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2. 撫でる指先と手のひら

 ……お姉ちゃん?


 お姉ちゃん、お姉ちゃん……頭の中でその言葉が何度も繰り返される。わたしは一人っ子だ。妹が欲しいと思ったことは、これまで何度もあった。それなのに、誰かに「お姉ちゃん」と呼ばれた経験は、ほとんどなかった。まさかこんな場所で、こんな規格外の少女から、その呼び方をされることになるなんて。


 小さい頃、テレビや漫画でお姉ちゃんに甘える妹を見るたび、羨ましくてたまらなかった。両親に「妹が欲しい」とせがんだこともあったけれど、結局叶わないまま今日まで来た。


 わたしに向かってそう呼びかけられたことに、頭が一瞬追いつかなかった。膝から力が抜けそうになるのを、なんとか堪える。彼女と比べれば、わたしなんてちっぽけな存在のはずなのに。それなのに、こんな可愛い子に「お姉ちゃん」と呼ばれたことが、なぜだか無性に嬉しくて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。この状況で嬉しいだなんて、我ながらどうかしていると思う。でも、湧き上がってくる感情に、嘘はつけなかった。


 見上げた彼女の姿はほとんど空を覆っていて、夕焼けの光が遮られ、わたしの足元にはすっぽりと影が落ちていた。巨大な壁がすぐ目の前に立ちはだかっているみたいだった。


 「お姉ちゃんも一緒に遊びたい?」


 しゃがみこむ、というその動作だけで、地面がまた大きく揺れる。着物の裾が擦れる音がさわさわと辺りに響き、強い風がまとわりつくように吹きつけてきた。ビルよりも大きかったはずの体が、山が動くようにゆっくりとわたしの目の前に降りてきた。


 間近で見る彼女の顔は、恐ろしいほど整っていた。長いまつ毛の一本一本まではっきりと見えるほどの距離で、大きな瞳がわたしをじっと見つめている。頬はほんのり上気していて、口元にはずっと笑みが浮かんだままだ。恐怖のはずなのに、その造形の美しさについ見惚れてしまいそうになる自分がいた。彼女が息をするたびに、生ぬるい風がふわりと吹きつけてくる。


 「わ、わたしは、小見潟(こみがた)彩莉さいりって言います……!」


 目一杯声を張り上げて名乗ってみた。相手は子供のように見えるけど、こんなサイズでわたしなんかよりずっと偉大な存在だと感じるから、つい敬語になっちゃった。


 「何か言ってるの?」


 少女は不思議そうに首をかしげるだけだった。聞こえないのかな?


 当然だ。視界いっぱいに彼女が映っているせいで、すぐ近くにいるように錯覚してしまうけれど、実際には彼女の耳までまだ数十メートルもの距離があるだろう。声なんて、届くわけがない。改めて突きつけられたそのスケールの違いに、目眩(めまい)がしそうになった。


 少女は答えを待たずに、すっと右手を伸ばしてきた。振り下ろされてくるその手のひらの影が、まず頭上をすっぽりと覆う。空気が押し出されるようなごうっという音が耳元をかすめた。近づいてくるにつれ、指先だけでもわたしの頭よりも大きいとわかる。よく見れば、指紋の谷まではっきりと見える。


挿絵(By みてみん)


 ……潰される!


 膝ががくがくと震え、逃げようにも、もう体が言うことを聞かなかった。反射的にそう覚悟した。指一本でわたしの頭くらい簡単に潰せてしまうはずだ。


 その指先が、わたしの頭にそっと触れる。


 覚悟していたはずなのに、触れてきた指先はびっくりするくらい優しく、そして柔らかかった。


 なでなで、と髪を()でられるたびに、恐怖よりも、なんだか気持ちよさの方が勝ってしまう。指の腹が頭を包むように動くたび、温かい体温がじんわりと伝わってくる。なぜか胸の奥がふわふわと浮き立ってしまうのはどうしてだろう。大きな生き物に懐かれているような、そんな不思議な安心感さえ覚えてしまう自分がいた。


 怖いのに気持ちいい。気持ちいいのに、まだ心のどこかで怖い。そのふたつの感情が同時に押し寄せてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 わたしは思わず、ぎゅっと目を閉じた。目を閉じた世界の中で、指の感触だけがやけに鮮明に伝わってくる。次に何が起きるのか、まったく想像がつかなかった。頭の片隅で、もしこのまま握りつぶされてしまったらと想像してしまい、家族の顔がふっと脳裏をよぎる。それなのに、なぜだか涙も悲鳴も出てこなかった。ただ、指先の柔らかさだけを、ぼんやりと感じ続けていた。


 「よし、一緒に遊ぼう!」

 「え?」


 すぐ近くで、少女の声が聞こえた。さっきと比べてだいぶ小さく聞こえた。ずっと遠く、上の方から響いていたはずのその声が、今はまるで自分より下の高さから聞こえてくる。


 ……おかしい。


 声だけじゃない。頬に触れる風の感触も、足の裏に伝わる地面の感覚も、さっきまでとは何かが決定的に違う。


 恐る恐る目を開けたわたしは、目の前の光景に息を呑んだ。


 少女がわたしの頭を撫でるために、今大きく手を上げている。その少女は、わたしより一回り小さかった。


挿絵(By みてみん)


 「え……と?」


 わたしが声を出した後、少女はわたしの頭から手を下ろした。小さな手だ。いつから頭の上に? さっきまではこんなちっちゃな手ではなく、とてつもなく大きな……ただの指先だったのに。


 信じられなくて、何度も目をこすった。けれど、何度見直しても同じだった。さっきまで見上げていたはずの目線が、今は少し見下ろすくらいの角度になっている。


 周りを見回してみる。さっきまで見上げていたはずのビルが、今は自分の足元にあった。一部瓦礫(がれき)と化した町並みが、まるでジオラマみたいに小さく広がっている。


 わたしは……彼女と同じくらいの、いや、彼女よりも大きな存在になっていた。


 「なんで?」


 自分の手を目の前に持ち上げてみる。さっきまでと変わらない、見慣れたはずの自分の手のひら。着ている服も、何ひとつ変わっていない。薄い水色の生地に、白い小花をぽつぽつと散らした半袖のワンピース。ふんわりとふくらんだ袖に、襟元でちょこんと結んだ赤いリボン、前を留める小さなボタン、腰できゅっと絞ったベルト……家を出る前に選んだ、いつもの格好のままだ。それなのに、周りに広がる景色はまるで違う。ミニチュアみたいに小さくなった町並みが、手のひらの隙間からいくつも見えてしまう。


 恐る恐る、足を一歩踏み出してみる。足元を見下ろせば、さっきまで歩いていたはずの遊歩道が、わたしの足を収めるだけでも精一杯くらい小さくなっている。頬に当たる風の温度も、さっきまでより冷たい。高いところにいるから、なのだろうか。


 遠くに視線をやれば、山の稜線(りょうせん)も、海に浮かぶ小さな島影も、少し歩けば簡単に辿り着けそうな距離だと感じる。


 何が起きたのか、まったくわからない。


 混乱するわたしをよそに、目の前の少女はきょとんとした顔をした後、次第に嬉しそうな笑みを浮かべていく。まるで、これがごく当たり前のことだとでもいうように。


 「お姉ちゃんも一緒に遊びたかったのね!」

 「え?」


 少女は目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。手を叩いて喜ぶその仕草は、さっきまでとまったく変わらない、天真爛漫(てんしんらんまん)な子供のものだった。


 困惑と、それから確かな高揚が入り混じって、うまく言葉にできない。さっきまで抱いていた恐怖はどこかへ消えて、代わりに得体の知れない(たかぶ)りが胸を満たしていく。


 これから何が始まろうとしているのかよくわからない。ただひとつわかるのは、さっきまで見上げていた少女の笑顔を、今度はわたしが見下ろしているということだけだった。


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