1回目の人生 ②
ロザリア視点の話です。
次の日から、令嬢たちがリリアーナへ嫌がらせを始めたことは、ロザリアも知っていた。だからこそ、表向きには彼女たちを諫めていた。
「皆様。どうか、そのようなことはおよしになってくださいませ」
そう告げれば、令嬢たちは不満そうな表情を浮かべる。
「ですが、ロザリア様……」
「皆様のお気持ちは分かりますわ」
ロザリアは困ったように微笑む。
「ですから、わたくしも何度も注意しておりますの」
そこで一度、言葉を切って。
そうして。
「……あの方たちには、聞き入れていただけませんけれど」
ほんの少しだけ悲しげに笑う。
そうすれば令嬢たちの表情が変わる。
――ロザリア様はきちんと止めようとなさっている。それなのに、あの方たちはロザリア様のお言葉をお聞きにならない。
そう思ったのだろう。
「……まあ」
「そんな……」
「ロザリア様が、そこまで仰っているのに……」
ロザリアの悲し気な笑みを見て、令嬢たちが怒りの表情を浮かべる。そして令嬢たちがリリアーナへ向ける視線は、以前よりもさらに冷たいものへと変わっていく。ロザリアはそれを見ても何も言わなかった。
ただ、困ったように微笑んでいた。
それから、数日後。
リリアーナが階段から突き落とされそうになった。その知らせを聞いて、思わず目を見開いた。
「まあ……」
まさか、そこまでのことをする者が現れるとは思っていなかった。幸いにもリリアーナは階段から落ちることはなかったという。けれど、一歩間違えれば大怪我をしていたかもしれない。
さすがにこれを見過ごすことは出来なかったのか、その日のうちに関係者への聞き取りが行われた。
そして。
「ロザリア」
呼び止められたロザリアは振り返る。そこにいたのは、いつものように穏やかな表情を浮かべたアレクシスだった。ただ、その青い瞳は今までになく静かだった。
「アレクシス様。何かございましたか?」
「……君の友人の一人だった」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ベルナール嬢を階段から突き落とそうとしたのは」
「まあ……」
ロザリアは驚いたように目を見開く。演技ではなく、実際に驚いていた。
令嬢たちがリリアーナを快く思っていないことは知っている。自分が彼女たちを止めているように見せながら、実際にはその感情を煽っていることも確かだ。けれど階段から突き落とすなどという話は聞いていなかった。
「ベルナール嬢はご無事ですか?」
「ああ、彼女に怪我はなかった。……君は、何か知っているか?」
アレクシスの問いかけに、ロザリアはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。何も存じませんわ」
それは紛れもない事実だ。
アレクシスはしばらくロザリアを見つめ、そして。
「そうか」
ただ、それだけを告げた。その声音から、何を考えているのかは分からない。けれど、これ以上問い詰められることはなかった。
「その令嬢は、厳重注意の後、一週間の停学になるだろう」
「そうですか」
「君の友人でもある。……フォローを頼む」
その言葉に一瞬だけ目を伏せる。
――友人。
確かにそうだった。だからこそ、自分がするべきことも分かっている。
「畏まりました」
いつものように穏やかに微笑みながら答える。アレクシスは小さく頷き、そのまま踵を返した。
その背中を見送りながら、静かに考える。
――少し、行き過ぎましたわね。
令嬢たちの不満を利用したのはロザリアだ。だから完全に無関係だと言い切ることはできない。けれど少なくとも、今回の件についてロザリアは何も知らなかった。
しかしアレクシスが動いたのなら潮時だろう。これ以上は家に影響が出ると告げれば、彼女たちも馬鹿ではない。やり方を変えるだろう。
――令嬢たちには、物理的なことはもうしないように注意をしておきましょう。
そう、『物理的』なことは、と。
心の中で嗤いながら、さて、と令嬢たちの元へ向かう。その足取りは、とても軽かった。
それから。
階段での事件があってから、ロザリアは令嬢たちに物理的な危害を加えるようなことは、決してしないようにと伝えていた。それ以外については、……まあ、あえて何も言わなかったけれど。
しかし、リリアーナがアレクシスにまとわりつくのはいつものこととして。アレクシスの様子がいつもと違うように思え、そのことが気になった。あの事件以降、何かが少しずつ変わっていったのだ。
「アレクシス様!」
以前と変わらない明るい声で、リリアーナがアレクシスの名前を呼ぶ。ロザリアは思わずアレクシスへ視線を向ける。アレクシスは駆け寄って来るリリアーナに何も言わなかった。
以前なら、彼は「名前を呼ばないでくれ」と告げていた。アレクシスは自分の立場を理解している。だからこそ、婚約者がいる身で他の女性と必要以上に親しく接することを、由と思わない人だった。
なのに今のアレクシスは何も言わない。リリアーナがすぐそばにいても、楽しそうに話しかけても、「アレクシス様」とまるで親しい相手を呼ぶようにその名を呼んでも。
何も言わなくなった。
――どうして?
そのことに、胸がぎゅっと締め付けられる。アレクシスは誰にでも優しい。ロザリアに対しても、他の人に対しても。
女性として愛されていないことをロザリアはずっと前から知っていた。それでも自分は婚約者だ。彼の側にいることを許された存在だった。そして家族のように大切に思われていることも知っていた。
だから、それでいいと思っていた。それだけで十分だと、自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
どうしてリリアーナには、自分には許さなかったような距離まで許しているのだろう。名前を呼び、許可もなくアレクシスの身体に触れる。ロザリアだって滅多に触れることを許されなかったのに。
――どうして、何も言わないの?
胸の奥に小さな疑問が生まれる。
さすがに腕を組もうとしたリリアーナを、アレクシスはやんわりと押し返していた。けれど、それが何だと言うのだろう。押し返すためとはいえ、アレクシスはリリアーナに触れている。そのこと自体が、ロザリアには許せないことだった。
リリアーナがアレクシスの側へ行く。アレクシスは何も言わない。
リリアーナが名前を呼ぶ。アレクシスは何も言わない。
リリアーナがアレクシスに触れる。アレクシスは何も言わない。
何度見ても、何度聞いても、状況は変わらなかった。
そして、ある日。
ロザリアは理解した。アレクシスが何も言えないのではない。言わないことを選んでいるのだ。これまでなら他の誰にも許さなかった距離にいることを、アレクシスはリリアーナに許している。ロザリアはそう理解した。
「……どうして」
小さな呟きが零れる。
その問いに、答える者はいなかった。
アレクシスへの疑心が芽生えた始めた、ある日のこと。
「ロザリア。……これから先、リリアーナ・ベルナール嬢には関わらないでほしい」
突然告げられた言葉に、ロザリアは目を瞬かせた。
「……何故ですの?」
思わず問い返す。
これまでだって、リリアーナの振る舞いについて意見したことはある。アレクシスの婚約者として、彼女が皇太子へ不用意に近付くことを咎めるのは当然のことだった。それに今までだったらアレクシスだって、それを支持してくれていたではないか。そんな考えに、思わず避難がましい目でアレクシスを見てしまう。
けれど、返って来た答えは。
「これ以上は、君の評判が悪くなる」
そう、静かな声で告げられる。どこか憂いを含んだような表情をして、アレクシスはロザリアを見つめていた。
自分の評判が悪くなる。アレクシスはそう言った。そのことに、言葉を失ってしまう。確かにここ最近、リリアーナや側近候補たちへの言葉がきつくなっている自覚はあった。これ以上リリアーナへ何かを言えば、周囲から悪く思われるかもしれない。その可能性もあるだろう。
けれど。
――それだけなのだろうか。
そう思った。
「……そうですか」
それ以上、ロザリアは何も言えなかった。
すると。
「殿下」
少し離れた場所から、従者がアレクシスを呼んだ。
「失礼いたします。急ぎ、ご確認いただきたい書類が」
「ああ」
アレクシスは短く答えると、ロザリアへ視線を向けた。
「ロザリア」
何か言いたげに口を開く。しかし、結局その続きを口にすることはなく、「……また今度」と、そう言ってアレクシスは従者と共にその場を立ち去った。
残されたロザリアは、しばらくその背中を見つめていた。
「…………」
ゆっくりと唇を噛み締める。
――やっぱり。アレクシス様は、ベルナール嬢がお好きなのね。
だからこれ以上、自分が彼女へ関わることを許さない。自分の評判が悪くなることを理由にして、リリアーナを守ろうとしているのだろう。
「……そういう、ことでしたのね」
そうとしか、考えられなかった。
胸の奥に冷たいものが広がっていく。
どうして。
どうして、どうして。
――わたくしは、ずっとアレクシス様の側にいたのに。
七歳の時から婚約者として、友人として。そして家族のような存在として、ずっと隣にいたのに。
――なぜですの。わたくしは、何のためにこれまで……っ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
どうして、自分ではないのだろう。どうして、よりにもよってリリアーナなのだろう。ロザリアの中で、許せないという気持ちだけが次第に形を変えていく。
――リリアーナさえ、いなければ。
それは、ロザリアの中で明確に憎悪が芽生えた瞬間だった。
◇
その日、侯爵家の自室へ戻るとすぐに一人の侍女を呼びつけた。
「少し、お使いを頼んでもよろしくて?」
「はい。何なりとお申し付けくださいませ」
侍女が恭しく頭を下げると、ロザリアは机の上に置かれていた紙と筆を指差す。
「これから申し上げることを、一言一句違わず書き留めてちょうだい」
「畏まりました」
侍女が筆を取り、紙の上に構える。その様子を確認してから、ゆっくりと口を開いた。
「スノードロップを五本。それから、黄色のフリージアを三本」
侍女がさらさらと紙に書き記していく。
「ユーカリとかすみ草を、それぞれ一本ずつ添えてください。あまり大きなものではなく、小さくまとめていただきたいの」
「はい」
「そして、ワインレッドのリボンで、きゅっと結んで花束にするようお願いしてちょうだい」
「……ワインレッドのリボン、ですね」
「ええ」
侍女が書き終えたことを確認してから、ロザリアは続けた。
「花を買う場所も指定いたしますわ。大通りから少し外れた場所に、女神像のある噴水広場があるでしょう?」
「はい。存じております」
「その広場に面している花屋へ行ってちょうだい」
侍女が頷いた。
「スノードロップが五本。黄色のフリージアが三本。ユーカリとかすみ草を一本ずつ添え、小さくまとめて、ワインレッドのリボンできゅっと結んで花束にする。女神像の噴水がある広場の花屋で購入。……以上で間違いありませんか?」
ロザリアは侍女の手元にあるメモを確認する。一言一句違わず書き留めていることに満足して頷いた。
「ええ、それで大丈夫よ。そのメモは、花屋の者にそのままお渡ししてちょうだい。口頭で伝えるのではなく、書かれた通りに用意していただくようお願いなさって」
「畏まりました」
「それでは、お願いするわ」
侍女はメモを大切にしまうと、一礼して部屋を後にした。
扉が閉じる。
一人になった部屋で、ロザリアはしばらく静かに座っていた。その表情には、何の変化もなかった。
それから五日後の午後三時。
ロザリアは侍女を伴い、大聖堂を訪れていた。
高い天井を持つ堂内には、静かな祈りの空気が満ちている。色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が床を照らし、その中央には女神像が静かに佇んでいた。
堂内を歩き、ロザリアは案内役の聖職者へと歩み寄る。
「告解をお願いしたいのですが」
「承知いたしました」
そう答えた案内役へ、ロザリアは何気ない仕草で手にした小さなハンドバッグを持ち直した。その持ち手には、ワインレッドのリボンが結ばれていた。
案内役は一瞬だけそこへ視線を向け、けれど、すぐに何事もなかったかのように視線を戻す。
「こちらへ」
促され、侍女と共に奥へと進んでいく。やがて案内されたのは、静かな一室だった。
「鞄をこちらへ置いてちょうだい」
ロザリアは侍女が持っていた荷物へ視線を向ける。
「畏まりました」
侍女が指示された通りに鞄を置くと、ロザリアは続けて侍女に告げた。
「あなたは外で待っていて」
「かしこまりました、お嬢様」
侍女が一礼して部屋を出ていく。扉が閉じられると、室内には静寂が訪れた。
しばらくして、仕切りの向こうから神父の声が響く。
「お待たせいたしました。どうぞ、女神様は迷える者の言葉にも、耳を傾けてくださいます」
ロザリアは静かに息を吸う。
「……わたくしは」
言葉が一度、途切れる。
「わたくしは、聖女様を憎く思ってしまいました」
静かな告白だった。
「彼女を見るたびに、胸の奥が苦しくなるのです。どうして、あの方ばかりが……と。そんなことを考えてしまう自分が、恐ろしくて」
その言葉がすべて嘘というわけではない。リリアーナを憎んでいる。それは、紛れもない事実だった。
「憎しみを抱くことは、罪なのでしょうか」
返ってきた神父の声を聞きながら、ロザリアはゆっくりと目を伏せる。
やがて告解を終えると、ロザリアは静かに立ち上がった。
「……ありがとうございました」
そして、部屋を出る前にお布施の袋を取り出す。
「僅かではございますが、お布施を」
そう言って、テーブルの上へお布施を置く。袋の口には、ワインレッドのリボンが結ばれていた。
ロザリアはそれ以上何も言わない。ただ、いつものように穏やかな表情を浮かべたまま、侍女の待つ場所へと戻っていった。
そうして、公爵邸へ戻ったロザリアは誰もいない部屋で小さく呟く。
「……わたくしだって筆頭公爵家の娘ですもの。求めさえすれば、あらゆる『真実』が向こうから歩み寄ってくるものですわ」




