5. お持ち帰りは無理かな
和やかな気分のまま歩いていたら、ふと見覚えのある建物が目に入った。
「あ……」
通っていた中学校だ。卒業してから数ヶ月経つのに、まだ一度も足を向けていなかった。あの頃は、この校舎がとにかく大きく見えた。毎朝ここに通うのが憂鬱で、近づくだけで足が重くなったのを覚えている。それなのに今はどうだろう。見下ろすその校舎は、踏めばひと潰しにできてしまいそうなくらい、小さい。
小さな自分が、この中をあっちこっち歩き回っている姿を思い浮かべてみる。3年間、いいことも悪いこともあった……はずだ。でも、いいことって、あったっけ。そう思い返そうとするほど、浮かんでくるのは嫌なことばかりだった。馴染めなかった教室。聞こえよがしの声。
語りたくないことほど、頭の隅で勝手に再生される。今更どうでもいいはずなのに、こうして本物を目の前にすると、みぞおちの奥がひやりと冷えた。
「彩莉姉ちゃん、どうしたの?」
わたしの様子を見ていた紫菜奈ちゃんが心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない。……ねえ紫菜奈ちゃん、この小さな学校で、どんなふうに遊びたい? 一緒にたっぷりやろうね」
自分でも驚くくらい、冷たい声が出た。
「彩莉姉ちゃん、すごいやる気なのね! いいの! 一緒にやろう!」
紫菜奈ちゃんは事情も知らないまま、あどけなくそう答えてくれる。その裏表のなさが、今はありがたかった。利用するみたいで少し悪い気もする。でも、この学校の嫌な思い出を、紫菜奈ちゃんとの楽しい思い出で塗り替えてしまいたかった。彼女の好きな「遊び」で。
わたしは足を振り上げた。踵を校舎の屋根に叩きつける。ガラスが割れ、鉄骨が曲がり、あっという間に校舎は瓦礫の山と化していく。続けて、体育館も、プールも、渡り廊下も、次々と踏み潰していった。水を張ったままだったプールが割れて、水しぶきが盛大に舞い上がる。
普段の自分なら考えられないくらい、容赦のない力加減だった。これまで溜め込んでいた鬱憤を、全部その一撃にぶつけているみたいに。
「彩莉姉ちゃん、すごい迫力なの!」
「そうかな?」
紫菜奈ちゃんが目を輝かせながら、隣で一緒に校庭のトラックを踏み荒らしている。楽しそうなその声を聞いて、はっと我に返った。
崩れ落ちる校舎を見下ろしながら、わたしは妙にすっきりした気持ちになっていた。罪悪感なんて、もうほぼなかった。むしろ、胸のつかえが取れたみたいに、体が軽い。
これまでずっと、理不尽なことも笑ってやり過ごすしかないと諦めていた。それが今は、こんな乱暴な形であっても、溜め込んでいたものを全部吐き出せた気がする。褒められたことじゃない、誰かに見られたらきっと軽蔑される。そうわかってはいる。それでも今この瞬間だけは、それすらどうでもよくなるくらい、心が軽かった。
しばらくの間、二人でその場に立ち尽くしたまま、崩れた校舎を眺めていた。埃っぽい風が吹き抜けて、頬に張り付いた髪をそっと払う。ここまで派手に暴れたのは初めてだったから、少し息が上がっていた。
「なんか、すっきりした……」
小さく呟きながら学校だった瓦礫を後にした。
ひとしきり暴れたあと、視界の先に、あのお城が見えた。
紫菜奈ちゃんが最初から見つけたのに全然手出ししなかった、あのお城だ。周りのほとんどが瓦礫になった今、その姿はいっそう際立って見える。夕焼けの光を浴びて、白い壁がほんのりと橙色に染まっていた。まるで、この惨状の中で唯一、時が止まっているみたいだった。
「紫菜奈ちゃん、あそこ、行ってみない?」
「うん!」
近づいてみると、灰色の石垣も、白い壁も、思っていたよりずっと丁寧に作られているのがわかる。長い年月を経て、風雨に晒されてきたであろう、その重厚な佇まい。わたしはそっと指先で、城壁の表面をなぞってみた。ひんやりとした石の感触と、ざらついた表面の凹凸が、指先から伝わってくる。
「彩莉姉ちゃんもお城好き?」
紫菜奈ちゃんも隣にしゃがみこんで、同じように城壁に触れていた。その横顔は、さっきまでの無邪気な笑顔とは少し違って、どこか静かで、真剣なものに見えた。
「好きかはよくわからない。でもこの町の中で一番綺麗な建物だと思う」
現代の建物ってどれも同じように見えて、意外とつまらないものばっかりだった。さっきまで壊していたものもなんかいくらでも代えがきくだろう。それに比べてこのお城だけは特別に見える。
お城の周りをぐるりと歩いてみる。堀に張られた水は、夕日を反射してきらきらと輝いていた。
「ねえ、お堀の中に魚さんいるかな?」
紫菜奈ちゃんがふと堀を覗き込んで、そんなことを言い出す。こんな状況でも変わらない、その呑気さがおかしくて、思わず笑ってしまった。
「見えないけど、いたら可哀想だから、あんまり覗き込みすぎないであげてね」
たとえ小さな魚がいたとしても、今大きすぎるわたしたちの目に映るはずがないだろう。
正面の大きな門の前に立つと、その荘厳な佇まいに、思わず息を呑む。こんなに小さくなってもなお、しっかりとした存在感を放っていた。
窓の隙間から中を覗き込んでみると、暗がりの奥に、古い甲冑や屏風のようなものがぼんやりと見えた。こんなふうに覗き込むなんて、普段なら絶対にできないことだ。
「最初から、壊されなくてよかった」
思わずそう零すと、紫菜奈ちゃんはこくんと頷いた。
「うん。なんでか分からないけど、これは大事にしたいって思ったの」
「わたしも、同じ気持ちだよ」
これだけは壊したくない……そう感じさせる何かが、このお城にはあった。さっきの学校とは正反対だ。あちらは壊したくて仕方なかったのに、こちらは壊したくないと、体の奥から強く感じる。
「じゃあ、持ち帰りしたい?」
「え? こんなお城、持ち帰っても置く場所はないと思うけど?」
このお城、わたしの家より大きいはず。いや、そもそも今の身体でどうやって家に帰るの?
「紫菜奈の家には置き場があるの」
「家? 紫菜奈ちゃんの家はもしかしてすっごくデカい?」
そういえば彼女は普段どんな場所に住んでいるのかもまだわからない。気になっていたが、まだ聞く機会はなかった。
「ううん、全然大きくないの。でもこんな小さなお城を置くくらい余裕なの」
そう言った紫菜奈ちゃんは、一瞬だけ、どこか遠くを見るような目をした。ほんの一瞬のことで、すぐにいつもの笑顔に戻ってしまったけれど、その表情の意味を尋ねる勇気は、なぜかわたしにはなかった。
「それはまあ……」
お城を余裕で入れられる家なんて大きくないわけがないと思うのだけど、今のわたしたちのサイズから見ればお城はただの人形の家に見えるからね。紫菜奈ちゃんの家も紫菜奈ちゃんのサイズに合うスケールだとすれば、小さな寝室でも確かに置けそうだ。
「あ、ちょっと待って!」
わたしはお城に手を伸ばそうとする紫菜奈ちゃんを止めた。
「どうしたの? 彩莉姉ちゃん……」
「無理よ。お城を土台から抜き取るなんて。壊れるよ」
やはり簡単ではないはず。せっかく大事にしていたのに、壊れたらもったいない。
「では、このままにしておくの?」
「うん、そうだね。そうしよう!」
そう言葉を交わして、わたしたちはお城にはもう手を出さないことに決めた。町のほとんどが瓦礫になっていく中で、この小さなお城だけが、静かにそのままの姿を保ち続けている。
天守閣のてっぺんまで見上げてみる。今のわたしたちからすれば、手のひらに収まってしまうくらいのサイズしかない。それでも、そこには確かに、この町が積み重ねてきた時間の重みのようなものが宿っている気がした。
「やっぱり美しい……」
お城を挟んで座り込んだまま、しばらく二人でぼんやりと町を眺めていた。瓦礫だらけの景色の中に、ぽつんと残ったお城。それを見ていると、まだこの遊びを終わらせたくない、という気持ちが強くなっていく。
紫菜奈ちゃんの隣に座っていると、どこか本当の姉妹になったみたいな気がしてくる。血の繋がりも、出会ってからの時間もほとんどないはずなのに、この子のことがもうずっと大切に思えていた。
空はさっきよりも赤みを増していて、瓦礫の影がずいぶん長く伸びている。まだ遊び足りない。もっとこの時間が続いてほしい……そんな贅沢な願いが、胸の中に静かに芽生えていた。
「まだまだ遊ぶの?」
紫菜奈ちゃんが期待に満ちた目でこちらを見上げてくる。
「うん、まだ遊ぼう」
そう答えたわたしの声は、自分でも驚くくらい弾んでいた。




