を、そしてヴァレンティア公爵家を、すべて置いていく。
――本当に、それでよろしいのかしら。
廊下を歩きながら考えていた。
アストリア王国の王太子妃になる。それは決して悪い話ではない。むしろ前の人生で目指していた皇太子妃という立場に、別の国で就くことになる。それ自体は大して変わらないような気がした。
それでも、帝国を離れるという決断はあまりにも大きかった。
「アレクシス様!」
不意に聞き慣れた声が響いた。反射的に顔を上げると、少し先にアレクシスがいた。そしてそのすぐ隣には、リリアーナ・ベルナールの姿がある。
「アレクシス様、聞いてください!」
楽しそうな声。リリアーナがアレクシスの腕へ手を伸ばそうとしている。その光景を見て、ロザリアの眉がぴくりと動いた。
前の人生なら、その姿を見ただけで胸が締め付けられていただろう。
けれど、今は。
――もう、いりませんわ。
その言葉が、驚くほどあっさりと浮かんだ。胸が痛むこともなかった。むしろ清々したくらいだ。
けれど、前回のことを考えればわずかに腹が立った。前の人生ではあれほど彼のことで悩み、苦しみ、最後にはすべてを失った。
それなのに、今回の生でも今もなお目の前では何事もなかったかのように、リリアーナがアレクシスの隣にいる。
――本当に、もう結構ですわ。
ロザリアはすっと視線を逸らす。アレクシスはもういい。彼を諦めることに、今度こそ迷いはなかった。
けれど、問題はそれだけではない。アストリア王国へ行くということは、帝国を捨てるということだ。その事実が、再びロザリアを悩ませる。
――帝国を、捨てる。
その言葉を思い浮かべた瞬間、不意にある光景が脳裏へ蘇った。
◇
『なんということを仕出かしたんだ!』
貴人牢の中に怒鳴り声が響く。
面会を許され、牢の中に入って来たのはロザリアの父であるヴァレンティア公爵、その人だった。
『お前は一体何を考えている!?』
ロザリアはただ黙って聞いていた。
『聖女の暗殺など! しかも失敗するだと?!』
父は怒っていた。怒っているだけで、悲しんでいるようには見えない。
『これでヴァレンティア公爵家は終わりだ!』
顔を真っ赤にして怒鳴り散らすその姿は、ロザリアの知る父とはまるで別人のようだった。
幼い頃から父はロザリアを可愛がってくれていた。美しいドレスを贈ってくれ、勉学で成果を出せば褒めてくれた。皇太子妃となるための教育にも、惜しみなく力を注いでくれた。
だからロザリアは父の愛を疑ったことはなかった。
――けれど。
あの日、処刑を待つ牢の中にいた自分を前にして、父が口にしたのはヴァレンティア公爵家の行く末だけだった。ロザリアが死ぬことを悲しむ言葉ではない。助けようとする言葉でもない。
『何のために、お前をアレクシス皇太子殿下の婚約者にしたと思っている!』
その言葉を父は何度も繰り返した。
もしかすると父が愛していたのは、ロザリア・ヴァレンティアという一人の娘ではなかったのかもしれない。筆頭公爵家の娘として、誰よりも優秀で、誰からも非難されることのない、皇太子妃となるに相応しい完璧な公爵令嬢。
父が愛していたのは、そんな『理想の娘』だったのではないだろうか。そしてその理想から外れた瞬間、ロザリアは父にとって愛する価値すら失った。そういうことだったのかもしれない。
父はヴァレンティア公爵家のことだけを心配していた。そしてロザリアを罵るだけ罵って、父は去って行ったのだ。
最後まで父は、労わるような言葉を掛けてくれることはなかった。
◇
ロザリアはゆっくりと目を伏せた。
――そうでしたわね。
前の人生。自分が死ぬ前に、父は最後までロザリアのことを心配しなかった。自分が犯した罪を考えれば、助けてくれなかったことを責めるつもりはない。そんな資格がないことくらい、分かっている。
けれど。
――わたくしが死ぬという時に、ほんの少しでも、わたくしのことを考えてくれたのでしょうか。
……答えは、もう知っている。
ロザリアはゆっくりと息を吐く。
――決めましたわ。わたくしには、どれもみな不要なものですわね。
そう、決意する。
帝国を捨てる。ヴァレンティア公爵家を捨てる。その決断は、先ほどまではとても重かった。
けれど今は。
――何を迷っていたのでしょう。
そう思えることが出来た。
ふっと口元を緩める。アレクシスを、帝国を、ヴァレンティア公爵家を、捨てる。それが前の人生で得たものすべてを捨てるということなら。
――それで、よろしいではありませんの。
次は絶対に間違えないと決めた。ならば、前の人生で自分を縛り付けていたものを、いつまでも抱えている必要などない。
ロザリアは顔を上げた。そして先ほどまでアレクシスとリリアーナがいた方角を、もう一度だけ見る。
――どうぞ、ご自由になさって。
今度は本当に、何も感じなかった。
「……綺麗さっぱり、全部捨ててしまいましょう」
その声は驚くほど晴れやかだった。




