1. 沖と坂の間
午後5時。夏の終わりの風が心地いい。今日も特に予定のなかったわたしは、いつものように見慣れた町で一人で歩いていた。
小見潟彩莉、15歳。この春から高校一年生になったばかりの、どこにでもいるような女の子……のつもりだ。背中まで伸びたストレートの髪が潮風に靡く。今日は薄い水色のシャツワンピースを着て、なんとなく気の向くまま歩いていただけだった。
こんな夕方はいつも、当てもなくこの遊歩道を歩いて、海を眺めながら気持ちを落ち着けるのが習慣になっている。誰かと約束をするよりも、ひとりでぼんやりする時間の方が、なんだか性に合っている気がした。
空はまだ夕焼けには早く、青とオレンジが混ざり合ったやわらかい色をしている。山と海に挟まれたこの小さな地方都市には、これといって特別なものもない。強いて言えば、町の中心に建つお城と、一番高い70メートルのビルくらい。海沿いには小さな灯台や砂浜もあるけれど、観光地というほどでもない。
遊歩道はこの先、ゆるやかな坂になって高台へと続く。そこまで上って町を見渡してから引き返すのが、いつものコースだった。
……そんな、いつも通りの夕方のはずだった。
「え……?」
坂を上りきったところで、わたしはふと沖合の異変に気づいた。
水平線の近く、何か黒い影が立っている。最初は座礁した船か、大きな岩礁かと思った。でも、目を凝らせば、それは間違いなく人の形をしていた。
しかも、その影は動いている。一歩、また一歩、途方もない歩幅でこちらへ向かって歩いてくる。膝から下の脚の一部だけが海に沈んでいて、それより上ははっきりと海面から突き出していた。その膝の高さだけでも、沖に停まっているはずの漁船よりずっと高い。
……途方もなく、大きい。
いつからそこにいたのか、どこから来たのかもわからない。気づいた時にはもう、その姿はそこにあった。
潮の匂いがいつもより強く鼻をつく。カモメたちが一斉に甲高い鳴き声をあげて飛び立っていくのが見えた。まるで、これから何かとんでもないことが起きると、先に気づいていたみたいに。
少女……としか呼びようのないその影は、左右で結んだ長いツインテールを、まるで巨大な触手のように潮風に靡かせながら揺らしている。紫色の着物のような服を纏った、その姿は……途方もなく、大きかった。帯には大きな花の柄が織り込まれていて、袖や裾のあたりは風にあおられるたびにひらひらと揺れる。髪飾りらしき小さな赤いリボンが、ツインテールの根元でちらりと光った。
どれくらい大きいのか、まるで想像がつかない。頭の中で必死に何かと比べようとしても、思いつく限りのものを並べて、彼女の大きさには届かない。ビルより大きく、山よりは小さい……そのくらいしか、言葉にできなかった。
「か、可愛い……」
少女の見た瞬間の正直な印象をつい口にしてしまった。こんなに大きいのに、おかしいとは思うのだけど。
わたしは昔から、可愛いものを見るとつい目で追ってしまう。人形でも、小動物でも、後輩の女の子でも。自分がそれに相応しい人間かは、あまり自信がないけれど。
サイズを別にして容姿だけ見れば、この少女は十歳くらいの小学生に見える。「幼女」と呼ぶには育っているが、わたしより年下なのは確かだ。一人っ子のわたしは、妹がいたらこんな感じなのかな、なんて柄にもなく想像してしまった。
「綺麗な町、いっぱい遊べそうなの!」
遠くを歩いているはずなのに、少女の元気そうに発した声は聞こえている。見た目通り可愛らしくて子供っぽい声だ。
少女がさらに一歩踏み出すと、大きなうねりが沖から押し寄せて、停泊していた小さな漁船を軽々と転覆させた。少女の膝よりも低い灯台のすぐ脇を通り過ぎる時、彼女の足がわずかに触れただけで、灯台はぐらりと傾いてそのまま倒れ込んだ。
少女はそんなことにはまるで気づいていない様子で、楽しそうに笑いながら大きな歩幅で浜を歩き、やがて完全に上陸を果たした。
海沿いの駐車場を踏みしめた瞬間、並んでいた乗用車の列が、まるで空き缶を踏み潰すみたいにぺしゃんこになる。歩く拍子に足先が触れた車は、ちょいと蹴り飛ばされる。その足のサイズは、恐らく大型バスくらいあるだろう。それくらい、桁違いのスケールだった。
彼女の足と比べたら、ここの車はただのトミカに見える。男の子だったらその車を拾って楽しく遊んでいるだろうと、勝手に想像してしまったが、彼女は女の子だからあまり車に興味なく、もっと大きなものを探しているようだ。
少女はさらに歩を進め、気まぐれにしゃがんで商店街のアーケードに手を伸ばす。指先が触れただけで、屋根はあっけなく崩れ落ち、看板がバラバラと宙を舞った。彼女はその光景を見て、けらけらと声をあげて笑う。砂の城を踏み崩して喜ぶ子供と変わらない、あどけなさだった。
その先にかかる小さな橋も、少女は気にする様子もなく踏み越えていく。橋桁がびしびしと軋む音を立てて、真ん中からぽっきりと折れた。踏んだ足は川に落ちたが、その深さは彼女の下駄すら沈めないくらい浅かったようだ。
少女がこの町で一番高い、あの70メートルのビルに近づいていく。
「70……メートル?」
その瞬間、わたしはようやく少女の身長を把握できた。あのビルとほとんど同じくらいだから、つまり70メートル前後もあるのだ。
少女は両腕を広げると、大好きな抱き枕にでもするみたいに、ビルごと優しく抱きしめた。ガラス張りの外壁がみしみしと軋み、今にも割れそうな音を立てる。
今このビルの中にいる人たちは、どんな気持ちでいるだろう。少女が腕に力を込めるたび、崩れやしないかと、遠くから見ているわたしまで息を詰めてしまう。
結局ビルは崩れずに持ちこたえた。建物が頑丈なのか、彼女が加減しているのか、判断はつかなかった。
ビルを抱いて満足したあと、少女の視線がふと、町の中心に建つお城へ向いた。濃い灰色の屋根瓦が、ぽつんと浮かび上がっている。
「わあ、綺麗なお城なの!」
少女は嬉しそうに声をあげ、しばらくその屋根を見つめていた。でも、お城の庭園に踏み入ることはしない。もっと後でじっくり遊ぶために、大事に取っておくとでもいうように。
満足したように頷くと、少女は視線を上げ、また歩き出した。町の中心部から、今度はこちらの方角……高台に向かって、真っ直ぐに近づいてくる。一歩進むごとに、行く手にある家々が次々と踏みつぶされていった。屋根が潰れ、壁が崩れ、砂埃が舞い上がる。ドミノが連鎖して倒れていくように、被害はあっという間にこちらへと迫ってくる。
ふと、少女はあるビルの屋上駐車場に停まっていた一台の乗用車に目を留めた。指先でひょいとつまみ上げると、興味なさそうにこちらの方向へ軽く放り投げる。
車は放物線を描いて宙を舞い、ここの近くの建物の壁に激突した。その衝撃でガソリンにでも引火したのか、直後にどんっという爆発音とともに炎と黒煙が上がる。
「何だこりゃっ!」
「きゃああああっ!」
「逃げろ、逃げろ!」
周囲のあちこちから悲鳴があがる。人々は大きな荷物も捨てて、山側へ我先にと走り出していた。
少女の足がまた一歩、地面を踏みしめる。ずしん、という重い震動が足の裏から伝わってきて、思わずよろけそうになった。近くの電柱がなぎ倒され、切れた電線がバチバチと火花を散らす。駐車していた車が鉄くずみたいに押し潰される音と、土煙が舞い上がる音が入り混じった。それなのに、少女の顔にはまるで悪びれた様子がない。ただ楽しくて仕方ない、というふうに目を輝かせている。
……怖い。間違いなく、怖い。
なのに、その笑顔から目が離せない。壊れていく町よりも、逃げ惑う人たちよりも、無邪気に燥ぐ少女の表情の方が、わたしの意識を強く捉えて離さなかった。こんなにも呆気なく町が壊されていくのを見れば、恐ろしくないわけがない。それなのに、心のどこかでは確かにときめいている自分がいる。その圧倒的な大きさそのものに、場違いだと知りつつ惹きつけられてしまうのだ。
「遊ぼうよ!」
そのとてつもない体から発せられる声は、遠雷さながらに地面を震わせるほど大きい。それなのに、声色そのものはあどけなくて可愛らしい。あまりのギャップに、頭がついていかなかった。
少女が声をあげるたびに、周囲の人たちはますます逃げ惑う。でも、逃げるどころか、わたしの足は彼女のいる方向へ進んでいく。彼女と比べて全然ちっぽけな歩幅だけど、心の距離は縮む……そんな気がする。
「君、危ないよ! 逃げた方がいい」
すれ違った知らないおばさんの心配そうな声が聞こえた。それでもわたしは逃げる気がない。
それに、彼女のたった一歩はわたしが全力で走っても追いつけない距離だ。どうせ逃げ切れないのなら、いっそ最後まで、この子の姿を見ていたい。逃げるという選択肢は、いつの間にかわたしの中から消えていた。
周りを見れば、もう誰もいなかった。親子連れも、犬を連れたおじさんも、とっくに背を向けて走り去っている。取り残されたのは、わたしひとりだけ。
少女がこちらに近づいてくる。一歩近づくたびに、生ぬるい風がびゅうっと吹きつけてきて、髪もスカートの裾もばさばさとはためいた。息をするのも忘れて、わたしはただその場に立ち尽くす。
何十メートルという距離まで迫った時、ふと、彼女の大きな瞳とわたしの目が合ったように気がする。
大きな瞳の中に、豆粒みたいに小さなわたしが映り込んでいる気がした。少女はしばらくじっとこちらを見つめたまま、何かを確かめるように小首をかしげる。
「独りなの? お姉ちゃん……」
少女のその声と顔は、今のわたしの意識の全てだった。
2年ぶりの新作投稿です。
今画像生成AIの発達で物語のシーンを忠実に再現できる挿絵ができました。細部は違和感が残っているので、参考程度に。各話で挿絵を1-2枚を入れます。




